まちへ、森へ。

三浦半島、自然の中に息づく歴史

3.三崎城址から城ケ島へ

 

2.油壺・新井城址はこちら。

 

 

三崎城址の最寄となる三崎東岡(みさき ひがしおか)バス発着場。時刻は午後1時15分。

 

 

 

のりば案内。
三浦市役所入口、三崎港バス停方面に向かうには城ヶ島・通り矢方面へ。

 

 

 

バス停から少し下ると三浦市役所入口。信号で左に入る。

 

 

 

三浦市役所(三浦市城山町)の本館と分館。この辺りは三崎城の大手(おおて。正面)にあたる。

 

 

 

本館の裏手、市役所第二分館(旧三崎中学校)敷地の擁壁は曲輪(くるわ。城の区画)の土塁だった。

 

 

 

分館の裏手には土塁が残っている。土塁の向こうの区画はかつて三浦市体育館が建っていた。

 

 

 

第二分館(旧三崎中学校)の入口付近にも土塁が残る。

 

 

 

そして案内板。

 

 

 

三崎城址の案内板。

 

三崎城の主は鎌倉時代後期から室町時代中期にかけての三浦氏(佐原流)、そして戦国時代の北条氏。
築城年代は解説にある通り不詳とされるが、少なくとも佐原流三浦氏の何れかの代であることは間違いない。佐原流の三浦氏は鎌倉時代中期、宝治合戦で滅んだ三浦氏(嫡流。最後の当主は三浦泰村)を復興した、三浦一族生き残りの傍流。嫡流の三浦氏は衣笠城(横須賀市)を本城としており水軍の拠点は怒田城(ぬたじょう。横須賀市吉井、舟倉、久里浜付近))にあった。
一方、三浦氏傍流の佐原氏は佐原城(さわらじょう。横須賀市)を拠点としていたが、いったん滅亡した三浦氏を復興したのち何れかの代で拠点を新井城(三浦市油壺)に移している。そして三崎城が三浦水軍の拠点となった。室町中期ごろを記した文献資料では新井城から南の城砦をひっくるめて「三崎城」と称している。

 

戦国時代の初頭、復興三浦氏の最後の当主、三浦道寸は北条早雲との激戦の末、新井城に滅ぶ。そして「三崎城」と称された城砦の中で、この三崎城が小田原北条氏により大々的に修築されて北条水軍の拠点となった。
本家第二代氏綱・三代氏康の頃、三浦衆(軍団)は小田原本城の直属とされ、行政面で当地区を管轄したのは小田原城の支城・玉縄城(鎌倉市)であった。三崎城には城代を配置した。
三崎城が小田原城の支城として地域の行政を管轄し三浦衆が三崎城の所属となったのは戦国時代の後期、北条氏規(ほうじょう うじのり。小田原北条氏第四代氏政の弟)の頃となる。

 

 

 

三崎城説明図。

 

この図は三崎城の縄張(なわばり。城の区画全体を示した図)を大まかに示した概念図となる。
この図では本丸(主郭)となる曲輪(くるわ)を三浦市体育館が建っていた区画とする。一方で「神奈川中世城郭図鑑」では主郭を旧青少年会館が建っている区画とする。

 

 

 

旧青少年会館の建つ区画へ。そこは奥に位置する三浦市慰霊堂への参道となっており、土塁が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

駐車場だったところも周囲を土塁が囲む。

 

 

 

慰霊堂へ。

 

 

 

戦没者慰霊碑。

 

 

 

木々の隙間から城ヶ島を望む。

 

 

 

慰霊堂の脇から城の搦手(からめて。裏面)を下りていく。この辺りも曲輪を囲む土塁が残っている。

 

 

 

下りた先を、折り返すように下へ。

 

 

 

上には土塁が続く。

 

 

 

下へ。

 

 

 

下まで下りるとコンクリート擁壁になっている。

 

 

 

北条湾へ。

 

 

 

北条湾側の崖は急傾斜地崩壊対策工事でコンクリート擁壁になっている。往時には北条湾からそそり立つ断崖絶壁を利用して上部に土塁を構築したのだろう。想像するだけで迫力満点の城郭だ。

 

 

 

北条湾の入江の向こうに横たわるように延びる、城ヶ島。城ヶ島が天然の防波堤になっている。

 

 

 

断崖絶壁の上に構築された、三崎城址を見上げる。

 

 

 

