まちへ、森へ。

幻の開港場神奈川〜前史とその後

2.本覚寺から青木橋、幸ヶ谷公園を経て神奈川公園、台場跡へ

 

1.浅間下から台町、高島山へはこちら。

 

 

曹洞宗青木山延命院本覚寺。
鎌倉時代の初期、嘉禄2年(1226)開山。室町時代後期の天文元年(1532)にはそれまでの臨済宗から曹洞宗となった。ちょうど権力者がそれまでの関東管領上杉氏から戦国大名の後北条氏に代わっていく頃であり、禅宗寺院の勢力図も変わっていく頃である。

なお、禅専門道場として始まった鎌倉・建長寺(臨済宗建長寺派大本山)の開山は建長5年(1253)。それより遡ること半世紀、建仁2年(1202)開山の京都・建仁寺(臨済宗建仁寺派大本山)は旧仏教の勢力が強い京都ゆえ当初三宗兼学(天台・真言・臨済)であった。そうしてみると、本覚寺の歴史もまた、相当に古い。それもこの界隈が中世の二大政治都市のひとつ・鎌倉を起点とする鎌倉街道下の道(しものみち)の街道沿いであることをもってすれば、そう驚くことでもない。

 

戦国時代の初期、関東に進出してきた北条早雲(伊勢宗瑞・いせそうずい)と室町時代からの支配者である関東管領上杉家との間で繰り広げられた権現山の戦い(永正7年・1510)では、尾根続きの本覚寺も戦火を被っている。

 

 

 

案内板。
境内は中世の平山城・青木城の一角を占めた。ただ、そのことを示す碑の類は無い。唯一、境内の井戸が城で使用されていた、という。
青木城を本拠としたのは北条早雲の頃からの譜代の家臣であり三ツ沢に豊顕寺(ぶげんじ)を開いた多米(ため)氏と伝わる。

青木城は小机城(こづくえじょう)の支城のひとつであった。小机城といえば後北条氏の本拠小田原城の支城であり、大永4年(1524)小田原北条氏第二代氏綱が廃城を修築し重要な拠点となった。家臣団の小机衆を擁し、現在の横浜市北部・川崎市一帯を治めていた。

 

そして神奈川湊はといえば小机城と経済的に一体となって繁栄していたため、神奈川湊に近い青木城の位置づけも重要であったと思われる。
後北条氏は小田原を拠点にまずは玉縄(たまなわ。鎌倉市)、さらには武蔵そして北関東へと勢力を拡大していったが、玉縄に最前線の状況を伝える狼煙(のろし)の中継地点として青木城は重要な役割を占めていた。

 

 

 

権現山の跡地となる、幸ヶ谷(こうがや)公園を望む。
かつては本覚寺と尾根続きであったが、明治5年(1872)の鉄道開通に伴い尾根は削られた。権現山自体も幕末の神奈川台場築造に土砂を用いるため削られた。

 

 

 

安政6年(1859)の横浜開港に伴い、本覚寺はアメリカ領事館として使用された。
初代領事としてドーア、書記生のヴァン・リード、通訳のジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)、ほか数名が着任。

安政の開港(1859)当時、諸外国は条約を盾に幕府に対し居留地を神奈川にも設けることを強硬に主張、幕府も一応は折れたかたちで神奈川から子安(こやす)にかけての一帯を居留地に指定、立ち退きもさせている。
しかし外国人商人たちは、幕府の思惑により拙劣ながらも瞬く間に体裁が整えられた横浜(関内)の居留地に続々と居を構えていった。各国の領事館もやがて横浜に移っていく。アメリカ領事館は意地を通し、他国よりも長いこと神奈川で粘った。

 

 

 

山門。
神奈川宿界隈では震災・戦災で幾多の寺社が堂宇を悉く焼失したなかで唯一、江戸時代からの建造物(享保13・1728年頃の築と伝わる)として奇跡的に生き残った。

 

 

