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鶴見川中流域、地域の象徴・今昔。


2.小机城址から新横浜公園(鶴見川多目的遊水地)、日産スタジアム(横浜国際総合競技場)見学ツアーへ。

1.鶴見川サイクリングコースを小机城址へはこちら。




鶴見川サイクリングコース。オレンジ色の橋げたは小机大橋。下流に向かって進む。




工事中の構造物は、首都高速横浜環状北線(よこはまかんじょうきたせん)。第三京浜と横羽線(よこはねせん)を結ぶ。




鶴見川サイクリングコースの右岸は遊水地の堤で通行できない。




フェンスの向こうに広がる、鶴見川多目的遊水地。普段でも池が広がっている。一帯は運動公園の新横浜公園(広さ約54ヘクタール(100m四方×54)・計画面積約70ヘクタール)として活用されている。

遊水地は鶴見川が豪雨で増水した時に下流域の洪水を防ぐために一時的に水をためる役割を持つ。横浜市域では鶴見川、境川が遊水地方式で洪水に対処。帷子川(かたびらがわ)大岡川は河川敷の土地が確保できないので分水路(ぶんすいろ)方式で洪水に対処している。




大きな池の向こうに見える鶴見川遊水地(新横浜公園)で最大の施設、日産スタジアム。その奥には新横浜の市街地。




左へ下りて行くと新横浜公園をぐるっと一周できる。右へ進むと、日産スタジアムのゲートへ。

先に、公園を一回りしてみる。




散策する人たち、ランニングする人たち。




スタジアムの最下層部は、遊水地の一部。豪雨時はこの一帯が水没する。




再び、土手に戻る。




公園内には各種スポーツ施設があちらこちらに配置されている。









左手は土手の下、公園(遊水地)が広がる。




ここからでもランドマークタワーが見えた。




新横浜公園の信号から、スタジアムへ。周辺の道路はスタジアムの2Fのレベルに相当する。




画面右手のスロープを上がっていくと、ゲートのある3Fレベル。正面の円形の建物はスタジアムショップ。




2Fから1Fへ降りる階段。高床式の人工地盤の上に立つスタジアムは、下層部(公園の各グラウンドのレベル)が水の流入を想定している。




2Fの、外周下通路。




2Fから見下ろした、サブ競技場の日産フィールド小机。向こうには土手が見える。あのグラウンドのレベルが豪雨時に遊水地となる。向こうに戦国時代の後北条氏の支城・小机城址(こづくえじょうし)の森が見える。




3F、バックスタンド側のゲート。




小机城址の森。戦国時代の城跡のすぐ隣で、現代における国の威信をかけた戦いが繰り広げられる。




案内図。  拡大版




バックスタンドゲート近くの、スタジアムショップ入口。ここがスタジアムツアー(有料)の受付。




ショップ内にはマリノス・フリューゲルスの懐かしいユニフォームが展示されている。Jリーグが華やかに開幕した当時を思い出させる。




ツアーのスタート、まずはバックスタンドへ。2002年大会の記念パネルが設置されている。記念すべき日本代表の本大会初勝利は、ここ横浜での対ロシア戦(1-0)であった。

なお、ここ小机からそう遠くない、東横線・大倉山駅東口から数分の師岡熊野神社では、社紋が「八咫烏(やたがらす)」であるというつながりで、代表チームのエンブレムやマスコットがあしらわれた日本サッカー協会(JFA)公認の「サッカー御守」を頒布している。




日産スタジアム(横浜国際総合競技場・ヨコハマインターナショナルスタジアム)の完成は、平成10年(1998)。
ネーミング・ライツ(命名権)を獲得した日産自動車により、日産スタジアムと命名されている。なお、スポンサーとの関係で「日産」の名を冠することができない大会のときは、元々の名称である「横浜国際」に戻される。




およそ72,000人収容の巨大なスタジアム。
それでも、もう現在の決勝会場の収容基準(80,000人)には足りなくなってしまった。次に大会が誘致できたとしても、現状では収容基準が変更されない限り、決勝はもうここで行われることはない。次の時代は、新たな競技場へ受け継がれてゆく。

