まちへ、森へ。

三浦半島、自然の中に息づく歴史

平成30年(2018)5月の大型連休最終日、三浦半島南部の森を歩き、城址を巡り海岸を歩く。
まずは京急三崎口駅から小網代の森、油壺・新井城址へ。油壺からはバスで移動、三崎城址から城ヶ島南岸へとめぐり歩く。

なお横浜駅からは「三浦半島1DAYきっぷ」を利用。1枚目は乗車駅(横浜駅)から降車駅(今回は三崎口駅)まで。2枚目で金沢文庫駅以南の京急全線と三浦半島エリア一部指定路線(南部はほぼ全て)の京急バスが乗り降り自由。帰路はフリー区間内最後の乗車駅から金沢文庫を越えて降車駅(横浜駅)まで2枚目で乗車できる。

 

1.小網代の森

 

 

三崎口駅からバスで二つ目、引橋(ひきばし)バス停。時刻は朝の8時45分。

 

バス停には「小網代(こあじろ)の森」への案内板が出ている。三崎口駅方面に戻り、信号を渡って森の入口へ。

 

 

 

案内の立看板。

 

 

 

レストラン「ひげ爺の栖」。

 

 

 

「小網代の森」の引橋入口。標高およそ48m。

 

 

 

森の案内図。
森には谷に沿って木道の遊歩道が渡されている。「引橋入口」から「やなぎテラス」までは1,000m。

 

この森は浦の川源流の沢からアシ原湿原を経て河口の干潟・小網代湾まで、およそ70ヘクタール(100m四方×70)の森の中に生態系が凝縮している。三浦半島南部の三浦市域でこれだけまとまった森は、ありそうでいて意外とない。しかもこの森は源流から干潟・海まで、流域の自然状態が連続して残っており、これは関東地方でも稀とされる。

 

この森は私有地だったころは三浦市の「市街化区域」でゴルフ場開発計画があった。高度経済成長期以降の好景気の頃で、時期としては三崎口駅から油壺まで京急の延伸計画のあった頃に概ね重なる。昭和の終わりから平成に入ったころに「小網代の森を守る会(当時)」などの団体と県が協同して森の保全に向けての努力を重ね、地権者の協力のもと「保全区域」の指定と土地の買い取り等が進んでいった。森に木道が整備されていなかった頃は北尾根や宮ノ前峠の側から干潟あたりまでが一般訪問者の立ち入り出来る散策・観察のエリアだった。
県や市、財団やNPO法人、京急の協同により木道散策路の整備が完了し一般開放が始まったのは平成26年(2014)7月。こうして、森歩き愛好家にとって楽園ともいうべき「小網代の森」が誕生した。
参考「いるか丘陵の自然観察ガイド」、神奈川県ウェブサイト「小網代の森について」

 

 

 

淡い新緑が彩りを添える落葉広葉樹の谷へ下りていく。

 

 

 

しばらく進むと、手すりが倒木で破壊されている(補修済み)。

 

 

 

豪雨による倒木の跡。こうした跡の事後処理も、森を利用するうえでの必要最小限の管理にとどめられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源流の沢沿いには多くのシダが自生する。

 

 

 

湿潤な林床に、アスカイノデといった大振りのシダが生い茂る。

 

 

 

 

 

 

 

沢のせせらぎ。

 

 

 

 

 

 

 

水際を好むハンノキ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンノキが林をつくる。

 

 

 

「ハンゲショウ」は梅雨開けも間近な「半夏生(はんげしょう)」の頃、半分を白く化粧したような葉を開く。「ヤブミョウガ」はお盆休みの頃、小さな白い花を付ける。

 

 

 

ハンゲショウ。 撮影地・三溪園(横浜本牧)。

 

 

 

ヤブミョウガ。 撮影地・朝比奈峠(横浜金沢八景)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変化してゆく植生。

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、懐の深い谷戸だ。

 

