まちへ、森へ。

帷子川〜鶴見川〜滝ノ川水系流域、分水嶺を越えて

4.豊顕寺市民の森

 

3.三ツ沢せせらぎ緑道はこちら。

 

 

門前橋。ここから市営地下鉄ブルーライン・三ツ沢上町(みつざわかみちょう)駅はすぐ近く。

 

 

 

法照山豊顕寺(ほうしょうざん ぶげんじ)の総門。

 

 

 

由来碑。

 

豊顕寺は法華宗(陣門流)の寺院。法華宗(陣門流)は公式サイトによると日蓮を宗祖とし日陣(1339〜1419)を中興の祖とする。
豊顕寺は戦国時代の中期、小田原北条氏家臣の多米元興(ため もとおき)によってこの地に開かれた。

 

多米(多目)氏は三河国八名郡(愛知県豊橋市)を本拠とした一族。元興の父である元益は都から駿河へ下った北条早雲(伊勢宗瑞)と行動を共にした一人。やがて早雲の重臣となり「伊勢七騎」と称された。子の元興は永正12年(1515)に先祖の菩提を弔うため、一族の本拠地である三河の多米村にて開山に日時を迎え本顕寺を建立。その寺が豊顕寺のルーツとなる。
元興は天文年間(1532〜55)の頃に神奈川に青木城を構えたとされるが、拝領した三澤の地に隠居すると天文五年(1536)に本顕寺を当地に移転、寺号を豊顕寺と改めた。

 

元興の子である元忠(長宗とも)は受け継いだ三澤の所領を寺に寄進、豊顕寺は巨刹となった。元忠は子を住職の日慶に託し、その弟子(日僚)としている。
多米氏は初代早雲の頃からの譜代の重臣。その家格は高く、「相模の虎」「相模の獅子」こと小田原北条氏第三代氏康の頃には元忠は北条軍の精鋭部隊である「北条五色備(ごしきぞなえ)」の「黒備(くろぞなえ)」を担った。

ちなみに「黄備(きぞなえ)」は黄地に八幡と染め抜かれた「地黄八幡(じきはちまん)」の旗印で名高い玉縄城(たまなわじょう)第三代城主・北条綱成(つなしげ。氏康の義弟。小田原北条氏第二代氏綱の娘婿)。
「白備(しろぞなえ)」は北条氏の長老・幻庵(早雲の末子)の縁者が歴代城主を務めた小机城(こづくえじょう)の城代(じょうだい。城主の留守を預かる役)・笠原康勝(かさはらやすかつ。北条氏譜代の家臣)。
「赤備」(あかぞなえ)」は江戸城主・北条綱高(つなたか。氏康のいとこ。早雲の養女すなわち氏康の叔母と北条氏家臣・高橋氏との間の子。二代氏綱の養子となる)。江戸城は早雲と三浦道寸が新井城合戦を繰り広げた頃はまだ関東管領の一族である扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の拠点だったが、のちに北条氏綱がこれを奪取。小田原城の重要な支城として綱高が城主となった。
「青備(あおぞなえ)」は江戸城代・冨永直勝(とみながなおかつ)。冨永氏は江戸衆すなわち江戸城配下に属した家臣団の一員。ともに早雲からの譜代の家臣であった遠山と冨永の両氏、それに扇谷上杉氏の筆頭重臣であった太田道灌(おおたどうかん。平安〜室町初期の江戸氏の居館に江戸城を築城したことで知られる)の子孫となる太田氏をあわせた三者で江戸城代を務めた)。
※なお戦国時代の家臣たちは状況に応じて各地を転々と勤務するのが常なので「五色備」の記述が残る「小田原旧記」では受け持ちの城・役職は異なっている。ここでは各人について最も著名と思われる役職に置き換えておいた。

 

北条と秀吉との間で繰り広げられた小田原合戦では既に老将となっていた元忠は西牧城(群馬県下仁田町)の城主として北国軍勢と戦い、討死。青木城には上州を任されていた嫡男の長定を入れ替わり据えていたが、小田原合戦では長定は玉縄衆と共に山中城(静岡県三島市)を守備。激戦の末、討死する。

 

