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鶴見川流域、新進の気風・伝統の心。


2.師岡熊野神社・熊野神社市民の森

1.大倉山記念館・大倉山公園梅林はこちら。




東急・大倉山(おおくらやま)駅東口から徒歩数分、綱島街道・熊野神社入口交差点。角に師岡(もろおか)熊野神社と彫られた石碑が立つ。
綱島街道から道を折れてしばらく進む。




師岡熊野神社と熊野神社市民の森。
大きく分けて二か所の森からなる市民の森は、合計面積およそ5ヘクタール(100m四方×5)、熊野神社の社叢林を含む熊野山一帯の森。




鳥居の向かいには、「いの池」。中央には水神社が祀られる。この池は灌漑用のため池であったと伝わる。




鶴見川中流〜下流域には「三ツ池公園」の池や「二ツ池」をはじめ、ため池が多い。それは低地を流れる鶴見川が海水の逆流を招きやすく水田耕作に適した水を得ることが難しかったことによる、とされる。




師岡熊野神社の創建は奈良時代の神亀(じんき)元年(724)と伝わる。

仁和元年(885)には光孝天皇の勅使(ちょくし。天皇の使者)藤原有房が下向、天皇の病気平癒を祈願したところ効験(こうけん)があり「関東随一大霊験所熊埜宮(熊野宮)」の勅額を賜った。以降、関東における熊野信仰の拠点として栄え、また横浜北部の総鎮守として信仰を集めてきた。




近隣地名の由緒となった故事は枚挙にいとまがないが、代表的なものとして勅使が着用した大口袴が大口(おおぐち。神奈川区)の地名となって残る(貞治三・1364年、熊野山縁起)。




江戸名所図会に見る師岡熊野権現宮。




正面に拝殿、その奥に幣殿、本殿と並ぶ権現造(ごんげんづくり)の社殿。菊の御紋が見える。拝殿の両翼には翼殿を配している。

明治3年(1870)には県社に列せられた。明治6年(1873)には氏子の陳情により三十三ヶ村の郷社に列せられた、とされる。

郷社は社格としては県社の下になるので請願で下の社格を望むのは妙な気もするが、郷社には戸籍制度を補完するという役割もあった(氏子調・うじこしらべ。江戸時代における寺の宗門改に相当)。氏子調の制度は明治4〜6年と、わずか2年で廃止されているが、当時の人々に熊野神社の氏子であるという帰属意識を共有したい、という思いもあったのかもしれない。




蟇股(かえるまた)には龍の彫り物。
彫刻以外の部分は多くが新材に置き換わっている。




木鼻(きばな)の獅子鼻、獏鼻。




拝殿は明治17年(1884)、こけら葺の本殿は正徳2年(1712)の築。いずれも改修を重ね、新材に置き換わっている部分も多い。

平成17年(2005)の大修造により幣殿、覆殿(おおいでん。本殿を覆う)、翼殿など付随する建物は面目を一新した。




覆殿に覆われた、本殿。新材と古材が組み合わさっている。




師岡熊野神社の社紋は、八咫烏(やたがらす)。




そのつながりで、八咫烏を代表チームのエンブレムとする日本サッカー協会(JFA)公認のサッカー御守が頒布されている。
2002年大会決勝の地・日産スタジアム(横浜国際総合競技場)のある小机(こづくえ)の地は、熊野神社の旧氏子地域でもある。旧氏子地域は先にも触れたとおり現在の横浜市域北部一円に広がっていた。




さざれ石の碑。平成26年(2014)に設置されたばかり。
小さな石がやがて岩となって、苔のむすまで。悠久の御世を詠う和歌を歌詞にもつ、我が国歌。




社殿の背後へ。




のの池。池とはいうが、その大きさは溜井(ためい。湧き水の井戸)のよう。筒粥神事の水はここから採取される。




筒粥神事の案内板。




境内には「みくまの五木」と呼ばれる大木が競うようにそびえている。熊野神社は名木古木の宝庫でもある。
表参道石段脇のスダジイ。




さざれ石そばのイヌシデ。




社務所そばのシラカシ。




東側参道のイチョウ。




西側参道のアカガシ。




権現山への登路となる、みくま通りへ。




熊野神社市民の森の案内図。  拡大版。




社叢林。市街地に残された、鎮守の森。

横浜市域に社寺林は数あれど、これほどまでによく保存された天然林はそうざらにはない。アカガシをはじめとした自然林(天然林)の植生が良く保たれており学術的価値が高い、という。




アカガシの老木。樹皮がボロボロと剥がれかけている。




大きな「うろ」ができた、古木。




スダジイの巨木。幹が分かれたのか、密着して伸びているのか。




山頂の、権現山広場。標高およそ42m。




広場からは武蔵小杉(川崎市中原区)のタワー群が良く見える。手前を斜めに延びていく、新幹線の線路。




権現山広場に設置された師岡貝塚の案内板。太古の昔、鶴見川流域は古鶴見湾として入江が奥深くまで入り込んでいた。




境内の大イチョウ脇から、熊野神社市民の森を構成するもう一つの森へ、急坂を上がっていく。




赤く舗装された十字路を右折、まっすぐに進む。




突き当りにもう一つの森への入口。杉山神社裏の森に続いている。




この尾根道は「長命通り」と命名されている。二つの神社の森をつなぐ、おめでたい名称。




途中に見える、ランドマークタワー。隣はメディアタワーのアンテナ。




新横浜プリンスホテルはもっと近い。




尾根道を乗り越える切り通し(狭い舗装路)を横切り、先へ行く。




天神平広場。市のガイドマップには「てんしんひら」と振られている。熊野神社の権現山に対し、こちらは天神山と記される。




杉山神社へ下りていく。




杉山神社。

杉山神社は鶴見川・帷子川(かたびらがわ)流域とその周辺に多く分布しており、全国的に見ても他地域にはほとんど見られない。分からないことも多い杉山神社であるが、現在までの研究ではおおむね次のようにまとまっている。参考文献・「港北区史」「わがまち港北」 

1.古くは「続日本後記」(しょくにほんこうき。九世紀編纂)に武蔵国都筑(つづき)郡杉山神社の記述がみられる。
2.「延喜式」(えんぎしき。十世紀編纂)の神名帳(じんみょうちょう)には官社に認定されている神社の一つとして記載されている(式内社・しきないしゃ)。
3.新編武蔵風土記稿(江戸時代後期編纂)には橘樹(たちばな)郡・都筑郡・久良岐(くらき)郡・南多摩郡で計73社の杉山神社が記載されている。いずれも流域に定着した土豪がお祀りする氏神が一族の勢力の拡大に従って新たに、あるいは他氏族を従える過程で氏神が統一されて広がっていったと考えられている。そのうちいずれが本社たる式内社杉山神社かについては諸説(四説ないし五説)があるが、決定的な決め手はない。




ここ熊野神社市民の森の一角に鎮座する杉山神社(樽町(たるまち)の杉山神社)は創建不詳であるが、師岡熊野神社から分社したとも考えられている。




杉山神社を後に、横溝屋敷、獅子ケ谷(ししがや)市民の森へ向かう。


3.みその公園横溝屋敷、獅子ケ谷市民の森へ。  まち歩きトップへ戻る。