まちへ、森へ。

時空に連なる、悠久の流れ

4.久良岐能舞台から岡村公園・岡村天満宮へ

 

3.久良岐公園・久良岐能舞台はこちら。

 

 

久良岐(くらき)能舞台の表門を出て、通りへ。正面には藤の木中。通りを右に曲がり、道なりに行く。

 

 

 

突き当りの手前、神奈川銀行岡村支店。突き当りを右へ、しばらく行く。

 

 

 

学習塾の角を、左に入って上っていく。標高は20m。

 

 

 

急な階段を一気に登る。

 

 

 

振り返れば上大岡の高層ビルに、うっすらと富士山、丹沢。このあたりで標高53m。

 

 

 

登りきった先を行き、突き当りを左へ。

 

 

 

道なりに行く。

 

 

 

道なりに行った先、左手に岡村公園の樹木が見えてきた。

 

 

 

岡村公園の、梅林入口。

 

 

 

案内図。
岡村公園は昭和25年(1950)に開園。広さは約6.8ヘクタール。もっとも、野球場やテニスコートのエリアが実際に憩いの場となったのはずっと後のこと。

 

現在テニスコートや詰所になっている一帯は戦前、隣接する岡村天満宮の大神殿遷宮という壮大な計画があった。しかし戦時下というご時世の元、状況は一変。
大神宮遷宮が叶わなかったため昭和18年(1943)までに用地が公園として提供されることとなったがその後すぐに防空体制構築のため陸軍が用地を接収。一帯は、野毛山(のげやま)をはじめ市内数か所にあった高射砲陣地のひとつとなる。

 

そして戦後、昭和25年までにいったん公園として整備完成を見るも今度は朝鮮戦争を機に進駐軍が公園を接収。昭和30年(1955)に至り米軍による接収は解除されるが自衛隊が陣地を引き継ぎ、その後は代替地として隣接地が公園として整備された。陣地の廃止返還は昭和41年(1966)に至ってのことであった。
参考文献・岡村の今昔、横浜の公園史稿 

 

 

 

梅林へ。

 

 

 

小広く開けたところから、さらに下っていく。

 

 

 

 

 

 

 

下りたところが、岡村公園梅林。

 

 

 

 

 

 

 

岡村梅林マップ。

 

 

 

梅林の正門。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この梅林はかつての天満宮の梅林が面影を失ってしまったため、新たな憩いの場として昭和55年(1980)日本発条(ニッパツ)の協力を得て整備された。

 

 

 

二月末・梅花シーズンはこちらのページへ

 

 

 

梅林から多目的広場へ。

 

 

 

 

 

 

 

道路に上がると、東戸塚オーロラシティのタワーが見える。

 

 

 

 

 

 

 

上大岡の超高層ビルもよく見える。

 

 

 

ここから岡村天満宮(岡村天神)へ向けて、下っていく。このあたりで標高47m。

 

 

 

視線の先には、参道となる「天神道路」の大鳥居(現在の一の鳥居)。

 

 

 

右手には二の鳥居と天満宮への参道階段。

 

 

 

 

 

 

 

由来碑にみる縁起によれば建久年間(1190〜1198。源頼朝の治世)に、鎌倉からこの地に移った武士が京都・北野天満宮から分祀したのが始まりという。
室町時代にはこの近くの曹洞宗竜珠院(りゅうしゅいん)が別当(べっとう。寺務を管理する役職または寺)として天神様の管理にあたっていたが、明治初期には神仏分離・廃仏毀釈の流れのなかで竜珠院の手を離れ村社となった。

 

 

 

岡村天神の「すいか天神」
画像出典・「磯子の史話」昭和53年(1978)横浜市磯子区発行。

 

岡村天満宮・初天神(1月下旬。「すいか天神」の頒布もある)はこちらのページ

 

 

 

 

 

 

 

参道途中には五穀豊穣の神を祀る白笹稲荷(しらささいなり)。

 

 

 

白笹稲荷といえば表丹沢山麓に広がる名水の里・秦野(はだの)市の白笹稲荷神社が有名だが、このお社はその白笹稲荷神社を本社とする。

 

 

 

秦野で唯一の蔵元・金井酒造店(かねいしゅぞうてん)の銘柄「白笹鼓(しらささつづみ)」は白笹稲荷神社にちなんでいるもの。「しらささつづみ」は横浜市内でも様々なスーパーでときおり目にするので、見たことがある人もいるかもしれない。

 

 

 

石の臥牛(がぎゅう)像。痛いところをさすると平癒するというご利益が人気を呼んだ。

 

 

 

案内文によるとこの石像は明治後期に横浜・吉浜町の石工が奉納したもの。明治期、岡村天神の縁日は「横浜の三大縁日」として有名だった(あとの二つは野毛不動、元町薬師)。

 

 

 

拝殿・幣殿・本殿が縦に並ぶ、権現造(ごんげんづくり)の社殿。参拝者の正面に見える拝殿は入母屋造(いりもやづくり)流れ向拝(こうはい)付・千鳥破風(ちどりはふ)の銅板葺屋根。
現在の社殿は老朽化した旧社殿に代わり昭和50年(1975)に竣工した。

 

 

 

天神様といえば、梅。千鳥破風の鬼瓦にあたる位置には、天満宮らしく梅鉢(うめばち)の紋があしらわれている。

 

 

 

旧社殿は明治末期に他所の二社を合祀した際に天保年間(1830〜)からの拝殿・幣殿に新たな本殿を増築した茅葺の社殿であった。
画像出典・「磯子の史話」昭和53年(1978)横浜市磯子区発行。

 

 

 

大震災の前には境内を広げるために社殿を後ろに下げて社務所をつくっているが、震災により社殿は大きく損傷、それ以外は倒壊してしまった。
画像出典・同上。

 

 

 

拝殿に向かって右手には、入母屋造の神楽殿(かぐらでん)。御祭礼の際には戸が外されて催事の舞台となる。

 

 

 

天満宮を後に、三殿台(さんとのだい)遺跡へ。

 

 

 

天神道路の、大鳥居。

 

 

 

岡村交番前の信号。標高14m。向かいの旧家の角には、かつて天神参詣道としてにぎわった頃をしのぶ案内板がある。
昭和の初めまで横浜旧市街地の人々は船で堀割川(ほりわりがわ)の天神橋に乗り付け、そこから歩いて天神様に参詣したという。

 

三殿台へはここから真っ直ぐ、上り返していく。

 

 

 

岡村天神旧参道の案内図。
明治7年(1874)に開削された掘割川に架かる天神橋は、岡村天神への旧参道の入り口にあたるところから名づけられた。

 

 

 

 

 

 

 

交番の位置は当時と同じ。

 

 

 

天神道路の案内板のすぐ隣に、三殿台遺跡の案内板。

 

 

5.岡村天満宮から三殿台遺跡へ

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