 

山門の木鼻(きばな)は獅子鼻(ししばな)に象鼻(ぞうばな)。

 

開港早々に着任した領事ドーアにより庭の松の枝が払われて星条旗が掲げられ、山門はペンキで白く塗られた。木鼻にはうっすらと白ペンキの跡が残っている。
当時の西洋人なれば、さもありなん。その是非はともかく、今となっては開港当時の歴史を伝える貴重な遺産となった。

 

 

 

蟇股(かえるまた)にもうっすら残る、白ペンキの跡。

 

 

 

開港から3年後の文久2年(1862)に起こった生麦事件では、深手を負った横浜在住のイギリス人商人マーシャルとクラークが命からがら本覚寺の領事館に逃げ込んだ。彼らと行動を共にした上海在住のイギリス人商人リチャードソンは生麦で絶命。唯ひとりの女性イギリス人ボロデールは奇跡的に無傷で横浜(関内)の居留地まで逃げ込んでいる。

一方、アメリカ領事館書記生のヴァン・リードもまた事件の起こる直前、久光の行列に遭遇していた。来日前から日本のことをよく学んでいた形跡がある彼は下馬して馬を路肩に寄せ脱帽、行列をやり過ごした。後の記録においてヴァン・リードは「(騎乗したまま行列を馬で縦断した)リチャードソン一行は傲慢・無礼であり自らが招いた災難である」という趣旨の発言を残している。

 

 

 

岩瀬忠震(いわせ ただなり)の碑。
忠震は幕府の全権委員の一人。目付に任ぜられた忠震は海防掛や外国奉行を歴任。長崎で条約締結に尽力し、老中には横浜(神奈川)開港を強く進言した。
開港にゆかりのある人物としては掃部山(かもんやま)の地に銅像の建つ大老井伊直弼(いい なおすけ)が有名であるが、幕政が混乱するさなか横浜開港の流れを作った実務家はこの岩瀬忠震であった。忠震の功績はこうして地元篤志家により本覚寺の地にて顕彰されている。

なおもう一人、横浜開港を強く提唱した開国論者・佐久間象山(さくま しょうざん)の顕彰碑は野毛山公園に建てられている。象山は信州・松代(まつしろ)藩の軍議役として黒船の出没した横浜の警備にあたっていたおり、横浜に開港場としての適性を見出した。

 

本覚寺を後に、青木橋へ向かう。

 

 

 

本覚寺のすぐ下、青木橋の上から本覚寺付近の道路擁壁、鉄道擁壁を眺める。

 

割石練積(わりいし ねりづみ)の擁壁は谷積(たにづみ。斜めに積む)の石垣。鉄道関係によく見られる谷積の擁壁に調和させてか、本覚寺付近の道路擁壁も谷積となっている。
道路擁壁は復興局による昭和3年(1928)の築造。関東大震災(大正12・1923)からの復興の一環として築かれ、野毛切通の擁壁にも比肩すべき震災復興の土木遺産。鉄道の方は時期が定かではないが同じころのものと推定される。

 

 

 

鉄道擁壁の上には石の高欄(こうらん。手すり)がみられる。

 

 

 

青木橋から横浜駅側を見る。この方向に、日本初の鉄道開通(明治5年・1872)にあたって設けられた神奈川停車場(神奈川駅)があった。

 

そばにはやがて京急の終点神奈川駅(旧)、市電が乗り入れる。そして大正末期までには東急の終点神奈川駅(フラワー緑道の高島山トンネルを出たあたり)も設けられ、神奈川駅は一大ターミナルを形成した。しかし大震災後の昭和3年(1928)に横浜駅(三代目)が高島の地(二代目)から現在地に移転してくると、初代横浜駅(現桜木町駅)とともに歴史を歩んできた神奈川駅は至近に過ぎるとして廃止された。のちに各私鉄も三代目横浜駅に乗り入れを果たす。