ランドマークタワーにしても、日産スタジアムにしても、日本一の称号はいつかは他に取って代わられてゆくもの。

訪れたこの時、フィールドはちょうど冬芝から混合芝・夏芝へ変わっていく時期で、やや色あせていた。




メインスタンド・W14ゲートの左に記者席、右にはVIP席。VIP席の上段はロイヤルボックス。




客席とグラウンドを分ける堀。興奮した観客のなだれ込みを防ぐ。まるで城の空堀だ。




グラウンドへ下りる。サイドスタンドにはそれぞれ大型スクリーン。その大きさはバレーボールコートよりも一回り大きい。




ロッカールームへ。




2002年大会決勝でブラジルチームが利用したロッカールーム。選手直筆のサインが記念として残されている。
タイミングが良ければシャワールームや浴室、それらを挟んだもう一つのロッカールームも見学できるかもしれない。




2002年大会の主将・カフーのロッカーと、パウリスタのロッカー。
他にもスーパースターのサインが目白押しであるが、きりがないので、この辺で。




サッカーファンには馴染みかもしれない、優勝の法則「3964」。これも保存されている。
ポルトガル語で上からドイツ、アルゼンチン、ブラジル。2002年はもらった、とチームを鼓舞した様子が目に浮かぶよう。残念ながら2006年の予言(当時)は実現しなかった。




ウォーミングアップルーム。壁にゴールの枠が描かれている。




ボールの位置がペナルティーマーク。PKの練習もできる。




キーパーが上に跳んでも大丈夫なように、ゴール前の天井は他より1m高い。




記念展示のエリアへ。









2002年、横浜で各グループリーグを戦った6チームの、レプリカ。
このエリアにも、このほかさまざまなメモリアルが目白押しであるが、きりがないのでこの辺で。




最新のベンチシートはGT-Rのドライバーズシート。









2002年大会を記念した、レリーフ。




こんなサインも。もちろん冗談ではなく監督本人の直筆。




抜群の水はけを誇る、グラウンドの断面模型。その水はけもさることながら、欧州の競技場のように寒冷期の凍結防止の温水パイプが埋められている。温度が5℃以下になると温水で温められるようになっている。




2002年大会公式テーマ曲、ヴァンゲリス作曲のアンセム(Vangelis_Anthem 2002  youtubeへリンク)をBGMに、ピッチへ。




やはり、何度聴いても気分が高揚する曲だ。




芝のサンプル。冬芝(ペレニアルライグラス)、混合芝、夏芝(ティフトン芝)。
さすがにピッチまでは入ることができない。いまでは日本各地の競技場で当たり前になった青々とした芝生は、かつて日本の競技場の冬芝(高麗芝)が海外の選手に「枯れ草」と揶揄されていた時代からすれば、隔世の感がある。




グラウンドからメインスタンド・VIP席へ。




VIP席。決勝で座った各氏を示すゼッケン。椅子そのものは更新されている。
サッカー界の大御所がずらりと揃う。




ロイヤルボックスの中央には両陛下。




端には首相。自治体の首長クラスはロイヤルボックスではなく周りのVIP席に。




ここ横浜国際にとっては最初にしておそらく最後となった、2002年大会決勝開催の記念碑。左にブラジル主将カフーの足形、右にドイツ主将カーンの手形が見られる。日本初のファイナル会場となった栄誉は、消えることはない。




バックスタンドのゲート前には、記念碑を取り囲むようにして予選大会を含めたすべての参加国名が刻まれている。


追記

平成27年(2015)9月、ラグビーワールドカップ2019日本大会の決勝がここ横浜国際で行われることが決まった。
新国立の計画が白紙に戻ってしまい、代替案としての決勝開催決定となった。

横浜住まいのラグビーファンとしては嬉しさもある。しかし、新国立が間に合わなくなってしまったことは本当に残念であり、複雑な気持でもあった。

それにつけても、新国立の計画が白紙に戻る直前期、まるでラグビー界が当初案を無理にゴリ押しをしているとでも言わんばかりの凄まじいバッシングは悲しく、居たたまれなかった。何とか2019年大会を新国立で迎えられないか模索が続いていた頃も、ラグビーに全くの無関心である層からの元首相がどうとかマイナーの分際でとかいう謂れ無い誹謗中傷はまだしも、ラグビーなぞ気にせずさっさと当初案は撤回すればいいといわんばかりの国会での責任追及。誰が採用した当初案なのか、どの口が言うか、というやりきれない思いしか無かった。

