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関白秀吉の石垣山一夜城


2.石垣山一夜城

1.早川駅から魚籃大観音、早川のミカン畑農道を石垣山一夜城へはこちら。




石垣山城址に到着。時刻は昼の12時20分ごろ。




石垣山一夜城歴史公園案内板。




早川・根府川(ねぶかわ)周辺のウォーキングトレイルマップ。赤線の加筆はサイト管理者。 拡大版




城道(東口)へ。石垣山城はじっくり見て回ると優に二時間はかかる。




城道を上がっていくと、正面が「虎口(こぐち。城の区画である「曲輪(くるわ)」への入口)」となる。右手には石垣山城の案内板、公園路。




左手には南曲輪の石垣と公園路。




「国指定史跡」石垣山一夜城の案内板。

秀吉が築いたこの西日本流の総石垣の城は関東では初の石垣の城とされる。とはいえ部分的にでも石垣を用いた城ということであれば、戦国末期に北条氏照(第四代氏政の弟)によって構築された八王子城などがあった。

そもそも関東では中世末期まで城といえば土塁、空堀の城であった。これは関東に特有の、大地を覆う分厚い赤土のローム層があったことによる。

初期の石垣に見られる勾配が緩やかで表面がデコボコした野面積(のづらづみ)の石垣と比べると、赤土の土塁は非常に滑りやすく攻めにくい。ロームブロックを切り出して土塁として積み上げることで深さ10m超、幅20m超にも達したツルツルの赤土の巨大な土塁・空堀は、ひとたび落ちると上からの攻撃を避けながら這い上がるのは至難の業でありその防御力たるや黎明期の石垣の比ではなかった。北条流の代表的な城の姿は山中城址(静岡県三島市)に見ることが出来る。
このように関東の城郭は見栄えという点では素朴であるが実戦を念頭に置いた「要塞」のイメージに近い城だった。



小田原合戦のきっかけは北条による名胡桃城(なぐるみじょう。群馬県みなかみ町)奪取事件に秀吉が激怒したことによる。
ただ、事件そのものは秀吉にとっては北条討伐の口実にすぎず、秀吉は北条を滅亡させる機会をかなり前から窺っていたものと思われる。


古くは信長の時代に遡る。北条は武田と上野(こうずけ。群馬県)西部の支配をめぐって争っていたが、信長は武田を滅ぼしたのち古参家臣の滝川一益を上州に配置し関東管領職に就かせる。北条は信長に恭順の意を示しつつも両者の関係は微妙であった。

信長が本能寺に倒れると北条は上州の奪取に動く。そこで家康と抗争になり、膠着ののち氏政と家康は和睦、同盟を結ぶ。
このとき家康との交渉を担当したのは氏規(うじのり。氏政の弟、相模・三崎城主)。氏規は少年期を人質として今川義元の駿河で過ごし、同時期に人質であった家康とは好を通じていたとの見方もある。
なお、これより以前に北条は伊達輝宗(政宗の父)とも同盟を結んでいる。これは北条に敵対した北関東の中小大名に対して背後から脅威を与える意味を持った。こちらの交渉を担当したのは氏照(うじてる。氏政の弟、武蔵・八王子城主)。氏照は父である第三代氏康の頃から外交を担当し、古くは甲相駿三国同盟崩壊後の上杉謙信との越相同盟締結にも尽力していた。こうした状況の下で北関東の中小大名は必然的に秀吉を頼っていくことになる。
ともあれ、東国にはこうして徳川・北条・伊達のゆるやかな同盟が出来上がっていった。


当時家康が関東の雄・北条と同盟を結んでおくことは後顧の憂いを取り除くためにも必然だった。また家康は織田家中の反秀吉派と接近し、近畿や西国の大名とも通じていた。
一方で織田家中から見れば北条は織田領上野への侵略者であり、とりわけ秀吉にとって腹の底では不信感を拭いきれない家康との同盟者である北条を危険な勢力とみなすのは当然であった。
秀吉は脅威であった家康を懐柔するために妹の朝日と母の大政所を送り込み、家康を「秀吉との同盟やむなし」の状況に追い込む。さらには親家康勢力であった近畿・西国の諸大名を屈服させた。その上で朝廷における立場と天皇の権威を利用し、天皇の名のもとに平和を実現する政策を推し進めていった。関東奥羽惣無事令による私戦禁止はその一環であった。

