まちへ、森へ。

山の鎌倉・五山寺院と七切通

鎌倉でも紅葉の始まった平成29年(2017)11月最後の週末、北鎌倉駅から山ノ内、扇ガ谷、佐助界隈を訪ねて五山寺院(一〜四位)ほか幾つかの寺社を巡り、切通(三か所)を歩く。

 

1.臨済宗大本山円覚寺

 

 

JR北鎌倉駅。時刻は午前8時過ぎ。

 

まずは鎌倉五山第二位の円覚寺へ。下りホームの臨時改札から出ずに構内踏切を渡り、上りホームの駅舎側からスタートする。

 

 

 

駅前の交番あたりから小道が延びている。この道は古道「馬道」。円覚寺の門前を通っていた古道・山ノ内路から迂回するような道が付けられている。

 

往時には山ノ内路の円覚寺門前には南北に外門が設けられており、その間は境内地だった(極楽寺坂・成就院門前のようなイメージ)。そのため通行人は馬道へ迂回して通過していった。

 

中世鎌倉の市中(鎌倉中)への出入口であった「七切通(七口)」の巨福呂坂(こぶくろざか)あるいは亀ヶ谷坂(かめがやつざか)から延びてくる山ノ内路は、下野(しもつけ。栃木県)国府へと延びる鎌倉街道中の道(なかのみち)へと繋がっていく。

 

 

 

円覚寺境内・法堂(はっとう)跡に掲示されている建武年間の「円覚寺境内絵図」。街道を迂回する馬道が描かれている。

 

鎌倉時代の頃は北鎌倉駅・山ノ内界隈は「鎌倉中」の外側であった。とはいえ円覚寺が創建されてから数十年後、足利直義(あしかが ただよし。初代将軍尊氏の弟。室町初期の幕政を取り仕切った)が円覚寺周辺土地を寄進したころには、「円覚寺境内絵図」に見られるような門前町が賑いをみせていた。

 

 

 

発掘調査を経たのち整備された石垣。円覚寺の門前はこのように土堤が築かれていた。

 

鎌倉時代、鎌倉やその近郊に配置された大寺は有事の際に兵が滞留する拠点となった。こうした土堤も円覚寺がそのような役割を果たしたことを伝える名残りであろうか。

 

 

 

山ノ内路の道筋(県道)に戻り、総門へ。

 

 

 

参道には旧字体で彫られた石標が立つ。参道の先をJR横須賀線が横切っていく。奥には反橋(そりはし)が見える。

 

 

 

白鷺池(びゃくろち)。明治22年(1889)の横須賀線敷設の際に一部の埋立が行われ、その規模は往時と比べて半分ほどに縮小しているという。

 

 

 

池に架かる反橋を渡って歩を進めていく。この池は俗界と聖域を分ける境界となるが、横須賀線開通により境内は分断された。

 

 

 

現代であればちょっと考えられない感覚だが、その当時横須賀軍港と東京を鉄道で結ぶことは明治政府とりわけ軍部にとって重大な懸案だった。鎌倉に限らず京都でも、例えば路面電車の開通に伴って道が拡幅されることで寺の門が撤去された、という事例を目にする。そうした門の一例として京都東山・西方寺の門が横浜本牧・三溪園の内苑御門として大正期に移築されている。

 

 

 

踏切を渡る。

 

 

 

現在の総門前。新しい石標が立つ。北鎌倉駅下りホームの臨時改札を出てきた人たちにとっては、ここが境内の入口となる。

 

 

 

紅葉の始まった石段を登り総門へ。

 

 

 

 

 

 

 

総門の扁額(へんがく)には「瑞鹿山(ずいろくさん)」の文字。後土御門天皇(ごつちみかどてんのう。1442〜1500)の宸筆(しんぴつ)とされる。

 

 

 

拝観料を納めて境内へ。

 

 

 

円覚寺境内図。

 