そして、横浜国際に決まれば決まったで今度はやれピッチが遠いだのそもそも横浜が相応しくないのと、今更ながらの酷評の嵐。
たしかにラグビー2015イングランド大会ではイングランド・ロンドンのトゥイッケナムやウェールズ・カーディフのミレニアム、そしてサッカー場のウェンブリーなど専用の巨大スタジアムをいくつも目の当たりにし、改めて彼我の差を痛感した人が多かったのも事実。
しかし、そもそもフットボール文化の根の深さは日本と英国では比較しようがない。旧IRB(インターナショナルラグビーボード)時代からの強豪国フランスでさえ、最大の競技場は陸上競技場兼用のスタッド・ドゥ・フランス(サンドニ)であり、かつてのメインスタジアムであったパルク・デ・プランス(パリ)はサイクルスポーツ大国フランスらしい、自転車競技場からの改修であった。

また、たとえフットボール専用球技場でなくても、決勝にはそれにふさわしい大きさがある。より大きな箱が用意できるのであればなおさらのこと。
東京青山の秩父宮や東大阪の花園が日本ラグビーで聖地とされるのは疑いない。そこで決勝が開催できるならラグビーファンとしてこれほど誇らしいことは無い。しかし、そこに6万人以上収容のスタジアムがないことも厳然たる事実。明治以来(1901年のYC&AC対慶應義塾)、百余年の歴史を誇る日本のラグビー文化であるが、現代に至ってもこれが精一杯ということだ。
また、さいたまなど横浜国際以外の巨大なサッカー専用スタジアムがあったとしても、そこがラグビーの開催地を他に譲るというのなら、非常に残念だがそれはそれで仕方がない。ラグビー文化に対しては他の地域を差し置いてまで協力する必要は無かろうと判断したということだ。

横浜国際は新国立の非常事態にバックアップとして重要な役割を果たすことになった。それが横浜国際の使命であるし、それにふさわしい競技場ということだ。2002年サッカーのときには初めから国立が開催基準を満たしていなかったこともあり、横浜国際は立派に決勝会場の役割を果たした。「国立があって、はいお終い」ではない。それは横浜のみならず日本の誇りといってもいいと思う。

ただ、2019年ラグビーの場合についていえば、ホスト国として人々の機運が全く盛り上がらないのではないか、本当に心配だった。



1970年前後の対オールブラックスJr.での勝利、イングランドをノートライに屠った3対6(この辺りはもちろん伝聞でしか知らない)を受け、70年代半ばから90年代半ばにかけて、とりわけ80年代後半のラグビーの爆発的人気は凄まじかった。早慶明同の学生は言うに及ばず、社会人でも新日鉄釜石の時代以降、神戸製鋼など客を呼べるチームがライバルチームとしのぎを削り、同じアマチュアでも客入りの寂しかったサッカー日本リーグをしり目にシーズン中の国立は超満員の日々だった。ラグビーがマイナーだなんて、とんでもない時代だった。巷で競技人口云々といわれるが、そもそも激しい接触プレーがあるラグビーはだれもが草ラグビーで気軽に楽しめるというものではない。それは日本の国技たる大相撲とて同じことだ。
プレーヤーにしても、多くはないとはいえ海外で高い評価を受けた人もいる。1991年第二回大会(日本が初勝利を挙げた大会)の日本代表ウィング吉田義人は、大会での活躍ぶりから1992年の世界選抜(World XV)に選出されオールブラックス戦(vs All Blacks)でイングランド代表センターのジェレミー・ガスコットのパントに反応し伝説のダイビングトライを挙げた(Youtubeへリンク)。それは「怪物」ジョナ・ロムー(W杯最多トライ数記録保持)をして「あんな凄いトライ、NZ人ならだれも忘れませんよ」と言わしめた。90年代終盤であれば選手としてのキャリアの後半をフランスのプロリーグで活躍した元日本代表スクラムハーフの村田亙といった選手もいた。