これまでにも県内各地でそれぞれに特徴のある様々な谷戸を歩いてきた。そうした記憶をたどりながらこの谷戸を改めて見ると、この谷戸は豊かな湧水がつくる深い湿地の谷戸が細く長く、陰影をつくりながら奥へ奥へと続いている。こうした谷戸の奥は、他でもそうであったがおそらく尾根筋以外は里山として利用するにはあまり向かなかったであろう。

 

 

 

 

 

 

 

キンポウゲの仲間、キツネノボタン。花が終わると金平糖(こんぺいとう)のような実を付ける。

 

 

 

カワトンボ。

 

 

 

濃いオレンジ色の翅を畳んで止まる、ほっそりした姿。

 

 

 

夏に向けて、ぐんぐんと伸びるアシ(ヨシ)。

 

 

 

 

 

 

 

これだけ懐の深い谷戸のこと、ホタルの季節になればその乱舞は凄いことになりそうだ。

 

 

 

谷戸の湿原が開けてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やなぎテラスに到着。

 

 

 

小網代の森にはアシ(ヨシ)を始め、オギ(イネの仲間)、ガマといった植物の湿原が広がっている。

 

 

 

ジャヤナギの新緑。

 

 

 

谷戸には広大なアシ原湿原が広がる。谷戸のアシ原は湧き水の流入が減ると乾燥化が進み、やがて灌木が茂るようになっていく。この森はどうであろうか。

 

この森がかつて他の谷戸と同様に里山の谷戸田として利用されていたとすれば、この辺りからであろう。ただ、この湿原は海があまりにも近い。海水も逆流するであろうし、大きなため池でも築かない限り耕作のための真水の確保には苦労したはずだ。平常時ならまだしも、ひとたび荒天で高潮が押し寄せれば水田は一気に壊滅する。先人たちはこの谷戸で相当の苦労を重ねながら生活を営んできたのだろう。

 

 

 

池が造られている。こちらは豪雨対策のようだ。

 

 

 

木道が延びていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えのきテラス。ガイドの人たちの姿が見られ、小網代の森散策の拠点となっている。

 

小網代湾を囲む海岸線の一帯は昭和初期、「初声(はっせ)御用邸」の建設計画があった。昭和4年(1929)から具体化していったその計画は、おそらく国情の変化を理由として昭和18年(1943)には予算の精算という形で幕を閉じた。
計画の具体化に先駆け、昭和天皇は葉山御用邸から小網代湾と油壺の東京帝国大学附属臨海実験所(当時)を訪れている。箱根・小田原・葉山の離宮や御用邸の整理再編が計画されていた状況下、後に生物学者としても名を成された昭和天皇は当時から小網代の地に関心を寄せられていた。その後数回にわたり、計画が取り止めになるまで行幸は繰り返された。
参考「昭和初期の三浦半島小網代湾における初声御用邸計画について(論文) 武田周一郎」

 

なお上記論文に資料として部分的に引用されている「神奈川県観光図会」の全体図(昭和9年)は「日文研(国際日本文化研究センター)所蔵地図データベース・地域別・神奈川県」で閲覧できる。興味深いのは、「初声御用邸敷地」と箱根「離宮」(昭和21年に神奈川県に下賜)が掲載されている一方で「小田原御用邸」(昭和5年に廃止)はともかくとして「葉山御用邸」の掲載がない点である。世間は葉山御用邸の廃止・初声御用邸の建設を既定路線と捉えていたようだ。

 

もしも御用邸が完成していれば、もちろんこの地は一般人が散策で立ち入ることのできない地となった。そうでなかったとしても、ゴルフ場計画が完成していれば昭和天皇も深い関心を寄せられた小網代湾とはまた違った姿になった。こうして美しい森と海辺を散策することのできる僥倖を、今更ながら思う。

 

 

 

干潟へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アブラナの仲間、ハマダイコン。

 

 

 

河口に広がる干潟。

 

 

 

谷戸の源流から湿原を経て干潟まで。小網代の森(浦の川流域の森)ならではの展開は、近隣の森歩きや海岸歩きともまた一味違った楽しさ。

 