臨済宗円覚寺派大本山、瑞鹿山円覚寺(ずいろくさん えんがくじ)。鎌倉五山第二位。開基は鎌倉幕府第八代執権・北条時宗(ほうじょう ときむね。五代執権時頼の子)。時宗は元寇(文永の役・弘安の役)の戦死者の菩提を弔うため、弘安五年(1282)に円覚寺を建立した。開山は宋より迎えられた高僧・無学祖元(むがくそげん)。
円覚寺の境内は谷戸(やと)の平地が比較的広い建長寺と異なり、階段状に整備されている。このような造成は南宋五山寺院のなかでも第四位・天童寺(浙江省寧波)をモデルとして採用した、とされる。

 

円覚寺は鎌倉幕府の滅亡後も足利尊氏・直義兄弟の外護により寺勢が保たれた。
鎌倉幕府第九代執権北条貞時の頃に南宋の五山に倣って採用された五山制度は建武の新政から室町時代へと時代が移りゆくなか、後醍醐天皇から足利尊氏、足利義満の頃にかけて鎌倉のほか京でも整えられていった。

 

鎌倉幕府の五山は幕府が住持(住職)の選任といった運営にかかわる禅院として鎌倉に建長・円覚・寿福(開基は北条政子)・浄智、京に建仁(開基は源頼家)が揃い、これを五大禅院としていた。
建武の中興が成ると後醍醐天皇は五山を皇室・公家らが開基となった京の禅院中心に改め、南禅(開基は亀山法皇。元寇時の上皇)を第一とし大徳(開基は赤松規村。鎌倉幕府討伐に功があった)を準第一に、以下建長・円覚・東福(開基は九条道家)・建仁とした。
室町幕府が成立すると足利尊氏はこれを武家本位に改める。尊氏は建長寺を「往代勅願と為て大刹の最頂也。今さら改め動す能わず」とした。そして第一を建長・南禅、第二を円覚・天龍(開基は尊氏)、第三を寿福、第四を建仁、第五を東福とし浄智を準五山とした。大徳寺は五山から外れた。

 

尊氏は鎌倉と京を頻繁に行き来する中で新たな幕府を鎌倉と京のいずれに置くか熟慮を重ねていったが、三代将軍義満の頃には武家政権の中枢は京で固まっていた。
最終的に五山の最上位は京の南禅寺となるが、権力の絶頂期にあった義満(室町殿・むろまちどの)が南禅寺を「五山之上」として第一位の上に列し、京都五山を鎌倉五山よりも優位となるように五山の序列を整え改めたのは時代の成り行きとして自然な流れであった。
ちなみに最終的な京都五山第二位にはその義満が開基となった相国寺(しょうこくじ。臨済宗相国寺派大本山)が新たに入った。鎌倉の第五位浄妙寺、京の第五位万寿寺は禅宗伝来以前の寺が鎌倉中期に禅院に改められたもの。

 

こうして鎌倉後期から室町前期にかけて権力者の厚い庇護を受け我が世の春を謳歌した五山寺院であったが、室町中期から戦国の世にかけて旧権力が衰えを見せ始めた頃から禅宗寺院は勢力図が変わっていく。関東でいえば戦国北条氏にゆかりのある禅宗寺院は曹洞宗も多い(たとえば鎌倉周辺を治めた玉縄城主・玉縄北条氏の菩提寺であった龍宝寺)。各地を歩いているとそのころに臨済宗から曹洞宗に鞍替えした寺院も結構目にする。

 

禅宗の場合、臨済宗にせよ曹洞宗にせよ総本山という概念はない。五山上位であった鎌倉・京の大本山各派寺院に関しては、中世における序列をそれ以降の盛衰を乗り越えてきた今なお格式の上下として未だに云々することはあまり意味がないのかもしれない。

 

参考
増補 鎌倉の古建築 関口欣也
中世鎌倉五山の建築 鈴木亘
中世都市鎌倉を歩く 松尾剛次
深く歩く鎌倉史跡散策(上)神谷道倫

 