御隠居様の氏政・五代氏直親子に上洛を促す秀吉に対し、氏政は渋り続けた。秀吉と事を構える事態をにらみ、氏政、御一家衆の氏照らは関東各地に臨戦態勢を構築していく。
家康の仲介により氏政・氏直の名代として派遣された御一家衆の氏規は、聚楽第で秀吉に謁見した。武家との接見の場である大坂城ではなく天皇・公家を応接する場である聚楽第で、官位を持たない氏規は武家の装束で謁見に臨んだ。一方、秀吉の下で官位を授かっていた西国の大名たちは公家装束で臨席し、氏規を「田舎者」と嘲笑したという。
こうした状況下にあっても秀吉は会見後に氏規の宿舎をわざわざ訪れ、天下の情勢を氏規に説き聞かせていった。氏規は秀吉の見識に感銘を受けつつ、氏政の上洛には上野の領有問題の秀吉による裁定が必要であると応じた。
氏規が小田原に戻ったのち、北条は宿老の板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)を派遣。江雪斎は三代氏康の頃からの側近にして文化人であり茶道もよくした。勝頼や家康、奥羽大名との外交交渉の経験も豊富で、北条家中の主戦派と和平派の間を取り持った。
江雪斎は秀吉からは「田舎者だが礼儀に厳しい好人物」と評され、小田原合戦の後は秀吉に仕え御伽衆(相談役)となって伏見城下に屋敷を構える。その子孫は岡野氏と改姓し徳川の旗本になった。

こうした状況下で北条による上野・名胡桃城奪取事件が起こる。
秀吉としては自らの裁定を反故にされたと激怒するが、内心では北条征伐の口実が転がり込んできたとほくそ笑んだであろう。こうして、天皇の名のもと平和を推し進める秀吉に対する逆賊北条の図式が出来上がった。




縄張図(なわばりず)。 拡大版

まずは虎口から南曲輪、西曲輪へ。続いて西曲輪から引き返して二の丸へ。二の丸からは本丸への虎口(登路)を経て本丸、天守台へ。本丸からは二の丸に戻り井戸曲輪へ。最後にトイレ前から外周をめぐり現在地に戻ってくる。




虎口は石積みがだいぶ崩れてはいるものの、良く残っている。




左手に折れていく。




南曲輪跡。




城道は本丸へと続く。




左へ曲がり、西曲輪へ。




崩れた本丸石垣。









西曲輪跡




西曲輪からの、本丸石垣。









西曲輪から二の丸へ。




南曲輪を見下ろす。




左手に本丸への城道。




二の丸(馬屋曲輪)へ。




二の丸の眼下に広がる相模湾。




二の丸からの本丸石垣。









簡単な陣城ではなくこれだけの城郭をわざわざ築いたのであるから、秀吉は小田原合戦を相当な長期戦になると覚悟していたのであろう。

さらにいえば石垣山城は小田原合戦終結によりただちに役割を終えたわけではない。秀吉により九州・肥後(現熊本県)を与えられたもののその統治に失敗した信長の旧臣・佐々成政(さっさなりまさ)のように、家康が関東の国人統治に失敗することは充分考えられた。秀吉としては家康に関東を与えた後も東国に睨みを利かせるため、家康のものとなる小田原とは別に自らの戦略拠点を維持しておく必要があった。
実際、天守台の付近からは小田原合戦終結後に持ち込まれた天正十九年(1591)の瓦が出土している。これは小田原開城後も城の普請が続いていたことを意味する。