現在の横浜駅(三代・四代目)は、その名や課せられた役割こそ「横浜」駅であるが、場所的には初代横浜駅(現桜木町駅)よりはむしろ神奈川駅に近い。とはいえ、三代目が完成したころはすでに「横浜市の一部である神奈川」となっており開港時の「神奈川町の一部である横浜」ではなくなっていた。

 

幕末開港期のアメリカの総領事ハリスは「神奈川は繁栄する町の様相を呈している。ケンペルが記述した当時よりも、ずっと大きくなっている。江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときは、ひじょうに大切な場所となるに相違ない。」と記している。(「ハリス日本滞在記」より。)
なお、ケンペルとは江戸時代・元禄年間(1688〜1704)のオランダ商館医師。商館長の江戸参府に随行して日本各地を見聞し、彼の弟子が「日本誌」をまとめている。「日本誌」において箱根の美しさが紹介されたこともあって、ケンペルは元箱根の地にて顕彰碑が建立されケンペル・バーニー祭が毎年執り行われている。

 

一方、明治3〜8年(1870〜75)に横浜で発行されていた英文雑誌「ザ・ファー・イースト」では、一民間人により「神奈川というのは江戸に一番近いという点で、最初に開かるべき港として条約に述べてある港であるが、さまざまの理由で、神奈川からおよそ3マイル離れた横浜のほうが実際の港となった・・・。(中略)これら二つの場所は、深い湾のそれぞれ反対側にあったため、当局は、神奈川から野毛とよばれる村へ陸橋をかけさせることとなり、道路はこの村を通って横浜へと通じた。(中略)鉄道のためには、海の大がかりな埋め立てが行われ、線路は、神奈川の最も適した場所へ新しい陸橋をつくって敷設された。(中略)こうして、横浜と神奈川とはやがて完全に結合され、条約に記された古い町は、横浜という大商業都市のほんの一郊外となってしまうだろう。」と記されている。(「みかどの都」より。) 

 

幕末期、幕府は開国にあたり条約上の開港場のひとつを神奈川と定めた。そして開港場の内政・外交を取り仕切る「神奈川」奉行所の役所を戸部と横浜(実際の開港場)に置いた。役所は明治新政府に引き継がれ戸部の横浜への併合を経て「神奈川」裁判所、「神奈川」府、「神奈川」県と、順次その名が引き継がれていった。一方で実際の開港場となった、美しい砂州が河口から横に延びる風光明媚な景勝地であった「横浜」の名は、初めは限られた市街地部分を表す名としてスタートし、やがて明治中期から昭和初期に至るまでの六度の合併を経て中世以来あるいはもっと古くからの歴史を有する数々の周辺地域を次々と飲み込み、現在に見る巨大な市域を有する都市を表す名となった。

 

 

 

明治期の神奈川駅付近。画像出典・神奈川区誌 

 

 

 

青木橋の反対側には京急の神奈川駅(旧青木橋駅。昭和5・1930年開業)。京急の旧神奈川駅(明治38・1905年開業。昭和5・1930年廃止)に代わり神奈川の名が付される。
鉄道省(現JR)、東急の神奈川駅がそれぞれ廃止された現在では、神奈川駅と称する唯一の生き残りである。

 

 

 

青木橋から宮前商店街へ。

 

 

 

宮前商店街をゆく。ここは旧東海道の道筋にあたる。江戸方面に向かって右側(第一京浜側)には海岸線がすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

浄土真宗真色山清浄之院甚行寺(じんぎょうじ)。明暦元年(1654)の開山。
開港期にはフランス公使館として使用された。

 

 

 

案内板。

 

 

 

真言宗洲崎山功徳院普門寺(ふもんじ)への道。右奥に普門寺。
普門寺は洲崎神社の別当(べっとう。社務・寺務を管理する役職)であった。
開港期にはイギリス士官の宿舎として使用された。

 

 

 

案内板。

 

 

 