 

 

三門(さんもん。三解脱門・さんげだつもん。山門)。この大きな楼門(二重門)は江戸時代の後期、天明三年(1783)の築。

 

 

 

扁額には「円覚興聖禅寺(えんがくこうしょうぜんじ)」の文字。伏見上皇(1265〜1317)の宸筆とされる。
山門には禅宗様(ぜんしゅうよう)の特徴が顕著に見られる。扁額の下には桟唐戸(さんからど)。

 

 

 

屋根の軒下は垂木(たるき)を放射状に配した扇垂木(おうぎだるき)。火灯窓(かとうまど)あたりに見られる壁は縦の板張。

 

 

 

柱をつなぐ虹梁(こうりょう)には渦の文様。そして虹梁と梁をつなぐ円柱状の大瓶束(たいへいづか)。

 

 

 

基壇は方形の石を斜め45度に敷いた四半敷(しはんじき)。柱の下にはソロバン玉のような礎盤(そばん)が見られる。
そしてこの門の下層は仁王門のように仁王像が置かれた門ではなく、壁のない吹放(ふきはなち)となっている。

 

 

 

続いて仏殿(本堂)。禅宗では本堂を仏殿と呼ぶことが多い。

 

 

 

円覚寺の仏殿は「大光明宝殿(だいこうみょうほうでん)」と名付けられている。扁額の文字は後光厳天皇(ごこうごんてんのう。1338〜1374)の宸筆と伝わる。
先代の仏殿は関東大震災(大正12・1923)により倒壊してしまい、現在の仏殿は元亀四年(1573)の「円覚寺仏殿造営図」を基にして昭和39年(1964)に鉄筋コンクリートにより再建された。

「円覚寺仏殿造営図」は精緻な「指図(さしず。平面図)」と「建地割図(たてじわりず。断面図)」からなり、中世五山仏殿の構造形式を細部に至るまで伝える我が国で唯一の図とされる(文化庁国指定文化財等データベースを参照)。なお、これを基にした十分の一スケールの精巧な木造復原模型が神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店。横浜市中区)に展示されている。

 

鉄筋コンクリートゆえ壁だけは縦の板壁ではなく和様風の白壁であるが、それ以外はほぼ完璧に禅宗様の五山建築が再現されている。もしも外壁を板張りにしてもらえたら、より一層創建時の姿に近い五山寺院の威容を彷彿させたであろう。

 

まず、円覚寺舎利殿を始めとした各地に見られる現存の中世仏殿と比べると、五山寺院の中世仏殿(本堂)はそのサイズが一回り大きい。お堂本体の柱の間隔は縦横とも五つあり「方五間(ほうごけん)」となっている(外見上は本体の外側を裳階(もこし。庇)が取り巻いているので間隔が七間あるようにみえる)。ちなみに舎利殿は方三間。
中央の出入口は枠を組んで薄い板をはめた桟唐戸(さんからど)。欄間は弓欄間(ゆみらんま。波欄間ともいう)。窓は火灯窓(かとうまど。花頭窓)。火灯窓は近世以降、宗派を問わず寺院を象徴する窓の形として多用されているので馴染み深い。なお火灯窓の裾が末広がりではなく真っ直ぐに(垂直に)なっているのは禅宗様におけるごく初期の様式であり、舎利殿にも見られる。
屋根の軒下は三手先(みてさき)の組物(くみもの)がびっしりと並ぶ(詰組・つめぐみ)。これは中世以降の本堂建築においては和様には見られず、禅宗様ならではの特徴となる。

 

 

 

側面。妻壁(つまかべ)に見える黒い三角の紋は円覚寺の寺紋である「三つ鱗(みつうろこ)」。三つ鱗は執権北条氏の家紋。戦国時代の小田原北条氏も家紋としている。

 

 

 

禅宗様における仏殿の床は和様(わよう)の本堂建築に見られる板張の床とは異なり、基壇の土間に黒瓦(あるいは黒タイル)が四半敷に敷き詰められている。

 

