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三浦半島・自然の中に息づく歴史


2.油壺・新井城址

1.小網代の森はこちら。




小網代の森・宮ノ前峠入口から県道に上がり、油壺方面へと歩いてきた。左手には市営油壺駐車場と油壺バス発着場。




バス発着場の先、テラスのあるカフェを過ぎると新井城址の遺構はもうすぐ。




右手にマンション。左手の工事フェンスは有料老人ホームの建設現場。




建設現場の角、「油壺験潮場入口」が新井城址の最初の遺構「内の引橋」と呼ばれる堀切(ほりきり)跡になる。ここは城の出入口だった。




験潮場入口の看板。




急坂を降りる。




先に見えるのは油壺湾。




道路に向かって左手は堀切の城郭側。櫓台(やぐらだい)の土塁が残っている。




ここには全国に83点設置された基準水準点のうちの一つがある。




右手の土手には老人ホーム建設に伴って擁壁が造成されている。




道路の反対側も急坂。坂を下りていくと小網代湾・横堀海岸に出られる。こちらも堀切の続きだった。

新井城は海に突き出した岬に構築された城。三方を海に囲まれ、城に入る陸路は現在の県道が通る道しかない。城郭の入口となるこの地に深い堀切を造り「内の引橋」を架けた。有事には橋を引き揚げることで、城郭を陸地と完全に切り離すことができた。




内の引橋跡からマリンパーク方面を見る。
ちなみにこの少し先が、ホテル京急油壺観潮荘。観潮荘から小網代の森・宮ノ前峠入口最寄ののりばまで、観潮荘の無料シャトルワゴンが運行している。




県道の先、左手から東京大学の臨海実験所敷地を取り巻く道に入ってゆく。




入ってゆく道は油壺周辺の散策コース。途中にはかながわの景勝50選・油壺の碑が立ち、この先で荒井浜に下りることができる。




散策コースの道に沿って土塁が残る。




油壺湾。




東大地震研究所の門。




土塁が続く。




新井城址の案内板が立つあたり。研究所構内はフェンスで遮られている。そして、目の前に大きな土塁。




フェンスの向こう側には土塁がはっきりと残る。「神奈川中世城郭図鑑」によると左手が新井城の主郭であり「御殿跡」の伝承が残る。奥の土塁は大きく張り出した櫓台ということらしい。左手の土塁の隅あたりが主郭への虎口(こぐち。城の区画への出入口)となっている。




新井城址の案内板。

「北方(厳密には東方)約3キロメートルの大手の引橋」とは、現在の「引橋」バス停の辺り。そのあたりは「内の引橋」に対する「外の引橋」となり、引橋が地名として残った。
「引橋」バス停の西側からは小網代の森の谷が迫っており、東側からは金田湾へと注ぐ菊名川の源流の谷が迫っている。ちょうど谷の源頭部が両側から突き上げる尾根筋のような地形に新井城への陸路が通っていたので、道を分断する堀切を設けるのにうってつけの地形だった。室町前期までの文献資料に見られる「三崎城」とはそこから南に点在する複数の城郭の総称ではないかともいわれる。

さて、解説板にもある通り新井城は戦国時代の初頭、伊勢盛時(いせ もりとき。号は宗瑞・そうずい。北条早雲)によって三浦氏が滅ぼされた際の激戦地となった。
最後の城主は三浦義同(みうら よしあつ。号は道寸)。道寸は関東の名門・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏から迎えられた養子であった。

よく「三浦氏は北条氏に二度滅ぼされた」と言われる。一度目は鎌倉幕府の重臣であり古くから源氏に仕えた有力御家人の三浦氏。三浦氏は平良文(たいらのよしふみ)を祖とする坂東平氏の一族であり名門であった。しかし鎌倉時代の中期、宝治合戦により七代目当主の三浦泰村が執権政治絶頂期の絶対的実力者であった五代執権・北条時頼によって滅ぼされる。この時に三浦氏嫡流は滅んだが、生き残った傍流の佐原氏(佐原盛時)が三浦氏を再興する。

時代は鎌倉時代から室町時代へ。室町時代の東国は鎌倉府の長官である鎌倉公方・足利氏と補佐役の関東管領・上杉氏が治めていた。鎌倉公方は代を重ねるにつれて自らが鎌倉幕府の正当な承継者であると自認し将軍家と対立。四代持氏の時に対立は頂点に達した。そのとき、長きに亘る雌伏を経て三浦氏は再び表舞台に躍り出る。初代盛時から数えて九代目の当主・三浦時高は六代将軍義教の命に同調する形で持氏を見限り、追い詰められた持氏は自害して果てた(永享の乱)。新井城はこの頃、時高がそれまでの本拠であった佐原城(横須賀市)から移転、築城したのではないかとする見解がある。とはいえ新井城の築城期は実際のところ明らかではなく、もっと前の代の築城かも知れない。