洲崎大神(すさきおおかみ。すさきだいじん。洲崎神社)。
社伝によれば建久二年(1191)、源頼朝が安房国(あわのくに。現千葉県)安房神社の分霊を勧請したのが起こり。

 

 

 

案内板。

 

 

 

絵図の拡大。
鳥居の前にはかつて街道を挟んで宮ノ下河岸(みやのしたかし)と呼ばれる船着き場があった。江戸落語「大山詣り」には「神奈川から金沢八景まで船で行こうか、となって」というくだりがある。

 

安政6年(1859)の横浜開港後は入江の対岸にある開港場の海岸通渡船場(現中区元浜町)までを渡し船で結んでいた。宮ノ下河岸にもまた関門が設けられていた。

 

 

 

船着き場のあった方向は現在、海ならぬ第一京浜に出ていく道。

 

 

 

対岸の横浜・海岸通渡船場。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

神奈川宿から横浜開港場まで、陸路では保土ヶ谷宿入口から保土ヶ谷道を経由するのは言うに及ばず、芝生村(しぼうむら。現浅間町)から分岐した横浜道でもそれなりに距離があることから、渡し船は鉄道が開通し足として定着するまでは大いに繁盛したという。渡船場には木戸が設けられ番所が置かれていた。

 

 

 

幸ヶ谷公園へ。

 

 

 

幸ヶ谷(こうがや)公園。元は権現山。昭和34年(1959)の開園。

 

 

 

案内板。描かれているのは「江戸名所図会」より「北条上杉神奈川闘戦」の図。
この地は、戦国時代における権現山城があった場所。すぐ隣の青木城とは尾根続きであった。

 

戦国時代の初期にあたる永正7年(1510)、関東の覇権を狙って進出してきた新興勢力の北条早雲(伊勢宗瑞。いせそうずい)に同調した上杉の家臣・上田政盛と、室町時代前期における権力者であった関東管領上杉氏との間で合戦が繰り広げられた(権現山の合戦)。この合戦は戦国時代初期における、新旧勢力の激突であった。

 

 

 

「金川砂子」より「権現山城の戦い」。城内から打って出る上田方の騎馬武者、間宮信盛(あるいは父の信冬)を描く。旗指物の家紋は間宮氏の「四つ目結(よつめゆい)」。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

間宮氏は古くから鎌倉周辺、のち川崎あたりに本拠を構えており、北条早雲が相模東部に進出するといち早く早雲の家臣となった。そして信盛の子である信元が天文年間(1532〜54)に笹下城(ささげじょう。港南区)を築く。
孫の康俊は笹下を本拠とし、玉縄城第三代城主北条綱成(ほうじょうつなしげ。黄八幡。宗家第三代氏康の義弟)の配下で杉田浦の防備に当たった。天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めでは箱根の西に位置する山中城の出城を守備し、奮戦の末討死した。山中城下の宗閑寺には康俊ら一族の墓がある。

 

権現山は幸ヶ谷公園から本覚寺・高島山まで尾根続きであったが、幕末の神奈川台場築造、明治初期の鉄道築堤の際に埋め立てに用いるために山や尾根は削られた。

 

 

 

幸ヶ谷公園から見る本覚寺(かつて青木城の一角を占めていた時代あり)、左手にはコンクリート高架柱上に建つ三宝寺。

 

 

 

青木橋を見下ろす。

 

 

 

桜木町駅の歴史展示ギャラリー掲載写真にみる、開業直前の神奈川停車場。
権現山から見下ろした先に、線路を跨ぐ旧東海道・青木橋が見える。

 

 

 

金川砂子(かながわすなご)にみる、神奈川宿・滝の橋付近と権現山。滝の川に太鼓橋の滝の橋が架かり、参道石段を登った山頂には正徳2年(1712)まで権現社があった。
画像出典・神奈川区誌 

 