地図を片手に崖を見上げながらうろうろしていると、通りすがりのバイクの男性から「何かお探しですか?」と声をかけられた。
「実は三浦の城跡を巡って、かくかくしかじか」と地図を見せながら話すと「よかったらこれもちょっと見ていきませんか?」と案内された。

 

 

 

案内されたのはすぐそばの石垣。野面積み(のづらづみ)のようだが石の隙間がコンクリートで埋められ、一部が残されている。

 

戦国時代の終わりとともに一度は廃城となった三崎城だったが幕末期に異国船が頻繁に来航するようになると、この地を海防に活用するために石垣が築かれ陣屋が建てられたという。
三崎城にもそのような歴史があったとは知らなかった。言われてみれば、ここは浦賀以上に最前線だ。

 

 

 

石の一つに紋が刻まれている。これは石垣の普請を負担した大名家の紋であるという。
幕末期に江戸湾の海防を負担した藩は主に関東の河越藩と忍藩であったが、弘化三年(1846)のビッドル艦隊来航以降は雄藩の彦根藩と会津藩も加わっている(会津は再任)。三浦地域の担当は河越藩だった。後で調べてみると、この紋は河越藩松平(松井)氏の家紋である「蔦(つた)紋」のようにも見える。

 

 

 

この一角は三崎港が賑わっていた長い間、料亭として利用されていたそうだ。料亭が無くなった後こうしてほんの一部だけが保存されている。「三浦市はお金がないからね」と笑いながら語る男性にお礼して別れ、先へと進む。

 

 

 

北条湾は三浦半島における北条水軍の一大拠点。北条早雲による三浦氏の攻略後、三崎城は安房(あわ。千葉県南部)の里見氏と対峙する戦略拠点となった。
北条氏の水軍「三浦衆(本光院殿衆)」は三浦水軍(三崎十人衆)を家臣として取り立てて引き継ぐ形で整備された。また紀伊(伊勢・熊野)から水軍を傭兵し、大型船の安宅船(あたけぶね)を関東に初めて導入した。

 

こうして三崎城・北条水軍は里見水軍との激しい抗争を繰り広げていく。それは本家四代氏政による里見氏との和睦の成立まで続いた。

 

 

 

日の出交差点で右折、三崎小学校方面へ進む。

 

 

 

坂を上っていく。

 

 

 

坂の右手に大きな崖。地層が斜めに傾いている。三浦市のあたりは有史以前からの度々の大地震により土地が大きく隆起しており、ここもそうしたことによる歪みだろう。
ここは三崎城址案内図にあった本丸から南側に突き出した曲輪のあたりとなる。一見すると三崎城の切岸(きりぎし)のようだ。これは戦国時代以前の遺構か、それとも近代以降の造成だろうか。あの岩穴は北条氏からではなく三浦氏の時代まで遡るものであれば、「やぐら」の可能性もあろうか。

 

 

 

坂の左手は本瑞寺。本瑞寺の敷地も曲輪の一つとして城郭を構成していたと考えられている。

 

 

 

右手には本丸側の土塁。

 

 

 

Y字路の信号手前にはかなり大きなクスノキ(タブノキ?)。

 

 

 

 

 

 

 

信号の向こう側は三崎小学校。ここまで来た道は空堀の跡ということになろう。この先は三浦市役所入口。ここまでで主郭側をほぼ一周したことになる。

 

 

 

Y字路を折り返すように登り、本瑞寺へ。

 

 

 

奥に本瑞寺の門が見える。

 

曹洞宗本瑞寺の開基は鎌倉〜室町時代の復興三浦氏最後の当主・道寸の息子にあたる三浦義意(みうら よしおき)と伝わる。それに先駆け、建久年間には源頼朝が「三崎の三御所」の一つとなる「桜の御所」をこの地に造営した、とされる。

 

江戸後期の地誌「新編相模国風土記稿」巻之百二十一三浦郡之五衣笠庄三崎城蹟の項は「吾妻鏡」(鎌倉幕府の史書)を引用。頼朝の時代には「建久五年閏八月一日将軍家渡御・・是於三崎津、被建御山荘之故也(これは三崎の津において御山荘を建てるためである)」とある。また三代実朝の時代には「建暦二年三月九日将軍家渡御、三浦三崎御所」とある。

 

本瑞寺は参詣者以外の立ち入りを禁じます、と掲示している。城ヶ島まで先はまだまだ長いので長居はできない。今回は立ち入りを遠慮。

 

 

 

本瑞寺に隣り合う光念寺の門から奥を見ると、本瑞寺の側に土塁が見える。

 

