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屏風ヶ浦から長浜へ、旧海岸線めぐり歩き


2.東漸寺、杉田八幡神社、妙法寺から梅林小学校へ

1.京急・屏風浦駅から浅間神社、杉田へはこちら。




JR新杉田駅前、聖天橋(しょうてんばし)交差点信号の手前から右へ入り、東漸寺へ。




信号手前の角には、江戸名所図会(えどめいしょずえ)に描かれた煎海鼠(いりこ。煎った海鼠(ナマコ))に関する解説板が立っている。




臨済宗建長寺派・霊桐山東漸寺(れいとうざん とうぜんじ)。




新編武蔵風土記稿によれば、開基は正安三年(1301)北条宗長(むねなが。定長とも。第二代執権北条義時の曾孫。名越北条氏の支流)、開山は宏覚禅師。
ただし、これは釈迦堂の梁牌(りょうはい)に記されていた日付を元にした見解であり、正安三年に釈迦堂が完成したということを表すにすぎない。

後述するように東漸寺の梵鐘は「永仁の鐘」と呼ばれ永仁六年(1298)の鋳造。その銘文には「久良岐の古招提、号して東漸と曰」い「宗鑑(明覚禅師)」が「禅刹と為し」たと刻まれている。寺の文書によると東漸寺は古くは真言宗の道場であったとされている。
また「延宝伝灯録」という書物には「宗鑑(明覚禅師)」が「弘安四年(1281)」に「東漸寺に住す」と記されている。ここは新編武蔵風土記稿巻之七十九久良岐郡之七本牧領杉田村・東漸寺にも引用されている。

その他の記録も総合すると、東漸寺は北条宗長が父である時長の菩提を弔うために開基となり、宗鑑(明覚禅師)によって弘安四年(1281)より以前に開山された。やがて堂宇が整った頃に宗鑑から北条宗長に対して宗鑑の兄弟子である徳悟(宏覚禅師)に開山になってもらうよう推薦があり、正安二年(1300)に宏覚が入山した、というのがおおまかな経緯となろう。

なお宗鑑、徳悟ともに鎌倉・建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう。大覚禅師)の弟子である。

参考・磯子の史話。




山門(昭和39・1964年築)。山門の外側にあった惣門(総門)は明治11年(1878)の焼失後再建されていない。

巡らされた塀に引かれた白い筋は、寺院の格式の高さを示す。東漸寺は室町時代前期に定められた五山十刹(ござん じっさつ)制度における、関東十刹の第七位であった。

鎌倉時代まで遡ると、創建された当時から東漸寺は金沢文庫の称名寺(真言律宗)と並ぶ大寺院であった。東漸寺は執権北条氏の分家である名越北条氏(なごえ ほうじょうし)の一族が、そして称名寺は金沢北条氏(かねさわ ほうじょうし)といった北条一門がそれぞれ開基となり、いずれも広大な寺領を有した。
これらの寺院は三方を山に囲まれた鎌倉の外縁部海岸線に位置し、鎌倉防衛の要衝としての役割も担っていた。広大な寺域は、有事には多くの兵が滞留できたのである。

同時に金沢、杉田はともに山海に挟まれた風光明媚な地でもあった。
金沢の称名寺は鎌倉・極楽寺と並び関東における律宗の一大拠点であったが、同時に称名寺の金沢文庫には坂東のみならず京からも数多くの学僧が訪れ、学問の一大拠点ともなった。
一方、杉田の東漸寺は鎌倉・建長寺に連なる禅宗の拠点であり、五山の禅僧による五山文学の拠点として花開いた。僧たちはその風光明媚な地を清遊し、漢詩を吟じた。そのなかには鎌倉・円覚寺を開山した無学祖元(むがくそげん)の名も見られる。詩を刻んだ詩板二枚は今も寺に所蔵されている。




詩板。画像出典・図説かなざわの歴史。




琵琶池と、虎渓橋。いずれも東漸寺十境の一つと案内され、往時のそれが再現されている。

十境とは、禅宗寺院において自然とのつながりや風景を重んじて堂や橋、山や川などの風物を数えること。




今前来(きんぜいらい)地蔵。かつては国道16号沿いの聖天橋そばに立っていた。聖天橋は昭和30年(1955)ごろまで石橋が存在したが、やがて橋もなくなりこの地蔵も東漸寺の境内に移された。