ただ、サッカー協会が危機感をバネにJリーグを発足させ着実にすそ野を拡大していったのに比べ、ラグビー日本代表への世間の関心は1991年のワールドカップ第2回大会から第3回大会あたりまでをピークに凋落の一途をたどったと、今となっては感じる。それを決定づけたのは1995年第3回大会の対オールブラックス(ニュージーランド代表)戦、あの残酷なまでの悪夢のゲームであろう。あの時の日本代表は第2回大会からのメンバーにいわゆる「スクールウォーズ世代」といわれる才能豊かな若手が加わり期待感もあっただけに、ショックも大きかった。

世界のラグビー界(ラグビーユニオン)は長い間世界大会の機運が無く、アマチュアリズムに基づき各国協会同士でマッチメイクする対抗戦(テストマッチ)のみが対外試合であった。その最大のイベントが当時の北半球五か国対抗(英国4協会・仏)であり、南半球の豪州・ニュージーランドのテストマッチであった。南アは当時アパルトヘイトの影響で対外試合から締め出され「幻の世界最強」と呼ばれていた。当然強豪国からすれば日本との対戦は優先順位が低く、たとえテストマッチの位置づけであったとしてもシーズンオフの親善試合のムードになってしまう。そこで善戦できたことが彼我の力の差を見誤る要因となってしまったのだろう。長い伝統を誇る強豪国から「よくやったな、ニッポン」と評価されるのだから。日本の強豪チームのほぼすべてが夏合宿に集うもう一つのラグビーの聖地「菅平(すがだいら)」の高原で編み出されたサインプレー「カンペイ」に始まり、体格差をカバーするショートラインアウトの発案など、それまで様々な戦術を駆使して伝統国に一泡吹かせてきた日本だった。しかし新しい戦術は当然強豪国の研究対象になる。1987年以降、本気で勝負するワールドカップの場が設けられることで、当初は善戦できた日本も次第にその差は顕著になった。フォワードの力勝負を避け球を大きく動かすジャパンラグビーは球の蹴り合いとフォワードのごり押しに終始するラグビーと対極にあり、称賛をもって迎えられた。しかしそこには限界もあった。

なおラグビーユニオンは90年代半ばにアマチュアリズムを撤廃し、プロ化の道を歩み出す。それまではアマチュアリズムを守るラグビーユニオンに対して、プロ化を求める関係者で発足したラグビーリーグ(13人制)だけがプロのプレイヤーとして生きる場であり、両者は水と油で交流も許されなかった。
ユニオンがアマチュアであったということについては、古い話で恐縮だが1991年大会のイングランド代表ウィングのローリー・アンダーウッドは英国空軍のパイロットであった。90年代初頭に神戸製鋼で活躍した元ワラビーズ(オーストラリア代表)ウィングのイアン・ウィリアムスは現役時点で弁護士資格を有し、引退後に弁護士として活動している。
ユニオンの代表チームが国籍主義ではなく所属協会主義をとるのも、本業の傍らで自分の仕事場に近いクラブのゲームに出場する仲間同士が、国籍を超えてクラブの所属協会の代表選手としてジャージに袖を通すというアマチュア時代からの長い伝統が今に影響していることによろう。
これは時代に応じて少しずつ変容していくかもしれないが、数大会を経たくらいで急激に変われるものではない。特に人口の少ない伝統強豪国の協会はそうであろうと思う。
現在ではリーグのみならずユニオンもプロを認めていることに変わりはない。日本のラグビーユニオン(JRFU)でもトップリーグの企業チームにプロとして所属する選手が多数いる。
プロの話でいえば世界三強の一角、オーストラリアではラグビーというと「ラグビーユニオン」「ラグビーリーグ」そして「オーストラリアンフットボール」がある。ユニオンがアマチュアの時代にはユニオンは人気面で後れを取りオージーたちの間では「御嬢さんのラグビー」などと揶揄されていた時代があったという話を記憶している。北半球以上に南半球にとってプロ化は切実な課題だった。