権現社は現在の熊野神社(京急仲木戸駅そば)の前身。熊野神社の社伝によれば、創建は寛治元年(1087)年と伝わる。権現社が祀られた権現山の地に、砦が築かれた。

 

 

 

公園にはブラフ積に似た石積みが見られる。この公園は戦後から十年以上になる昭和34年の開園であるが、その頃にもまだこの石の積み方が用いられていた。
ブラフ積とは山手界隈にもっともよく見られる、西洋式の石積み。長く切った石の長辺と短辺を交互に見せるように積む、レンガのフランス積に似た積み方。

 

幸ヶ谷公園を後に、神奈川公園へ。

 

 

 

旧東海道の道筋は、ここからは第一京浜(国道15号)に重なる。正月の箱根駅伝のコースとなるこの道は、頭上に横浜市街と羽田空港を結ぶ首都高速神奈川1号横羽線(よこはねせん)が走る。
画面のすぐ先、第一京浜の幸ヶ谷歩道橋を渡ると神奈川公園。

 

 

 

歩道橋の上から見る、金港町(きんこうちょう)・横浜駅前方面。林立する超高層ビル。

 

 

 

歩道橋を下りた目の前に公園が広がる。

 

 

 

神奈川公園。昭和5年(1930)開園。広さはおよそ1.4ヘクタール(100m四方×1.4)。
関東大震災(大正12・1923)からの復興の一環として復興局(国)により横浜市内に三つ造られた公園のひとつ。あとの二つは野毛山公園、山下公園。

なお、同時期開園の公園として昭和4年(1929)保土ヶ谷に開園した児童遊園地がある。震災復興事業の公園予算の余りとそれ以前からの市内児童の寄付金によって設けられた。
もう一つ、昭和5年(1930)開園の元町公園はジェラール水屋敷の跡地に昭和改元記念事業として市公認プールの新設を目的に開園した。

 

震災以前の横浜市域(明治44年の第二次合併による市域)における公園は山手公園(外国人テニスクラブ専用)、横浜公園、掃部山(かもんやま)公園だけであった。そのほかに、三溪園をはじめとした幾つかの私園があった。

 

 

 

神奈川公園は震災時の市域において、神奈川方面唯一の公園として誕生。
大震災が教訓として残したものは、防災拠点としての公園の重要性であった。そこで横浜旧市街とその周辺にいくつかの公園が整備される運びとなった。
神奈川の水際は大正末期の頃までには埋め立てが進んでいたが、隣接する公有水面も新たに埋め立てられて公園が造成された。埋め立てには高島山の土砂が主に用いられた。
その量は約12,000立米(埋立造成に用いた全土砂量の約5分の4)にも及ぶ。

 

 

 

神奈川台場公園に設置されている、神奈川公園開園当時の周辺図。 拡大版 

 

なお、市域の変遷は整理するとおおむね以下の通り。

 

明治22年(1889)全国一斉の市制施行時における横浜市域は開港場の関内を中心に関外、山手、野毛山、横浜道の通る戸部。
明治34年(1901)の第一次合併では神奈川町(現西区北部を含む)、戸部の西部(現西区南西部・南区北西部)、中村川沿いの残り、本牧・根岸あたり。
明治44年(1911)の第二次合併では子安(こやす)と久良岐(くらき)郡北部の残り(大岡川沿いの弘明寺(ぐみょうじ)あたりまでと岡村・磯子・滝頭(たきがしら)のあたり)。

 

昭和2年 (1927)の第三次合併では鶴見町、保土ヶ谷町、都筑(つづき)郡の一部(西谷あたり)、橘樹(たちばな)郡南部の大半(現鶴見区西部・港北区東部・神奈川区西部)および久良岐郡中部(現磯子区西部・港南区南部)。
この合併は震災復興に繋げる市街地拡張・大横浜構想の第一歩。これにより旧東海道沿いの商工業地域、西谷(にしや)浄水場などを横浜市に取り込み、市域は臨海部沿いにそれまでの4倍弱に拡大した。この合併を機に区制(旧鶴見・神奈川・保土ケ谷・中・磯子)が敷かれる。