パノラマ。 拡大版。




二の丸から本丸への虎口。









本丸。標高262m。




門の基台跡。




本丸から見下ろす二の丸。遠方にきれいな三角の大山(1252m)が見える。




広がる海。




本丸の奥に盛り上がっているのは天守台。




物見台(展望台)。小田原城本丸を見下ろす。









小田原の街を見下ろす。




緑地の左上に見える、小田原城天守。




現在の復興天守は、江戸時代に入ってから小田原藩により築かれた天守が再現されたもの。北条氏の時代には本丸御殿が建てられていたと思われる。




ちょうどこのあたりはプレートのひしめき合う境目でもある。

石垣山城から箱根・伊豆半島と連なるこちら側の山地は、フィリピン海プレート上に乗っかっている山が南から北へと移動してきたもの。
足柄平野の向こうに盛り上がる大磯丘陵は、フィリピン海プレートが北アメリカプレートに衝突し北アメリカプレート側が隆起したもの。




小田原合戦攻防図。 拡大版




天守台。だいぶ崩れてしまっており、なだらかになっている。




僅かに残る、天守台の石垣。




二の丸に戻り、井戸曲輪へ。




二の丸櫓台(やぐらだい)跡。




井戸曲輪へと下りていく。














井戸曲輪(いどくるわ)。四方が見事な石垣で囲われている。




解説板。井戸は山城における貴重な水場。









石垣は西国から連れてこられた穴太衆(あのうしゅう。石工集団)によって築かれた。









曲輪の底。




四角く囲われた底部には井戸が見える。長期にわたる籠城戦のさなか秀吉が茶会を催したり、淀殿が化粧を施すための水はここから採られたという。




石垣には見栄えの良い巨大な石が随所に見られる。









パノラマ。 拡大版。




二の丸の先に設けられた展望台からの箱根山。左手に駒ケ岳、神山(かみやま)、右手前に塔ノ峰(とうのみね)が見える。




大山。




小田原城本丸、三の丸方面の眺め。三の丸方面は木々に遮られている。




一般には江戸時代に記された戦記物「関八州古戦録」にみられるように、普請中の石垣を隠すように残してあった周囲の木を城の完成と同時に切り倒し総石垣の城を突如出現させたことで北条方が戦意を喪失し、そのことが降伏につながった、と語り継がれている。

しかしそれはあくまで戦記物の物語であって、実際のところ北条方はそれほどまでに石垣山城に驚愕したとも思えない。先に触れたように北条氏照が築いた八王子城はかなりの部分に石垣が採用されている。武闘派の氏照は御一家衆、なかでも四代氏政の兄弟衆のいわば筆頭の立場であり、小田原合戦時は八王子城を家臣に任せ自身は小田原城に入り采配を振るっていた。


石垣山一夜城の築かれた石垣山はもともと小田原城の出城である笠懸山城があり、小田原城本丸からは丸見えの位置にある。しかも笠懸山城が小田原城の西の押さえとして実戦的な城である以上、小田原合戦当時に大がかりな石垣の普請を隠しうるほどの鬱蒼とした森で覆われていたとは考えにくい。近世以降に廃城となり、成長した立木で覆われた山城跡でもあるまい。

そもそも小田原合戦に備えた関東各地の城の修築で、相州の山という山は木材が切り出され木々の不足は深刻な状況にあった。たとえば小田原城の城門に使う良材を確保するため、わざわざ伊豆の狩野山に人足を派遣して伐採し費用を支払ったという記録も残っている。籠城戦に備えた各地の支城は大小合わせて百か所にも上る。

箱根山を越えてきた秀吉軍は湯本の早雲寺を仮の本陣とした。そして笠懸山城を接収し、長期戦に備えて恒久的な城を構築した。
曲輪を構築していくために邪魔な雑木は当然伐採しなければならない。その上で石垣に用いる膨大な石を山上にせっせと運び上げれば、小田原城にどっしりと構える北条方がそれを察知しなかったはずはない。秀吉が残した記録や遅れて参陣した伊達政宗の記録に照らせば築城には80日もかかっており、突貫工事とはいえ三か月に渡った小田原合戦の大半を費やしたことになる。
また小田原城から見ると石垣山城の天守台はかなり奥まった位置にある。しかも白壁瓦葺の天守は合戦終結時にはまだ完成していなかった可能性が大きい。先に見たように、小田原合戦の後も城の普請は続いていた。