1995年大会(南アが国際舞台に復帰した記念すべき大会)で「世界一の称号を奪還する」と手を緩めなかったオールブラックスとの一戦での大敗以降、代表チームが見ていてあまりに居たたまれないスポーツは、当然一般的な人気も醒めていく。本当にラグビー観戦が好きな人以外にとって、代表チームの存在は存在感のない空気のようになってしまった。
2000年代には、1987年(第一回)ワールドカップのトライ王・伝説のウィングとして世界的に高名な元オールブラックスのジョン・カーワン(JK)をヘッドコーチに招聘。「まさかあのカーワンが日本に?!」と、ラグビーファンにとっては青天の霹靂であり同時に藁にもすがる思いだった。そのカーワンにしても、ゼロどころかマイナスからともいえるスタートでは、代表のレベルを戦える集団まで引き上げることはできたものの、当時の日本代表と同レベルのカナダ代表に対して2007年、2011年の二大会連続で引き分けるまでが精一杯だった。
2007年、土壇場で追いついての引き分けは劇的であり、嬉しかった。が、2011年、「今度こそ」の思いも空しく、あとわずかのところで追いつかれての引き分けは、本当につらかった。カーワンにしてもここまでか。これでだめなら、日本代表がワールドカップで勝利するのはもう永遠に来ないのではないか。ラグビー観戦ファンとしては、やるせなかった。



そうして迎えた2015年大会、あのグループリーグ初戦における世界三強(オールブラックス・スプリングボクス・ワラビーズ)の一角、スプリングボクス(南アフリカ代表)戦。いつものワールドカップの初戦の結果通りかと思いきや、まさかの結果が飛び込んできたのである。興奮するな、といわれる方が無理だ。まさに東大野球部が福岡ソフトバンクホークスに、いやメジャーリーグチャンピオンに勝ったようなものだ。
結果の分かっている録画であっても、ここで同点PG(ペナルティゴール)を狙わずに逆転トライなんだ、と分かっていても興奮したが、中継で見なかったことは一生の不覚だった。先入観なしにすっと中継に入っていったビギナーの方々は、本当に素晴らしいものを見られたと思う。

そしてスコットランド戦。ハーフタイムでスコットランドのヘッドコーチが「パニックになるな!」と選手を鼓舞したらしいという、あの一戦。そして迎えた後半の半ば、緊迫した展開の中、敵陣深く攻め込む日本を懸命に防御するスコットランドフィフティーンに対して、スタンドのスコッチ達から湧き上がる国歌「フラワー・オブ・スコットランド」の大合唱。自軍に不利なレフリーのジャッジに対する凄まじいブーイング。そしてスコットランドがインターセプトから三本目のトライを挙げた時の「どうだ、見たか、これがスコットランドだ」と言わんばかりの興奮の渦中での国歌の大合唱。
まるで伝統国強豪8か国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)同士のテストマッチのよう。そこにはこれまでの日本が失点を重ねた時にありがちな「おまえたちもここまでよくやったな」という生暖かい空気感は、微塵もなかった。
大合唱を聴いたとき「ちくしょう」と同時に「ああ、奴らは初めて日本を真剣勝負の好敵手として認めたんだ」という感慨が湧きあがった。負けた試合ではあったが、ある意味一番印象深い試合だった。
翌日のメディアは判で押したように「大敗」の文字を躍らせた。しかし、それではあの試合の空気感は全くといっていいほど伝わらない。試合の雰囲気をきっちり活字にできる人はもはやスポーツ専門誌に寄稿するライターくらいで、一般紙・スポーツ紙メディアにはもういないのだろう。
あのゲームは、それまでの同様な点差のそれとは全く異質だった。後半の半ば、スコットランドが突き放しにかかるまでの、「ボクスを倒したジャパンが凄まじい気迫でゴールに迫る」という、スタジアムの異様な緊張感。かつて味わったことのない雰囲気。あの時間帯で日本がトライを一本返しゴールも決めれば1トライ1ゴール差、試合の行方は全く分からなくなっていた。しかし、敵陣深くから逆襲の三本目を決められ、緊張の糸が切れたかのように最後は力尽きた。
せめて「激闘及ばず」くらいにすべきだった。最後の20分を完封しろというのは、中三日で格上の強豪国と連戦した満身創痍の日本代表には酷な話だ。そして、そのスケジューリングこそがティア1上位国とティア2諸国との間を深い溝のように隔てる、世界のラグビー界の現実でもある。