台座下の台石正面には七言絶句の漢詩、側面には歌が刻まれている。「にくむととも にくみかへすな にくまれよ にくみにくまれ はてしなければ」
参考・磯子の史話「区内ところどころ」




永仁の鐘。オリジナルは永仁六年(1298)の鋳造であり釈迦堂に保管されている。現在鐘楼に吊り下げられているのはレプリカとなる。




東漸寺の仏殿である釈迦堂(県重文)。調査により鎌倉時代後期の正安(しょうあん)三年(1301)の梁牌(りょうはい)が確認されている。案内碑に見られる「日本最古の建造物」というのは構造材の一部でも建築年代が明確な禅宗様建築としては、ということであろう。

14世紀(1300年代)の初頭というその時期は、禅宗様(ぜんしゅうよう)の建築が造られるようになった初期のころにあたる。禅宗様建築は、建築年代の明確なものについては禅宗寺院の建立が始まった13世紀(1200年代)はおろか14世紀のものでも大がかりな改修を経ることなく現存するものはない。

元応(げんおう)二年(1320)の墨書が柱に確認されている功山寺(こうざんじ。山口県下関市)仏殿(国宝)は創建当初からの建物がほぼ残っているものの、内部の海老虹梁や火灯窓の様式は14世紀そのままではなく15世紀以降の根本的な改造を経ていると推察されている。
一方、正福寺(しょうふくじ。東京都東村山市)の地蔵堂(国宝)は15世紀初期(応永14年・1407)の建築。円覚寺(えんがくじ。鎌倉)の舎利殿(国宝)は鎌倉西御門・太平寺からの移築であり正確な建築年代は不明であるが、概ねこれらの仏殿に初期の禅宗様の特色が最も色濃くでている、とされる。

開基で触れたように正安三年(1301)という年は宏覚禅師の入山後。この年は北条宗長の父時長の五十回忌にあたり、正安三年の堂はその菩提を弔うための再築であるとされる。
その後、室町時代における鎌倉の戦乱期を経て文明年間(1469〜1487)に現在の釈迦堂の先代となる堂が、正安三年の堂よりも規模を縮小して建立された。昭和46年(1971)まで存在したその堂に、正安三年の梁牌が残されていた。古材を転用したのだろう。先代の堂は建立されたのち500年もの間に数々の大修理がなされた。

昭和46年(1971)には先代の堂を解体。基壇(きだん。堂の基礎部分)外周と堂内柱位置の発掘調査がおこなわれた。その結果、先代の堂は文明年間の建立以降、戦国時代においても火災に遭っていないことが確認された。
そして、昭和56〜57年度(1981〜82)に解体復原修理工事が完成した。これにより、円覚寺舎利殿や正福寺地蔵堂に見られる初期の禅宗様建築の様式が忠実に再現された。現在の堂は少なからぬ部材が新材に置き換わっているということになろう。

釈迦堂は門の内側には入れないので、外側から見学する。




方三間(ほうさんげん)、裳階(もこし)付きの堂。

方三間とは堂の母屋(もや。建物を取り巻く裳階の部分を除いた、屋根を支えている構造本体の部分)の柱の間隔が正面、側面共に三つずつとってある堂のこと。長さの単位である「間(けん。一間=六尺(およそ1.8m)」の意味ではない。
裳階とは堂を取り巻くようにつけられた庇(ひさし)のような部分。

入母屋屋根(いりもや やね)は反りがとても大きく、禅宗様の初期の特徴が色濃い。檜皮葺(ひわだぶき)、こけら葺といった素材ではなく銅板葺ではあるものの、初期の禅宗様の特徴が復原工事にあたり取り入れられている。