小田原の城兵を狼狽させたのは一夜城の突然の出現というよりはむしろ有力支城であった八王子城のあっけない陥落、そして城兵の首や捕えられた女たちが小田原城外にことごとく晒されたという、むごたらしい仕打ちであろう。
秀吉は家康や前田利家など配下の諸将が降伏勧告によって北関東や東関東の北条方の城を開城させ将兵の投降を受け入れる戦後処理に対して不満を募らせていた。八王子城に対しては利家、上杉景勝に力攻めで落とすことを厳命している。北条御一家衆のなかでもとりわけ重鎮であった氏照の本拠を、自軍の損害を顧みずに力攻めで落とすことの重要性を秀吉はよくよく承知していた。
秀吉が怖れていたのは長期戦により軍勢の規律が緩み、厭戦気分が醸成されていくことであった。


小田原城は寸分の隙もなく包囲され、確かに孤立していた。しかし小田原は何しろ街全体を周囲9qにわたって巨大な土塁空堀でぐるりと囲んだ、他に類を見ない城塞都市である。城下の領民を悉く取り込んでおり、自給自足はお手のものともいえる。小さな山城の籠城戦とは訳が違う。さしもの秀吉もいざ総構の大外郭を目の当たりにすれば「さても小田原がこれほどまでに壮大な城郭とは」と驚嘆したことであろう。こうなると、合戦の帰趨は秀吉軍と北条軍との我慢比べにかかってくる。
堅固な総構を打ち破ることが出来ないまま長期戦に突入していった状況の下、秀吉としてもそうそう悠長に構えている場合ではなかった。一方では力攻めによる恐怖を見せつけ、他方では調略により、御一家衆を始め鉄の結束を誇った小田原城内六万の将兵の動揺を誘うべく手を尽くした。実際、小田原では主戦派の氏政(御隠居様)、氏照(氏政の弟・八王子城主)らと和平派の氏直(五代目当主)、氏規(氏政の弟・三崎城主。合戦時は韮山城主として籠城)らとの間で必ずしも一枚岩とは言い切れない面もあった。

そうしたなか、秀吉方遠征軍の兵糧もその供給に十分な目処が立っていたわけではなかろう。何しろ22万の大軍である。戦国時代の遠征軍がそれに見合った兵糧を長期にわたり確保することが極めて困難であることは容易に想像がつく。関八州北条の領国の兵糧という兵糧は既に小田原城や支城に運び込まれており、村々にはほとんど何も残っていない。20万石も用意されたという秀吉軍の兵糧であるが、一人当たり一日六合とすると20万石はおよそ5か月分となる。長期戦への突入後はいかにそれを継続的に確保するのか。
一年は優に籠城できるとされた小田原籠城軍が音を上げるまで、遠征軍が悠然と長期戦に向き合えるほどに潤沢な兵糧を用意していた、というのは絵空事に過ぎない。宣教師のルイス・フロイスは「日本史」において、北条がいましばらく抗戦を続けていれば秀吉軍は包囲網を維持できなくなって撤退を余儀なくされたであろう、と書き残している。

しかし家康が反旗を翻すこともなく、頼みとした伊達政宗が秀吉のもとに参陣するに至って小田原城内は厭戦気運が高まっていった。この頃から和平交渉を探る動きが活発となる。




二の丸のトイレ前から外周園路をたどっていく。




本丸の石垣跡。














西曲輪の石垣跡。小田原城の側から見えない側にも石垣が築かれている。




このあたりは関東甲信の戦国大名とりわけ北条氏であれば分厚いローム層を利用した巨大なツルツルの土塁を深い障子掘とセットで築きそうなところであり、その方が初期の野面積み石垣よりも防御力は高い。
西国の秀吉にはそのような発想はなかったのだろうし、北条流に匹敵する巨大な土塁・空堀を築く技術もこの合戦のなかでは用意できなかったのだろう。









舗装路へ。









谷積み(たにづみ。石を斜めに積む)の道路擁壁の上に石垣が残っている。




南曲輪の石垣。














巨大な石垣が良く残っている。









南曲輪の石垣の角石(すみいし。隅石)。

石垣山城は近世に入ると小田原藩主・大久保忠世の管理下に置かれた。全国各地の城が石垣を含めて近世の城へと改築されていくなか、石垣山城はその役目を終え中世の姿のままに残された。
江戸時代以降の度重なる大地震でその石垣は随分と崩れているが、石垣山城は戦国時代も終わりに近い織豊政権時代の石垣として貴重な姿を留めている。