江戸時代に至ると豊顕寺は僧の学問所「三澤檀林(みつざわだんりん)」として最盛期を迎える。時は八代将軍徳川吉宗の治世。当時の豊顕寺住職第十三世日理が檀林を開くことを幕府に出願、一年余りを経て享保五年(1720)に許可が下り、檀林の整備が進められていった。
「三澤檀林」は学舎五棟、学寮二十五棟を擁し、学僧は常時三百人を下らなかった、という。檀林への道のりは東海道・浅間下(せんげんした。芝生村・しぼうむら)からの道、神奈川宿の飯田道から分岐して本覚寺裏を経て当地に至る道があり、「檀林道」と呼ばれた。
檀林道については「6.三ツ沢公園から浅間下、旧東海道へ」で詳しく見ていくことにしたい。

 

 

 

新編武蔵風土記稿巻之七十橘樹郡之十三小机領青木町耕地豊顕寺・三澤檀林に見る「豊顕寺図」(赤文字加工はサイト管理者)。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

隆盛を誇った三澤檀林であったが、明治4年(1871)と18年(1885)に火災で被災。そのうえ関東大震災(大正12・1923)、第二次大戦の空襲(昭和20・1945)により残った建物も失われた。今では市街化著しい三ツ沢に残された緑濃い寺林に、数百人の学僧で賑わった往時の面影を偲ぶのみ。

 

参考「新編武蔵風土記稿」「横濱鉄道沿線探勝遊覧の友(大正二年発行)」「神奈川区誌」「横浜の戦国武士たち」「戦国関東三国志 上杉謙信 武田信玄 北条氏康の激闘」

 

 

 

総門を過ぎると右手に豊顕寺の山門、本堂。

 

 

 

山門。

 

 

 

本堂。昭和42年(1967)建立の鉄筋コンクリート造。

 

 

 

大棟に見られる紋は「井桁に橘(いげたにたちばな)」と「三つ鱗(みつうろこ)」。

 

「井桁に橘」は宗紋だろうか。ただ法華宗(陣門流)の公式サイトでは慣例として「六本桜」を宗紋に用いているとある。「井桁に橘」は日蓮宗の宗紋としても知られている。
「三つ鱗」は寺紋だろうか。扁平な三つ鱗(北条鱗)は小田原北条氏の家紋として知られている。これは開基となった多米元興が小田原北条氏の重臣であることに所縁があるのだろう。

 

 

 

本堂に向かって左手にそびえる、大銀杏。

 

 

 

大銀杏の裏手には多米氏の墓所である四基の苔むした宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。
そのなかでも特に向かっていちばん右の宝篋印塔には初期の関東形式の特徴が顕著に見られる。鎌倉・安養院、鎌倉・浄光明寺の宝篋印塔を参照。

 

もしこの塔が再建でなくオリジナルの塔であるならば間違いなく江戸時代よりも前、戦国時代(室町時代後期)のものであろう。ただ江戸時代後期編纂の「新編武蔵風土記稿」巻之七十橘樹郡之十三小机領青木町耕地・豊顕寺の項では既に「多米氏元祖のなりと云い伝ふれとも文字磨滅してよむべからず」とある。時代が特定できない以上、確信は持てない。

 

 

 

本堂前にはかつて「横浜十名木」の一つとして市会により大正五年(1916)に保護木に指定された高野槇(コウヤマキ)の古木も聳えていた。

 

幕末の開港期には神奈川宿周辺に居を構えていた散策好きの英国人植物学者ロバート・フォーチュンが豊顕寺を訪れ、「本堂の中庭と前庭に、傘松と呼ばれる立派な目新しいマキに出くわして欣快に堪えなかった。これはコウヤマキで、いわゆる日本の高野山の槇である。・・・コウヤマキは立派な樹木で、興味がある。・・・だが、この立派な樹木がはたしてイギリスの気候に耐えられるかどうかは、さらにわれわれが実際に経験してみた上でなければ、何とも言えない」と記している(「江戸と北京」文久三年出版)。

 

しかし、残念ながら高野槇は第二次大戦時の空襲により焼失してしまった。この木は、あるいは後を受け継ぐ樹として育まれているのだろうか。

 