浄土宗光念寺は平安〜鎌倉時代における三浦一族の重鎮、和田義盛が開基となって建久年間に開かれたと伝わる古刹。
和田義盛の父、義宗は三浦氏嫡流の長子であったが矢部郷(横須賀市)の衣笠城を継いでいない。彼は鎌倉の杉本(金沢街道・杉本寺あたり)を本拠とした、とされる。
そして家督を継いだ子の義盛は三浦郡和田郷(三浦市初声町・はっせまち)を拝領し、和田を名乗った。

 

 

 

光念寺の門前を過ぎて突き当りを左折、海南神社に向かう。

 

 

 

右へ下りていく。

 

 

 

城ケ島大橋が見える。すぐの角を右へ。

 

 

 

進んだ先の階段を降りて、右へ。

 

 

 

まっすぐ進むと海南神社の参道に突き当たる。

 

 

 

海南神社参道。

 

 

 

海南神社。

 

 

 

案内板。

 

海南神社は社伝によると貞観八年(866)の創建。祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)。資盈は故あって九州から漂着し、当地で海賊を退治したり文化を伝えることで土地の人々に慕われた。資盈亡き後に人々によって祠が建てられて祀られたのが海南神社の起こりとなる。天元五年(982)には現在地に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。

 

 

 

神橋。
神橋の擬宝珠(ぎぼし)には徳川の船奉行・向井忠勝が寛永十七年(1640)に奉納したものがある、という。

 

向井忠勝は向井政綱の息子。父の政綱は北条の滅亡後に関東に入った家康の下で船奉行を務めた。浦賀にスペイン船が来航していた頃、政綱はその卓越した能力を発揮してウィリアム・アダムズ(三浦按針)とともに外交面で家康を支えた。

 

 

 

寛永十七年の擬宝珠を探してみたが、ちょっと分からなかった。この擬宝珠はペリー来航の直前、嘉永元年(1848)の奉納。

 

 

 

御神木のイチョウ。こちらは源頼朝の御手植えとされる。

 

 

 

拝殿。

 

 

 

拝殿に向かって右手の石段を登っていくと、海運の神様・金刀比羅宮が勧請されている。

 

 

 

鯉のぼりが力強く泳ぐ、初夏の境内。

 

 

 

日の出交差点に戻る。

 

この界隈は三浦市の旧市街。日の出から三崎港にかけて、通りは三崎名物マグロ料理を食べ歩く観光客の人たちが行き交う。

 

 

 

本瑞寺への参道石段。上まで登ってみる。

 

 

 

石段上から見下ろす三崎港、城ヶ島。城ヶ島は立木に遮られている。

 

先に触れたように鎌倉時代、本瑞寺の地は「桜の御所」と称する将軍別邸だった。建暦二年(1212)三月には三代将軍実朝がこの地を訪れている。一行は船中で舞楽の興を催すなど、風雅なひとときを過ごした。

 

桜の樹は御所内に植えられていたのか、あるいは城ヶ島に自生したであろう山桜を眺めて、そう呼ばれたのか。

 

 

 

北条湾沿いに大椿寺(椿の御所)へ向かう。時刻は午後2時半過ぎ。

 

 

 

北条湾からの城ヶ島。

 

 

 

北条湾からは港の浚渫の際に永楽銭が大量に出土した。「新編相模」によれば古くは応永十年(1403)、唐船(からぶね)が当所に着岸。船中の永楽銭数百貫を三代将軍足利義満が第三代鎌倉公方・足利満兼に与え、この頃に永楽銭が関東に流布したとある。
「小田原記」では永禄九年(1566)に唐船が着船。「北条五代記」には天正六年(1578)に唐船が三崎湊に来航したことが記されている。

この入江は北条氏にとっては軍事拠点であると同時に商港でもあり、北条一門に富と繁栄をもたらすこととなった。たとえば小田原城の支城である八王子城(城主は四代氏政の兄弟衆である氏照)からはイタリア・ベネチア製レースガラス器が出土している。
むろん、南蛮の舶来品は堺あたりの豪商から入手したと考えるのが最も有り得ることではあろう。とはいえ、ここ三崎での商いの可能性もまた、捨てきれない。確実な資料に乏しいながらも厳然と存在する真実は、時にロマンを掻き立てる。

 

三崎が博多や堺のように中高の歴史の表舞台で学ばれることは、まずない。しかし小田原北条氏の領国・関八州は明からの貿易船が通商のためにわざわざ来航するに値する、東国の独立国家でもあった。一般には広く知られることの無い歴史は、こうして深く静かに眠っている。