方三間の堂は、京・鎌倉の五山寺院の創建時に見られたという方五間の堂よりは小規模であるが、数としてはこちらの規模の方が全国に数多い。
なお堂の建築年代のところで触れたように、五山寺院の仏殿(本堂)は中世のものは現存しない。中世の往時を偲びうる大きな仏殿は、真言宗・不動院の金堂(国宝)が広島市にある。密教寺院の本堂(金堂)であるのに禅宗寺院の本堂(仏殿)の様式となっているのは、山口市にあった守護大名山内氏ゆかりの禅宗寺院の仏殿を移築したため。不動院金堂は現存する中世の禅宗様の仏殿では最大の規模を持つとされる。




屋根の軒(のき)には垂木(たるき)を放射状に配した扇垂木(おうぎだるき)が見られる。扇垂木は禅宗様建築の際立った特徴のひとつ。一方、裳階は平行垂木。




軒下には尾垂木(おだるき)がぬっと突き出た三手先(みてさき)の組物(くみもの)がびっしりと並ぶ。中世以降、塔でなく堂に三手先の組物が用いられるのは禅宗様の特徴とされる。




壁は縦にはめられた板壁、窓は火灯窓(かとうまど)。火灯窓は現在一般的に見られるものは下に向かって広がる末広がりの形だが、初期の火灯窓は下に向けて真っ直ぐに(垂直に)延びている。
欄間(らんま)は波形の波欄間(弓欄間)。組物(くみもの)は柱の上だけでなくその間にもびっしりと配されている。




正面中央の出入口には細い木枠に板をはめ込んだ桟唐戸(さんからど)。
そして、桟唐戸の両脇に設けられた出入口が火灯をあしらった火灯口(かとうぐち)になっているのは、近世以降の再築は別として現存する中世の禅宗様建築では円覚寺舎利殿、正福寺地蔵堂にしか見られない。東漸寺の由緒に鑑みて、復原された釈迦堂の造りは初期の禅宗様の再現が徹底したものになっている。




真楽庵本坊・庫裏。

真楽庵は東漸寺の塔頭(たっちゅう)。鎌倉時代ののち、南北朝期に開創された。塔頭とは大寺の高僧が隠居所とした庵などで、いわば寺院内の寺院。
東漸寺は鎌倉末期から室町初期にかけての最盛期には六つの塔頭を擁した大寺院であったが、明治期における社寺の整理により真楽庵の本坊を以て本寺東漸寺に代えることとなった。現在ではこちらの堂が本堂として利用されている。




六地蔵と、善日丸地蔵(中央)。




墓地に御邪魔して、背面からの眺め。古式ゆかしき禅宗様の仏殿の向こうにそびえる、超高層タワー。


東漸寺を後にして杉田八幡神社へ向かう。




国道16号の先、橋脚の高い根岸線のガード下をくぐり右折、再度ガード下をくぐって行くと突き当りに鳥居がある。




杉田八幡神社(杉田八幡宮)。

社伝によると創建は康平六年(1063)。源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ。八幡太郎)父子が朝廷の命により奥州安倍氏を討伐(前九年の役。1051〜1062)、戦勝の御礼に源氏の氏神である京・石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を頼義が鎌倉に、義家が杉田に勧請したのがその起こりとされる。建久三年(1192)には源頼朝が社領を寄進、久良岐郡(くらきぐん)の総社と定めたという。

江戸時代前期の延宝年間(1673〜1681)のころからは隣接する幼児園敷地に建っていた日蓮宗妙観寺が別当として八幡宮を管理。領主の間宮氏が社殿を再建し、久良岐郡十二箇村の総社と定められた。