最初の虎口まで戻ってきた。




虎口。




最後は左手に虎口を見ながら公園路を先へと進み、二の丸に上がる公園路沿いから二の丸の石垣を観る。









三か月に及ぶ籠城戦の末、五代氏直は秀吉に対し自らの切腹と引き換えに城兵の助命を申し出る。しかし、家康の娘婿でもある氏直の申し出を秀吉は「神妙である」としつつも受け入れなかった。


小田原城の開城後、御隠居様の四代氏政、氏政兄弟衆の氏照は切腹。重臣の大道寺政繁、松田憲秀も切腹となった。

大道寺政繁は北関東の要衝、松井田城(上野国。群馬県安中市)を守備。前田利家らの北国軍にひと月ほど包囲されたのち総攻撃を受けて落城、降伏した。利家により助命された後は北国軍勢の先導役となり八王子城の合戦でも先鋒を務めている。秀吉はこの重大な裏切り行為を、主家に対する不義として許さなかった。
松田憲秀は小田原城籠城中に長男の笠原政晴とともに秀吉方に内通しようと画策したことで監禁されていた。なお政晴は内通が露見したことで氏直により成敗されている。


一方で氏直は助命され、高野山に追放となった。その際、氏政兄弟衆の氏規(うじのり。相模・三崎城主。合戦時は伊豆・韮山城を守備)、一門衆の氏光(南武蔵・小机城主。合戦時は小田原城に籠城)らが随行した。
氏政兄弟衆の氏邦(うじくに。北武蔵・鉢形城主。合戦時は鉢形城を守備)は前田利家に、一門衆の氏勝(相模・玉縄城主。合戦時は伊豆・山中城を守備し落城後は玉縄城に籠城)は家康に身柄を預けられている。

氏直は高野山に蟄居後、秀吉により赦免され秀吉の家臣として再出発。関東、近江(滋賀県)に知行を与えられた。その後大坂へ移されたが合戦終結からわずか一年半後の天正19年(1591)の末、病により30歳で死去。氏直に男子は無く、本家はここで絶えた。

氏政兄弟衆の氏規とその子孫は北条一族の生き残りとして代々続いていくこととなる。
氏規の守備した韮山城は初代早雲の頃の本城であり北条氏の原点となる拠点であった。韮山城三千六百に対して秀吉軍は織田信雄、福島正則ら四万四千。しかし氏規の指揮による頑強な抵抗により長期戦になった。秀吉は即時の落城は不可能とみて包囲軍を残して次の城攻めへ移っていく。最後は家康の度重なる降伏勧告により合戦の最終盤に開城された。
秀吉は聚楽第で接見したこともある氏規の働きぶりを「敵ながらあっぱれ」と気に入ったようだ。氏規は助命され高野山に追放されたのちに秀吉に召し抱えられ、氏直が生きていれば与えられるはずであった河内国内(大阪府)の知行地も含めて知行を与えられる。朝鮮出兵(文禄の役)では秀吉に従い肥前名護屋に在陣。慶長五年(1600)56歳で死去すると家督は嫡男氏盛に継がれ江戸時代における狭山藩(河内。大阪府)一万石の祖となった。こうして小田原北条氏本家の滅亡後も北条氏は存続する。

小机北条氏の氏光は高野山に蟄居中、病没した。子の氏則は家康に仕え旗本となる。
なお氏光の小田原城籠城中、氏光配下の小机衆は上州の金山城(群馬県太田市)に配置されていた可能性があったとされる。小机城は小田原合戦の直前期まで政庁として機能していた記録があるが、合戦時には衆を激戦地に振り向けることで放棄されていたようだ。