そして、10回やって3回勝てるか、というサモア戦での完勝。西サモア時代から勝てる気がしなかった相手に堂々と渡り合っての完勝は、一つのきっかけでバックスが爆発的にトライを重ねるアイランダー(「七人制(セブンス)王国」フィジー、サモア、トンガ)の底力を何度も見てきた目には、ただただ信じられなかった。「ここでPG(ペナルティゴール)を決めれば、自陣の反則が即失点に結びつくプレッシャーで、相手が勝手に自滅する」という冷静な試合運びは、さすがエディージャパンの申し子たちだった。アメフトでいうギャンブルに行って逆襲のトライを喰ってそこから総崩れになってしまっては、元も子もない。あの流れ、あれだけあった残り時間では「蓋し、当然」の選択だった。そのことは前半の半ば、シンビン(危険なプレーに対する罰則の一時退出)で選手を二人欠くという異常事態に陥ったサモアが日本の攻撃を1トライに食い止めた、逆を言えばあの時間帯でサモアを戦意喪失させるようなトライの積み重ねができなかったことが、雄弁に物語っている。ノーガードの殴り合いで筋骨隆々のサモアをマットに沈めるような力は、いまの日本にはない。あの試合は、とにかく絶対に落としてはならない試合だった。
翌日のメディアの「ボーナスポイントを狙わないのか」という論調は、それまでの日本ラグビーの長い経緯を踏まえなさすぎる。そもそもボーナスポイントは強豪国同士のテストマッチがノートライのPG合戦ばかりではラグビー人気の拡大に危機をもたらす、という認識の下にトライを取りに行くラグビーを推奨させるための制度だ。

最後に、開幕前までは多くのラグビーファンが「何とかアメリカにだけは」と願っていた空気から一変、ラグビーで初めて「勝って当然」という世間の空気の中で迎えたアメリカ戦。日本戦に照準を合わせてレギュラーの大半を温存し、休養十分で勝負をかけて来たアメリカ。そこで身体能力の高い、個々の突破力で上回る相手に怯むことなく、勝ちきった日本。


夢を見ているかのようなグループリーグの数週間だった。
世の中の空気の劇的な変化が、現実のものとなった。まさか、生きているうちに時代の目撃者になろうとは。変な例えで恐縮だが、98年のベイスターズ38年ぶりの優勝(自分の人生のなかでは初優勝)の時の感覚が甦ってきた。
あるいは「こんな話は書けない」というJ.K.ローリング(ハリーポッター作者)のコメントを引き出したという意味では、「まるでマンガだ、ドカベンだ」「いやマンガでもさすがにこれは描けんだろ」といわれた、完全アウェイの雰囲気の中で死闘が繰り広げられるうちに観客全体を「行け!」という雰囲気、歴史に立ち会う高揚感にのみ込んでいった98年横浜高校のPL、明徳、京都成章の三連戦以来の興奮か。

間違いなく、日本スポーツ界の伝説の仲間入りである。


エディージャパンの「ジャパンウェイ」がこれまでの代表の戦術を駆使したスタイルと決定的に違うのは、小柄で非力であることを言い訳にしないこと。選手たちがそれこそ「泥を喰う」ような凄まじい練習に耐えぬいて培った無尽蔵の体力による裏打ちである。パワーで拮抗させ、持久力で圧倒する。ここまで苦しくつらい練習は、おそらく外国チームに真似は出来まい。「桜のジャージ」の誇りを胸に、日本生まれ、あるいは日本育ちの選手たちに混じり外国籍の選手たちも、それまでイメージされた外国人選手とは似ても似つかぬ忍耐強さで、共にチームを創りあげた。すべての男たちがまさに「大和魂」の体現者であり、日本代表である。そして、こう叫んでほしい。「わしがジャパンHC、エディー・ジョーンズである!」なんか、「魁!男塾」っぽくなってしまった。


今はただただ、2019年の大会が盛況になって欲しい。ここ横浜国際は、スタッド・ドゥ・フランスに続いてサッカーとラグビーのワールドカップ両方で決勝会場となる栄誉に浴することとなった。それはそれで、嬉しい。

ただそれよりも、もしもここ横浜国際で更なる新たな歴史の一ページを目撃することができたら。いや、他の競技場でももちろん、いい。それを楽しみに、新たな歴史の瞬間を待つことにする。




新幹線・新横浜駅から徒歩圏内の横浜国際は、立地だけなら新国立より優位と思っている。全国の北から南まで、列島を貫く新幹線の各駅から是非この地に集ってほしい。


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