全国に「関東に三浦あり」の名声をとどろかせた時高であったが、嫡子には恵まれなかった。そこで扇谷上杉氏から養子を迎える。これが義同(よしあつ。道寸)である。こうして三浦家の家督は無事に義同に継がれていった、となればよかったのだが、そうはならなかった。晩年の時高に実子が誕生したのである。こうなるとやはりというか、養父と養子との間に亀裂が生じる。義同は三浦家を出て母の実家である小田原の国人・大森氏を頼って小田原に引きこもり、出家した。しかし、三浦家の家臣は出家した義同派と時高派に分裂。義同を頼る家臣らに促されて義同は遂に養父時高の追い落としを決意する。義同や大森氏、箱根権現の僧兵らに囲まれた新井城で時高は自害。こうして再興三浦家の最後の当主・義同が誕生した。

それから間もなく、伊豆を拠点に急速に力を付けてきた伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏の小田原城を落とす。早雲に対抗するため、義同は扇谷上杉氏と連携。自身は岡崎城(平塚市・伊勢原市)を拠点とし、新井城には嫡男・義意(よしおき)を配した。この頃から義同は道寸と号するようになる。
やがて早雲と道寸は激突。岡崎城を落とされた道寸は住吉城(逗子市)まで退くも、こちらも落とされた。道寸は三浦半島を退却しながら防戦。新井城まで退き、最後の決戦に挑む。

新井城の「内の引橋」は相当に深く、幅の広い堀切であったと推定されている。一説には幅30m、深さ50〜60mともいわれる。殊に「内の引橋」の橋を引き揚げ海水を湛えれば、三方を海の断崖に囲まれた新井城は難攻不落の要塞と化した。北条五代記では新井城を「山高く巌険阻にして獣も駆り難し」「これに堀を掘り門一つ建置すれば百万騎向かうと云えども力攻めには成り難し。ただこれ島城なり」と評している。早雲は兵糧攻めによる長期戦を覚悟し、この頃に前線基地として玉縄城(鎌倉市)を築いている。
江戸城から道寸の救援に向かった扇谷上杉氏・上杉朝興(うえすぎ ともおき)の援軍に対し、早雲は軍勢四千を玉縄城に振り向けてこれを撃退。ときに籠城開始から三年も経過するころで、新井城内の「千駄やぐら」(本丸の油壺湾に面した崖下にあった洞)に蓄えられた莫大な兵糧も底を尽きつつあった。そして早雲は遂に新井城に対して白兵戦の総攻撃を仕掛ける。




現在も土塁が良好な状態で残る新井城。舗装路を挟んで油壺湾への崖が落ちている。舗装路は土塁に沿って横堀が廻らされた跡だったのではないか、という見解もある。




左手に二つの碑。




「かながわの景勝地50選 油壺湾」の碑と、「外海は荒れゐて月の油壺」の句碑。




油壺湾のいわれを記した案内板。

早雲軍の総攻撃により修羅場と化した新井城。大将の道寸、嫡男の義意は自刃。城兵たちは討死、あるいは油壺湾へ投身。湾一面は血潮に染まり、あたかも油が浮いたかの如き様相を呈した。これが後世に「油壺」と呼ばれるようになった、と伝承される。









近代の詩人・北原白秋も愛した、とろりと静かな油壺湾の眺め。手前の立木が伸びて、奥の岬をぐるりと取り巻く入江の美しい水面が見え辛くなっているのが惜しい。




東大研究所への門。




先へ進む。




浜への降り口。




城郭の崖を見上げる。




下りたところは、荒井浜。









浜のすぐそばまで断崖が迫っている。




白黒の縞模様の崖。見た目、粗い粒子の堆積した砂岩らしき質感。そのそばは崩れやすく危険なため立入禁止。














何層もの岩が侵食されて岩畳になっている。奥には写真映えしそうな、カエルみたいな岩。









浜を進む。




京急油壺マリンパーク・屋内大海洋劇場ファンタジアムの建物。









諸磯崎灯台。




岩畳を乗り越えて進む。




波打ち際に磯が広がる、ひと気の少ない浜。




断崖が続く。




強風にあおられ、小刻みに震えるハマヒルガオ。




これはマリンパーク水槽の海水を循環させるパイプか。




丹沢山塊が霞んで見える。




その左手に、霞む富士。









そして箱根。




磯辺を進む。




地層がくっきりと縞模様をつくる。こちらの縞々は随分と赤みがかっている。上の方は赤土のローム層のようでボロボロにえぐれている。

下の方は泥岩だか砂岩だかの堆積した層が波風に侵食されてオーバーハングした様な崖がここまで続いてきた。早雲軍が「崖が険阻で獣も駆け上がれない。力攻めもできない」と嘆くわけだ。