 

 

選仏場(せんぶつじょう)。江戸時代の前期、元禄12年(1699)の築。こちらは僧侶が修行する座禅堂(僧堂)となる。

 

 

 

居士林(こじりん)。一般向けの座禅道場として昭和3年(1928)に東京牛込より移築された。

 

 

 

奥に建つ方丈の手前、画面右手の植え込みは法堂(はっとう。講堂)跡。禅宗では講堂を法堂と呼ぶことが多い。

 

 

 

法堂跡の解説板。ここに冒頭で触れた元弘〜建武期の「円覚寺境内絵図」が載っている。

 

 

 

唐門(からもん。勅使門・ちょくしもん)。天保10年(1839)築。築地塀に引かれた五本の白い筋は寺院の格式の高さを示す。

 

 

 

勅使門は天皇の使者(勅使)を迎える門。菊の御紋があしらわれている。

 

 

 

扉には麒麟らしき彫刻。

 

 

 

方丈の前庭にそびえる柏槇(ビャクシン)の古木。開山時に無学祖元により手植えされたと伝わる。

 

 

 

百観音霊場。江戸時代に奉納され明治期に境内他所に整備されたものが昭和58年(1983)に現在地に移された。円覚寺の寺紋であり北条の家紋でもある「三つ鱗(みつうろこ)」が刻まれた大きな瓦が見える。

 

 

 

方丈(ほうじょう。本来的には住職の居所)。関東大震災(大正12・1923)で倒壊した先代に代わって昭和4年(1929)に建てられた。現在は各種行事に用いられている。

 

 

 

方丈の広縁。

 

 

 

 

 

 

 

広縁から拝観する方丈庭園。

 

手前に枯山水。奥に池泉を配し、池の奥には大きな石組の滝が築かれている。

 

 

 

枯山水と池泉が一体化した美しい池泉観賞庭園。中世の境内絵図にはこの位置に池は描かれていない。

 

 

 

鎌倉時代中期に建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう。1213〜1278)によってもたらされた南宋の禅文化は、寝殿造や浄土式庭園といった平安期から鎌倉初期の日本の庭園に新たな作風を呼び込んだ。
その一つの例として「龍門瀑(りゅうもんばく)」という滝の様式がある。「鯉魚石(りぎょせき)」という大きな石を斜めに組み「鯉の滝登りが転じて龍と化していく」という故事に基づく躍動感あふれる主題を庭園に取り入れた。蘭渓道隆の作庭した龍門瀑は東光寺庭園(山梨県甲府市)に見ることができる。
南北朝期に入ると龍門瀑は晩年を迎えた夢窓疎石(むそうそせき。1275〜1351)によって京の西芳寺(苔寺)、天龍寺(足利尊氏創建の禅院)の庭園に築かれていった。
参考・「日本庭園」の見方(小学館ポケットサライ)

 

この庭園は、現代の庭園に龍門瀑を新たに表現しようとする試みと見ていいだろうか。

 

 

 

方丈を後にして、先へ。

 

 

 

「妙香池(みょうこうち)」。放生池(ほうじょうち。捕獲した魚を放す池であり放生会(ほうじょうえ)が行われた)として造られた。

 

文化庁国指定文化財等データベースによると、妙香池は「建武二年(1335)開山塔移置の後築造せられ」鎌倉の地盤を形成する凝灰岩(ぎょうかいがん。鎌倉石)を彫り込んで「波浪の侵食に擬し」て作庭された。
年代としては夢窓疎石が住持(じゅうじ。住職)であった頃と重なり、円覚寺境内絵図にも描かれている。なお夢窓疎石による鎌倉時代の作風を伝える庭園としては岩盤を彫り込んで作庭された瑞泉寺庭園が知られている。

 

案内板によると、現在の姿は江戸時代初期の絵図に基づき自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した、とある。

 

 