 

 

 

北条湾からの三崎城址。旧青少年会館や三浦市慰霊堂が建つ、崖上の曲輪(一説には主郭)を見上げる。

 

 

 

「本丸」から南曲輪、本瑞寺の曲輪。

 

 

 

護岸から道路に上がると椿の御所バス停。先へと進み、左に入っていく。

 

 

 

大椿寺の参道。「椿御所旧跡」と刻まれた石柱が立つ。

 

 

 

臨済宗大椿寺(だいちんじ)。

 

 

 

案内板。

 

大椿寺もまた、頼朝が三崎に設けた三御所の跡地の一つとされ「椿の御所」が建っていたという。頼朝の側室がこの地に住み、頼朝の没後は出家して妙悟尼と称し頼朝の菩提を慰めつつ三十余年を過ごした、とある。

 

なお新編相模では「寺伝に此の地は妙悟尼住せし所にして、園中椿樹多くありし故、世俗椿御所と称す」とされている。ちなみに今回は訪ねなかった「桃の御所」見桃寺については「寺地往古は桃林ありて鎌倉将軍しばしば遊観ありしと云う」とある。

 

 

 

大椿寺から城ケ島大橋へ。

 

 

 

デカい橋だ。

 

 

 

城ヶ島。

 

 

 

 

 

 

 

城ケ島大橋は有料だが、歩行者・自転車は無料で通ることができる。

 

 

 

橋は長く、高度感がある。

 

 

 

海上に差しかかると金網フェンスが無くなった。高いところは結構好きなのだが、この日は帽子の吹っ飛びそうな強風が吹き荒れていたので欄干ぎりぎりは煽られそうでちょっと怖い。

 

 

 

三崎港。城ケ島大橋の橋脚が、似たような橋である江の島大橋と比べてわざわざ巨大に造ってあるのは、三崎港を出入りする遠洋マグロ漁船の航路に架かるため。満潮時の海面からの高さは21mもある。

 

 

 

北条湾、三崎城址の眺め。

 

最後の城主・北条氏規(うじのり)は本家四代当主氏政(小田原合戦時は御隠居様)の兄弟衆であり、秀吉との外交交渉を担った重臣であった。

 

小田原合戦時には家臣たちは秀吉軍本隊に対する東海道方面、前田・上杉ら北国軍勢に対する北関東方面に配置される。氏規は重要防衛拠点の一つである韮山城(伊豆)に城将として籠城、三崎城は城代に任された。
氏規は小田原合戦に至る前から合戦までの働きぶりが秀吉の気に入るところとなり、合戦終結後は北条一族の生き残りとして秀吉に仕えることとなる。詳しくは石垣山一夜城・小田原合戦の顛末のページへ

 

城山はごく最近まで三浦市街の中心部として体育館や青少年会館・図書館などが立地、利用されてきた。しかし老朽化が進んだうえに人口減少と財政上の問題もあり閉鎖、さらには解体されたものもある。
今後、城山はどうなってゆくのだろうか。市の財政が厳しいのは承知しているが、跡地利用の際に残っている土塁・空堀が消滅してしまわないことを切に願う。

 

 

 

「桜御所旧跡」本瑞寺。三崎城の時代には城郭の一角を占めた。

 

 

 

和田義盛開基の光念寺。

 

 

 

三浦半島最南端の海岸線。

 

 

 

三崎港防波堤の赤灯台二基に、宮川公園に建つ風力発電の風車が二基。

 

入り組んだ海岸線は当然のように「リアス式海岸」だと思っていたが、厳密には異なるようだ。リアス式海岸(リアス海岸)は山が侵食されて出来た谷が沈んで、あるいは海面上昇により海水が浸入し入り組んだ湾になった海岸をいうが、三浦半島は逆に台地が隆起している。海に削られた崖は海食崖(かいしょくがい)となり、これが隆起して海岸段丘(海食台)を造る。隆起した台地の海岸線は新たに海に削られて再び海食崖ができる。この繰り返しが三浦半島南部の地形を造っている。
つまりリアス式海岸は予め削れた山肌に海水が入ってきた海岸だが、三浦の海岸は波が崖を削って入り組んだ海岸(海食崖)を造った。まあ、「細けぇこたぁ、どうでもいいんだょ」かもしれないが。
参考 地学ガイド「三浦の地層」(三浦市教育委員会発行)

 

 

 

城ヶ島に入り、まずは県立城ケ島公園へ。

 

 

4.城ケ島めぐり

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