 

 

旧別荘エリア。この辺りは企業の協力によりビオトープとして環境整備されていくようだ。

 

 

 

磯へ。

 

 

 

この辺りは「イギリス海岸」と通称されている。

 

 

 

 

 

 

 

小網代湾の沿岸は大戦末期、米軍の相模湾上陸を想定した本土決戦(決三号作戦。アメリカ側ではコロネット作戦として立案されるも原爆投下により作戦中止)に備えて特攻艇「震洋」出撃基地がつくられ、三浦半島の他地区と同様に高度な機密管理の下におかれていた。

 

終戦を迎え十年も経った頃になるとヨットクラブが誕生。前後して湾岸には幾つもの別荘が築かれていった。

 

 

磯から干潟に戻る。

 

 

 

干潟は午後1時半ごろの干潮までにはまだ間があったが、目を凝らすと既に小さなカニ達の姿。

 

 

 

解説図と照らしてみた。

 

 

 

2匹で組み合っている水色の顔をしたちっこい奴らは、チゴガニ。

 

 

 

目の長い、口まわりの白いヤマトオサガニ。こいつはチゴガニよりはちょっと大きい。

 

 

 

えのきテラスに戻る。

 

 

 

ハマカンゾウの保護育成が進んでいる。スタッフの方に尋ねてみたら、企業の支援で株の育成と移植が始まり前年あたりから花が見られるようになっていますよ、とのこと。夏が来ればユリによく似たオレンジ色の花が咲き乱れる。

 

谷戸の里山として人の手が入り生活に利用された時代から昭和初期の初声御用邸計画の発生と消滅、経済成長期における開発計画の時代を経て、小網代の森は人の手で再び原風景に回帰しつつある。

 

 

 

広大なアシ原の広がる、谷戸の湿原。

 

 

 

宮ノ前峠入口へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眺望テラスの辺りから干潟を見る。

 

 

 

 

 

 

 

小網代の森を後にして、油壺方面へ。

 

 

 

宮ノ前峠入口。

 

 

 

「森に住むカニ」アカテガニの解説板。

 

 

 

森を抜けていく。

 

途中の仮設トイレのそばには新しい公衆トイレの建物が既に完成し利用開始を待つばかりとなっていた。森の周辺整備は着々と進んでいる。

 

 

 

小網代湾奥のヨットハーバー。

 

 

 

白髭神社の参道。

 

 

 

白髭神社。
このお社には七福神の寿老人がお祀りされている。その始まりは戦国時代の天文年間(1532〜55)に漁師の網にかかった御神体をお祀りしたという。この地にも海からの神仏の伝承がある。

 

 

 

案内板によれば小網代の地は江戸時代には廻船寄港地、三崎の避難港となっていた。三崎港もまた浦賀港(横須賀市)の避難港であり、江戸湾を出入りする廻船の物資は奉行所・番所(海の関所)が置かれた浦賀湊に集約されていた。

 

 

 

小網代の海にはヨットがよく似合う。

 

 

 

サーフボードのような板に立ってパドルを漕いで進む、サップ(SUP。スタンドアップパドル)ボードを楽しむ人たち。

 

 

 

ヨットハーバーと小網代漁港。対岸の三戸側には別荘が立ち並ぶ。

 

 

 

広い車道に出た。
ここから油壺までは歩いて30分くらい。

 

 

 

シーボニアマリーナに隣接するシーボニアマンション。シーボニアマリーナは東京オリンピック(1964)の後、横浜新山下のヨット造船所経営者が設計を手掛けた当時最新鋭のマリーナがルーツとなる。

 

 

 

県道へ上がる。

 

 

 

県道に上がってすぐのところに「ポンパドウル」の看板が見えるが、ここは研修施設の「ポンパドウル油壺研修センター」。

 

 

 

油壺に向けて進んでいくと、高く伸びたパームツリー。

 

 

 

リゾート感あふれる街路樹の左手には市営油壺駐車場、油壺バス発着場。

 

 

2.油壺・新井城址へ

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