 

境内通路から見る方丈庭園。

 

 

 

池越しの方丈。

 

 

 

舎利殿(しゃりでん)へ。

 

 

 

通常、入れるのは手前の門まで。

 

 

 

 

 

 

 

舎利殿の拝観は唐破風の中門越しに屋根を見るのみであり、全体像は見えない。

 

 

 

画像出典・円覚寺拝観のしおり。
円覚寺舎利殿は我が国における禅宗様(ぜんしゅうよう)仏殿の最も初期の様式を残す建築。なお創建当時の伽藍は鎌倉後期から室町初期の度重なる大火で焼失しており、この建物も太平寺(鎌倉西御門・にしみかど。現在は跡のみ)仏殿が移築されたものであって創建当初のものではない。

 

建築年代は不明であるもののその様式の学術的考察から、年代が明らかな正福寺地蔵堂(応永14・1407年築。東京都東村山市)と同時代のものと考えられている。

 

 

 

さらに奥へ。

 

 

 

塔頭(たっちゅう。寺院内の小院)の仏日庵(ぶつにちあん)。

 

 

 

門越しに開基廟を観る。

 

 

 

江戸時代後期に再建されたこの建物は開基である北条時宗の廟所となる。

 

 

 

白鹿洞(びゃくろくどう)。円覚寺山号の「瑞鹿山」は白鹿の群れが出現したことに因むが、その伝説の洞窟がこことなる。

 

 

 

黄梅院(おうばいいん)。鎌倉時代末期に北条氏に招かれて住持となった夢窓疎石の塔所となる。

 

 

 

南北朝期の建武年間(1334〜)に描かれた「円覚寺境内絵図」によると、ここには「華厳塔」と称する三重塔が建っていた。案内板によると時宗夫人・覚山尼が時宗追善の為に建立したという。
三重塔が失われたのはいつのことだろうか。

 

 

 

円覚寺の寺紋は北条氏の「三つ鱗(みつうろこ)」であるが、黄梅院の瓦には足利氏の紋である「丸に二つ引両紋(まるにふたつひきりょうもん。武家に多く用いられる引両紋の一種)」が見られる。

 

ここは足利尊氏が造営を許可し、二代将軍義詮(よしあきら)の分骨が納められており足利家菩提所の側面も持つ。

 

 

 

境内を引き返す。

 

 

 

長い石段を登って鐘楼へ。

 

 

 

「洪鐘(おおがね)」と呼ばれる梵鐘。正安三年(1301)に鋳造された鎌倉一の巨鐘であり、その総高はおよそ2.6m。

 

 

 

弁天堂。第九代執権北条貞時が梵鐘の鋳造を命ずるも幾度か失敗、江の島弁財天にその成功を祈願した伝承に因む。

 

 

 

水の神様である弁天様を祀るお堂には立浪の飾り瓦。

 

 

 

このあたりは江戸時代に「縁切寺」としてその名を知られた東慶寺の境内を見下ろす眺めがとてもいい。

 

 

 

晩秋の晴天に恵まれたこの日は雪を冠した富士山(3776m)が良く見えた。

 

 

 

相州の霊峰、大山(おおやま。1252m)。そのすぐ左奥には表丹沢の盟主、塔ノ岳(とうのだけ。1491m)。

 

 

 

円覚寺を後にして、浄智寺へ。

 

 

 

11月最後の週末、紅葉始めの参道石段。

 

 

 

 

 

 

 

県道を八幡宮方面へと進んでいく。

 

 

 

東慶寺の門前。山門に向けて敷石の参道がすっと延びていく。

 

なお東慶寺の旧仏殿は明治後期に横浜本牧の三溪園に移築・保存されている。そこには明治の世の訪れとともに縁切の寺法が廃され寺勢が衰微していくなかで当時の住職と原家が懇意にしていた、という背景があった。

 

 

 

浄智寺(五山第四位)の門前に到着。

 

 

2.浄智寺

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