明治に至ると神仏分離により妙観寺は廃寺。八幡宮は村社に列せられて八幡神社となった。




向拝(こうはい)の下、木鼻(きばな)の彫り物は獅子鼻、獏鼻。




社殿の前には珍しい狛犬(こまいぬ)が見られる。一般的に見られる大陸伝来の獅子の狛犬とは異なる、不思議な愛嬌が感じられるこの動物はいったい、何の動物だろうか。




石には元禄五年(1692)と刻まれており、妙観寺住職により奉納された。









社殿に向かって右の石灯籠には灯明台に幕末の「嘉永壬子(かえい みずのえ ね)年」(嘉永五・1852)と彫られている。




境内背後の山は妙観寺山。山すそに稲荷社の赤い鳥居や忠魂碑が見える。

江戸時代には社地であった妙観寺山は眼下に杉田の梅林を望む山であった。江戸から観梅にやって来る人々で、境内から山上にかけては大変賑わったという。

開発著しいこの界隈にあって幾らかでも残された木々の緑に、昔日の面影を偲ぶ。


八幡神社を後に、妙法寺へ。




石の鳥居前から国道16号に戻る手前の角を右へと進んでいくと、すぐに妙法寺の塀沿いとなる。




妙法寺の山門前にはビャクシンの巨木。推定樹齢600年(選定当時)というこの古木は、かながわの名木100選に選ばれている。




日蓮宗牛頭山(ごずさん)妙法寺の山門。妙法寺はかつての杉田梅林の中心地。




杉田の地は江戸時代、一大観光地である杉田梅林への道が東海道保土ヶ谷宿から分岐して連絡しており、多くの人々が行き交っていた。保土ヶ谷宿・金沢横丁には杉田梅林への道標が残っている

江戸時代後期の江戸琳派絵師・俳人である酒井抱一(さかい ほういつ)が「これはこれは こゝをや梅の 吉野山」と詠み吉野(奈良県)の桜と対比させたという、杉田の梅林。

その起こりは戦国末期の天正年間(1573〜1592)、時の領主であった間宮氏が梅樹の植え付けを奨励し果実を売らせて生活の一助とさせたのが始まりとされる。元禄年間(1688〜1704)にはすでに36,000本の規模の梅林であったという。
江戸時代後期には梅実の収穫は年400石にものぼり、梅干を運ぶ和船が杉田浦から出帆した。なお和船の積量である1石は10立方尺(およそ30p立方×10)。
梅林は根岸から富岡まで広がり芳香を漂わせたといい、妙法寺はその中心地となった。

時代が明治に入ってからもにぎわいを見せた杉田の梅林であったが、明治の中ごろ辺りから梅樹は老衰や塩害により次第に衰退。明治末期から大正期には復興が試みられる。八幡神社裏の妙観寺山から妙法寺山(牛頭山)にかけては観梅の公園が造られて杉田公園と名づけられた。公園には茶屋が三軒設けられ、名物の「梅びしお」「梅甘露」やら観梅の句を記すための硯や短冊も用意された。

戦後になると、さしもの杉田梅林も開発の波という時代の流れに抗うことはできなかった。今ではその名残をわずかに見せるのみ。




「東都花暦 杉田ノ梅」(溪斎栄泉画) 画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。




新編武蔵風土記稿 杉田村梅林図  画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。




本堂の前庭には今でも数十本の梅が植えられている。




山門を入ってすぐの「天覧梅」。




2月も下旬に差し掛かるこの時期、天覧梅は盛りを過ぎていた。




枝垂れ梅の「照水梅」。
先代の梅樹は明治17年(1884)と19年(1886)に英照皇太后(孝明天皇の女御)・昭憲皇后(明治天皇の皇后)両陛下が観梅に行啓されており、記念碑が建立されている。




照水梅はつぼみも多く、まだまだこれから。




先代の照水梅。 画像出典・磯子の史話。




古木に咲き誇る梅の香が、境内に春を呼ぶ。









樹齢700年とされる、日荷上人御手植えの榧(かや)。日荷上人はそれまで真言宗であったこの寺を日蓮宗に改めた。




境内にそびえる、イチョウの古木。




山の斜面に沿って墓地が広がる。背後の山を牛頭山(妙法寺山)と称した。




間宮(まみや)一族(杉田間宮氏)の墓。
杉田間宮氏は笹下(ささげ)間宮氏の分家。笹下間宮氏の数代前、間宮氏は北条早雲が伊豆・韮山城を本拠としていた頃からの譜代の家臣であった。権現山の合戦(神奈川区)では間宮信盛が奮戦した記録が残る