小網代湾側へ、柵の設けられた崖を登る。




荒崎海岸(横須賀市)へと続く三浦半島西岸の海岸線。右奥には三浦半島の最高峰・大楠山(おおぐすやま。241m)。














「ここは一体どこの海だ」と思わずにはいられない、美しいエメラルドブルー。









足元はあまりよくないが危険というほどでもない。




胴網(どうあみ)海岸。




胴網の浜は、小さな浜。









胴網海岸からは磯伝いに横堀海岸へと歩くことができる。そちらに進む前に舗装路を上がり、三浦義同(みうら よしあつ。道寸)の墓に参る。




分岐を左へ。




分岐の奥にひっそりと建つ、道寸の墓。三浦家の家紋「丸に三つ引両(みつびきりょう)紋」が刻まれている。

平安の世から桓武平氏・平良文の流れを汲む坂東平氏の名門・相模三浦一族。その最後の当主は城を枕に、散っていった。




分岐からマリンパーク駐車場へと上がる途中に案内板がある。




道寸の辞世の歌。
「討つものも討たれるものもかわらけよ 砕けて後はもとの土くれ」

「かわらけ」とは素焼きの皿。中世の城跡からはよく出土する。武家の儀式などに用いられ、使用後は割って棄てた。早雲軍による総攻撃の前夜、籠城軍の一党は最後の宴にて盃を交わし、叩き割って、舞を舞いつつ辞世の歌を詠んだのであろう。
永正13年(1516)7月11日、道寸は自害して果てる。

平安後期以来、数多の武家は栄枯盛衰をくり返しながら歴史を紡いできた。新井城落城から七十四年後、三浦を討った北条もまた数代を経て小田原に散っていった。四代氏政が秀吉に切腹を命ぜられるそのときが天正18年(1590)の、奇しくも7月11日。

まさか秀吉が新井城の落日を知っていたとも思えない。何という因果であろうか。




道を上がると駐車場。画面の左手奥に新井城碑が建つ。




新井城碑。隣りには「海蔵寺開基 道寸公 義意公 武勇之本地址」と刻まれた碑も建つ。曹洞宗の網代山海蔵寺は三浦氏の菩提寺。




こちらは道寸の嫡男・荒次郎義意(あらじろう よしおき)の墓。享年二十一。

「北条五代記」によれば義意は「器量骨柄(こつがら)人に優れ、長七尺五寸(225cm)、黒髭有て血眼なり。手足の筋骨荒々しく、八十五人が力を持てり。最期の合戦の為・・・ゆるぎ出でたる有様、夜叉(やしゃ)羅刹(らせつ)の如し」と記されている。
六尺(180cm)もあれば大男の時代だった。あの「強弓」源為朝が七尺(210cm)である。義意という男は相対した相手がちびってしまうような、想像を絶する迫力であったが故に後世の戦記物での大業(おおぎょう)な描写を生んだのだろう。いずれにせよ、惚れ惚れとするような若武者であったことは間違いない。

先に小網代の森で触れた「初声御用邸」に関する武田周一郎氏の論文に挙げられている資料によると、道寸と荒次郎の墓は天明二年(1782)に当地の地頭松平氏と正木・三浦・杉浦各氏により建立された。幻となった御用邸建設の際にはこの地が御用邸敷地内となるため、墓所の整備と参道の開設・分筆(ぶんぴつ)・町村への譲与のための予算が計上されている。仮に御用邸が実現していたとしても、道寸・荒次郎の墓には参拝できるように配慮されていた。




胴網海岸に戻る。




磯の崖伝いに横堀海岸へ。




こちらは一層足元が悪い。




この辺りの崖は黒みを帯びた灰色がかった、ざらざらした見た目の粗い縞模様。小さな岬を一周するだけで印象の異なる崖地が続く。




だいぶ潮が引いている時間だったらしく無事に歩けたが、潮が満ちてくると水没するようだ。









横堀海岸。




小網代の森から油壺に移動するときに見たシーボニアマンション、再び。




浜に建つ白い建物の脇から県道に上がる。




急坂。




始めに見たように、ここは元は県道の向こう側の油壺験潮場まで、新井城の「内の引橋」と呼ばれた深く幅広い堀切(ほりきり)だった。唯一の進入路を分断し、有事の際には架けられた橋を引き揚げて島城となった。横堀海岸の名はこの堀切(横堀)に由来するのだろう。




県道を三崎口駅方面に少し戻ると、油壺バス停。時刻は午後12時半。午後は三浦市役所入口から三崎城址の周辺を歩き、城ヶ島に渡る。

三崎城址(三浦市役所入口)の最寄となるバス停は13時03分発「東17 三崎東岡行き」の終点「三崎東岡」。なお「三崎港」直行の系統は三崎東岡に停車しないが、三崎港バス停から三浦市役所入口まで歩いて戻っても5,6分でありそう遠くはない。


3.三崎城址から城ヶ島へ。  まち歩きトップに戻る。