氏政兄弟衆の氏邦に関しては合戦直前の氏邦による提言が興味深い。秀吉軍を迎え撃つにあたり氏邦は駿河に出撃して三枚橋城(沼津)を落とし富士川を境に迎撃するか、あるいは三島(伊豆国)まで出陣し黄瀬川を境に迎撃する作戦を提言。これは遠征軍の到着地で地理に不案内な敵勢を迎撃する作戦であった。しかしこの案は籠城戦を主張する主流派に容れられず、氏邦は本拠の鉢形城(北武蔵)へ向かうこととなった。
仮に氏邦の案が採用されていれば山中城も早々に孤立落城することなく、箱根山中でゲリラ戦が展開されていたかもしれない。若き日には兄の氏照とともに武田信玄に対して三増合戦(神奈川県愛川町)を戦ったこともある氏邦は、相手こそ異なるもののリベンジの山岳戦として今度はどのような采配を見せたであろうか。
氏邦の守備した鉢形城三千に対して前田利家らの北国勢は三万五千。こちらも長期戦となった。落城後氏邦は降伏し利家に部下の助命を頼み剃髪。利家は氏邦を助命し家臣として加賀に連れて帰る。氏邦は慶長二年(1597)に57歳で死去した。氏邦の養子であった直方は氏直とともに高野山に蟄居、のちに家康に仕えている。

玉縄北条氏の氏勝は家康に身柄を預けられたのち家康の家臣となり、下総国内(千葉県)に一万石の知行を与えられる。慶長16年(1611)に氏勝が53歳で死去すると家督は家康の家臣の子が養子となって継いだ。しかし養子にも子がなく、結局は断絶した。なお氏勝の弟が旗本に取り立てられている。


参考
「小田原合戦」下山治久
「神奈川中世城郭図鑑」西股総生ほか
「箱根をめぐる古城30選」小田原城郭研究会
「かながわの城」三津木國輝
「戦国大名の兵粮事情」久保健一郎
「戦国北条氏五代」黒田基樹
「横浜の戦国武士たち」下山治久




14時40分ごろ、城址公園を出発。復路は武将案内板の立つ石垣山農道を下っていくことにする。ちょうど下から季節限定・週末運行の小田原宿観光回遊バス「うめまる号」が上がってきた。
画面右手は往路に登ってきた関白農道への合流点。




眼下に広がる小田原の街と海の眺めがいい。




ミカン畑と海。




ミカン畑と大山。




徳川家康。









上から数えて最後の武将案内板が立つ角で農道を逸れて右に入ると、海蔵寺墓地。ここまで城址公園から下り始めて30分足らず。

最後に秀吉方の武将、堀秀政(ほり ひでまさ)の墓に参っていく。




堀秀政は信長の旧臣であり秀吉の家臣。
秀吉の時代には越前(えちぜん。福井県)に18万石の所領を与えられた重臣であった。小田原合戦では三島の山中城攻めに加わっている。秀政は小田原に着陣後、病を患い陣没した。




道沿いに立てられた8枚の武将案内板の配置図。

前田利家、上杉景勝、石田三成が入らないのは北関東方面を転戦したのだから仕方がない。
伊達政宗を入れるなら織田信雄でどうかという気もするが、伊達の参陣は潮目の変わり目となったのだからこれはこれでありか。
後方支援の毛利(吉川)、長宗我部もいないが利休、淀殿も長期戦に欠かせぬ重要な役回りだったからこれはこれでいい。
宇喜多秀家とあらば黒田官兵衛も欲しいところだが、ここは縁の近さの差か。
堀秀政が入るならば一柳直末もどうかと思うが、秀政が海蔵寺での陣没なのに対し直末は山中城での討死であるしやむを得ないか。




海蔵寺墓地。




墓への案内板。




堀秀政の墓(供養塔)となる、宝篋印塔(ほうきょういんとう)。




墓地の下手に建つ海蔵寺本堂。

曹洞宗海蔵寺は嘉吉元年(1441)の創建。それは伊勢宗瑞(いせ そうずい。のちの北条早雲)が小田原に進出する前、小田原を国人(こくじん)の大森氏が支配していた頃となる。




海蔵寺の参道と並行する車道を右にカーブしたところから、石垣山城址へのメインルートとなる石垣山農道が始まる。堀秀政の墓、海蔵寺に立ち寄らなければここに下りてくることとなる。




一方、海蔵寺参道を抜けてから左手に進み、新幹線ガードをくぐって狭い道を先へと進むと、祠がある。左手は早川小学校入口の信号。

随所に設置された案内板に従い、早川駅へ。


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