 

昭和11年(1936)の第四次合併では久良岐郡の残り(現金沢区)と鎌倉郡北部の一部(永谷(ながや)・野庭(のば)あたり)。
昭和12年(1937)の第五次合併では橘樹郡南部の残り(日吉あたり)。
昭和14年(1939)の第六次合併では都筑郡の残り(現青葉・都筑・緑・港北西部・旭区域)と鎌倉郡北部の残り(現瀬谷・泉・戸塚・栄区域)。
これによりそれまでのほぼ2倍、現在の市域となる。旧港北・旧戸塚の両区が新設され、市域は7区となった。

 

 

神奈川公園から中央市場への通りに出て、神奈川台場跡へ。

 

横断歩道を渡り、その先へ行く。

 

 

 

滝の川。綿花橋を渡り、川沿いに河口方面へ道なりに行く。

 

 

 

奥の突き当りに、台場の遺構。

 

 

 

案内板。
神奈川台場は万延元年(1860)完成。江戸湾有事の際の海防のために構築された砲台。設計は勝海舟。
台場は神奈川界隈では最初の埋立地となる。埋め立てには権現山を切り崩した土砂が用いられた。
結局、薩摩(薩英戦争。文久3・1863)や長州(下関戦争。文久3、4・1863、64)のように有事に至ることはなく、礼砲や祝砲が撃たれたのみであった。

 

 

 

神奈川台場の石垣が、僅かではあるが残っている。

 

 

 

画面奥の、台場公園へ。

 

 

 

大きな解説板が設置されている。幕末から大正まで、横浜港(安政6年・1859開港)の変遷を追って見ることができる。

 

 

 

文久3年(1863)御開港横浜正景。 
安政6年(1859)の開港から間もないころ。東海道・横浜道に沿って「番所」「関門」といった文字が見える。

 

 

 

慶応2年(1866)増補再刻御開港横浜之全図(部分)。 
まだまだ鉄道築堤(明治5・1872)までには間があり、権現山から青木城址・高島山にかけての尾根も図中に描かれている。

 

 

 

明治13年(1880)改正銅板横浜地図。郡区町村制(1878〜)の横浜区の時代。
鉄道が開業した(明治5・1872)。青木町の水際は水路を残しつつ埋立が始まっている。

 

 

 

大正2年(1913)最新横浜市全図。市制施行(1889〜)以降の時代。 
青木町の沖から神奈川町の沖にかけて台場を取り囲むように埋立がどんどん進んでいる。袖ヶ浦の入江もだいぶ狭くなってきた。横浜港の機能強化を目指した第一次築港工事(明治20年代)により築かれた港内防波堤(関内〜神奈川)が見える。関東大震災が起こるのはこの10年後(大正12・1923)。

 

 

 

写真に見る明治30年代の神奈川台場。

 

 

 

台場の歴史解説板。

 

 

 

台場の関連年表。

 

 

 

復元された石垣に、台場跡の周辺地図(左)および発掘調査解説板(右)が掲示されている。

 

 

 

第一京浜・幸ヶ谷歩道橋まで戻る。すぐ下に由来碑が設置されている。

 

 

 

本陣跡の、由来碑。
神奈川宿には滝ノ橋をはさんで神奈川町と青木町に本陣が一軒ずつあった。
本陣には大名や公家、幕府の上級役人などが宿泊した。

 

 

金川砂子に見る、神奈川町石井本陣。 画像出典・神奈川区誌 

 

 

金川砂子にみる、青木町鈴木本陣。 画像出典・神奈川区誌 

 

歩道橋を渡り、滝ノ橋へ。

 

 

 

滝ノ川に架かる、滝ノ橋。ここから川沿いに、歴史の道に戻る。

 

 

3.滝ノ橋から歴史の道、瑞穂橋を経て新町へ

page top