参考「横浜の史蹟と名勝(昭和三年発行)」「神奈川区誌」

 

 

 

境内の寺林は昭和58年(1983)に「豊顕寺市民の森」に指定された。その広さは「市民の森」としては小振りな2.3ヘクタール(100m四方×2.3)。往時の神奈川宿周辺の里山の姿を今に残す、貴重な緑地となっている。

 

開港期の神奈川宿周辺について、神奈川本町の成仏寺を宿舎とした医師・宣教師ジェームス・ヘボン博士は来日して半年ほどたった万延元年(1860)4月の書簡で「神奈川の周辺の田舎は美しい。山岳地帯でもなく、平地でもありません。低い凹凸の丘や小さい谷があり、所々には平坦な広い五、六平方マイルもあるような谷間もあります。丘は一般に雑木の楢、栗、樺、楓、それに高い松の木や杉、その他美しい常緑樹などで覆われています。こんな広い面積の土地が森のままで、開墾されていないのには、わたしも一驚しました。この近くでも五分の二がそうなのです。・・・山脈は神奈川の西方約二十マイルに見え、七十マイルも彼方に、他の山々よりはるか高く聳えて、富士山の秀嶺が見えます」と記した(「ヘボン書簡集」より)。

 

前述のロバート・フォーチュンは豊顕寺について「寺院の丘陵には、単なる住居でなく、僧侶の養成所と思われる小さな離れ家が散在していた。どの家も、日本の装飾用草花類を植え込んだ美しい庭の真中にあって、よく刈り込んだ生垣に囲まれている。・・・さらに見上げるような高所に、年中閉ざしたままらしい大きな神社がある。・・・この寺の周辺では一人も神職を見掛けなかった。・・・その僧院を訪れた時、皆修行か祈祷をしていたと見え…それも間もなくやみ、再び静寂に返った。・・・寺の周りの森の中には、快い日蔭の小道が幾つもあった。丘に通じる道をぶらつきながら頂上に到達して、その景色に見惚れた。寺の屋根や庭が下に見えたが、視界を谷を越えた向かい側の樹木の繁茂した丘に転じた。西方を振り返ると、箱根連山が横たわり、半ば雪を冠った美しい富士が、山の景観の女王のように見えた。このすばらしい風景は、私の記憶に永久に鮮明な印象を残すことだろう」と記した。

 

 

 

本堂に向かって左手には「豊顕寺市民の森入口」。こちらが檀林時代の裏通りであろう。石段を上がったところに日蓮上人像が建っている。

 

 

 

表通りを赤門へ。

 

 

 

赤門。

 

江戸時代、ベンガラ色の門は御公儀(幕府)の許しが無ければ建てることはできなかった。この門は第二次大戦の空襲も潜り抜け、檀林の面影を伝える唯一の建造物。
案内板によると平成27年(2015)の豊顕寺開創五百年慶讃記念事業として保全工事を行い、部材を可能な限り再利用して組み直したとある。

 

 

 

長い石段を登っていく。

 

 

 

石段の両側には紫陽花が植えられている。

 

 

 

ガクアジサイ。

 

 

 

こちらの紫陽花は開花し始めたばかり。

 

 

 

 

 

 

 

沿道には清楚な白いアジサイが多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石段を登り切ると、八幡広場。

 

新編武蔵に見る「三澤檀林 境内ノ南ノ山上ニアリ」というのはこの辺りを中心とした一帯を指すのであろう。

 

 

 

広場からの平坦な散策路(檀林時代の裏通り)には色とりどりのアジサイが植わっている。

 

 

 

ガクアジサイの園芸品種「墨田の花火」。

 

 

 

 

 

 

 

ガクアジサイの細やかな両性花が花開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤマアジサイも見られる。

 

 

 

折り返し、八幡広場へ戻る。

 

 

 

三ツ沢公園の市戦没者慰霊塔に隣接する広場。

 

 

 

三ツ沢公園案内図(豊顕寺市民の森エリアの文字等の加工はサイト管理者)
案内図拡大版

 

 

 

戦没者慰霊塔の広場へ。

 

 

5.三ツ沢公園へ

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