戦国時代初期には杉田の地は後北条氏配下の水軍の拠点(杉田湊)として、笹下城(ささげじょう。港南区)に配置された間宮氏がその配下においていた。小田原北条氏の第二代氏綱(うじつな)が相模から武蔵へと領国を拡大していく頃には、間宮氏は氏綱の配下で勢力を広げていった。
戦国時代中期以降、間宮氏は小田原城の支城である玉縄城(たまなわじょう。鎌倉市)の第三代城主北条綱成(つなしげ。黄八幡)に属し、杉田浦の防備を任されていたと考えられている。対岸の房総半島は後北条氏と敵対する里見氏の支配地。手強い水軍を有する里見氏に対しての防衛の拠点として、杉田湊は重要な役割を担った。

戦国時代末期、秀吉の小田原攻めに対して笹下間宮氏は箱根・山中城(やまなかじょう。静岡県三島市)の出城を守備。間宮康俊を始めその多くが討死した。杉田間宮氏は時の当主であった信繁が小田原開城の使者としてその任を果たす。
江戸時代に入ると後北条氏家臣はその多くが居村で名主となったが、信繁は家康により知行を安堵され、のちに旗本に取り立てられた。杉田梅林の整備は信繁の代になされている。

なお、江戸時代後期に樺太を探検した間宮林蔵は常陸(ひたち。現茨城県)の出身であるが、その先祖は笹下間宮氏に連なる。




境内の一角に立つ、牛頭天王殿(ごずてんのうでん)。背後の山は牛頭山。

縁起によれば、妙法寺と牛頭天王(インド・祇園精舎の守護神)との関係は神話の世界、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝説に遡る。ヤマトタケルが横須賀の走水(はしりみず)から上総(かずさ。千葉県)へ渡ろうとしたその時、船は暴風雨により杉田の沖まで押し流された。背後の山の大松に、自らが信奉する須佐之男命を見出したヤマトタケルは上陸して一心に祈り、静まった海を無事に上総まで渡る。

そこから時代が下って平安初期の弘仁元年(810)、弘法大師が諸国巡錫(じゅんしゃく)のおり杉田の地で日本武尊の霊跡に須佐之男命すなわち牛頭天王を祀ろうと京の八坂祇園社の神を勧請して社を創建したのが牛頭天王社の始まり、とされる。
そして同時に真言宗の一宇が開かれ大日如来が祀られた。当時の寺は自下(じけ)寺といった。日蓮宗に改宗され妙法寺となったのは南北朝期の文和元年(1352)、日荷上人による。

明治の世に神仏分離がなされると、牛頭天王社は鎮守の神社としては寺に存続することができず、境内仏堂牛頭天王殿として温存された。

参考・磯子の史話。


妙法寺を後に、梅林小学校へ。山門を背に、奥へと進む。




梅林小学校への案内。




坂を上っていく。




梅林小学校。
梅林小学校は昭和35年(1960)に杉田小学校から独立、開校。横浜市立の小学校としては珍しく町名を冠さないその名は、杉田梅林の名残りを後にとどめていきたいという願いから名付けられた。




校地に沿って、数十本の梅が植えられている。




西門・体育館沿いに植えられた杉田梅。




一重白梅の杉田梅(すぎたうめ)。




現在では殆どが小田原の曽我梅林で栽培されているという杉田梅。大粒の、酸味の強いねっとりとした果肉の実をつけるのが特徴。




校地を道なりに進み、車止めの向こうへ。









そこは杉田梅林ふれあい公園。梅の木が何本か植えられている。




公園の一角、梅林小学校寄りにある螺旋階段を下りていくと、国道16号に抜けられる。




16号を富岡方面へ。このあたりで磯子区から金沢区となる。

現在の金沢区域(旧久良岐郡金沢町など)は昭和11年(1936)の第四次合併で横浜市に合併、磯子区に編入された。昭和23年(1948)には金沢区として磯子区から分離された。

前方には富岡トンネル。現在のトンネルは昭和51年(1976)竣工。
富岡隧道が初めて開削されたのは明治40年(1907)。それまでは横浜(開港場)方面から富岡へ行くには江戸時代のように歩いて山越えするか、船で海を行くしかなかった。




富岡トンネルを抜けていく。




鳥見塚(とりみづか)交差点。左折すれば富岡総合公園。


3.富岡総合公園から長昌寺・芋観音、慶珊寺へ。  まち歩きトップに戻る。