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武州金沢八景、旧海岸線あるき


4.野島・旧伊藤博文金沢別邸

3.金沢園から海の公園へはこちら。



金沢シーサイドライン・野島(のじま)公園駅そばに架かる、野島橋。橋を渡って野島公園・旧伊藤博文別邸へと向かう。




運河沿いに進んで、野島公園へ。




訪れたとき野島公園は護岸改修工事中。別邸正門側の公園入口は閉鎖されていたので、回り道をする。




金沢八景教会。




公園第二駐車場。




牡丹園入口。




案内板の表側に、別邸への案内。




別邸玄関への案内に従い、フェンス沿いに別邸敷地の裏手を進む。




旧伊藤博文金沢別邸の正門。
金沢別邸は明治31年(1898)に建てられた伊藤博文の別荘。明治期における元勲らの金沢界隈の別荘建築としてはかなり遅い時期のものとなる。

明治の前期、三条実美、松方正義、井上馨といった元勲らは初期の別荘地を富岡あたりに求めた。当時の金沢区沿岸地域はまだ江戸時代と同様に陸路の便が良くなかったので、彼らは東京から横浜まで汽車で移動、横浜から小型船で別荘に乗り付けた。
明治20年代に入ると東海道線、横須賀線が開業。要人たちは葉山や大磯に別荘を求めるようになり、金沢周辺の別荘地としての役割は終焉を迎える。時を経て金沢周辺が行楽地として再び脚光を浴びるようになるには、昭和五年(1930)の湘南電気鉄道(現京浜急行)開業を待つことになる。




玄関。
受付では「伊藤博文公と金沢別邸」(楠山永雄著)が販売されていた。見本を手に取ってパラパラとめくってみるととてもよさそうだったので、参考資料として購入。




玄関の建物(台所棟の玄関部分)を庭から見る。
玄関部分(内部は現在は管理事務室、トイレなど)は昭和37年(1962)に解体撤去され残っていなかったが、公開にあたり資料を基にして新築復元された。




客間棟。
客間棟は建築当時の建物が現存していたものの、老朽化が著しかったため平成20年(2008)から21年(2009)にかけて解体復元された。




客間棟を正面より見る。各棟は雁行型(がんこうがた)に配置されている。




客間棟の左手に居間棟。こちらも老朽化していた建築当時の建物が解体復元された。




台所棟から客間棟へと通じる廊下。この廊下奥と奥右手の台所部分は建築当時のものが現存していた。




台所棟の台所。
右手に「置きヘッツイ(竃・かまど)」。奥に「座り流し」。近代の世の中とはいえ、その設えは江戸末期頃のそれに近い印象。大正末〜昭和初期の建築と比べると明らかに時代が遡ったように感じられる。




中庭。




右手は湯殿。釜場の煙突が見える。湯殿は解体撤去されていたが新築復元された。
左手は客間棟の廊下。奥は居間棟。




客間棟に付属する客用便所。こちらも近代よりも前のそれのような造り。




客間棟の廊下は畳廊下。




客間。手前(控え)が「晴嵐(せいらん)の間」、奥が「帰帆(きはん)の間」。金沢八景「洲崎晴嵐(すさきのせいらん)」「乙舳帰帆(おっとものきはん)」にちなんだ名が付けられている。




欄間(らんま)は鳳凰の透かし彫り。客間の中では最も趣向を凝らした部分と言えようか。
一方で天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)。寛ぎのオフタイムを過ごす空間として軽めの意匠とした印象。




「帰帆の間」に設けられた床(とこ)。その間口は二間半(にけんはん)と、幅広い。




付書院(つけしょいん。棚板の奥行きのある書院)。

「帰帆の間」はこの建物で最も格式の高い間。解説展示には大正天皇、皇太子を始めとした皇族方の来邸もあったとあり、そのおりには此処で過ごされていたのであろう。
この建物は客間の設えに特別な趣向を凝らしたという感じはせず、簡素にまとめた印象。伊藤博文公の嗜好の一端を見た思いがした。




客間棟の広縁。




庭先に海を臨む客間。住友重機クレーンの右手あたりに憲法起草の地・夏島(なつしま)が見える。野島の金沢別邸が建てられたころ、夏島は文字通りの島だった。
追浜(おっぱま)が海軍飛行場建設のために埋め立てられて陸続きとなるのは、大正中期から末期にかけてのこと。

先に触れたように明治期の金沢界隈は陸路の便が良くなかったので、野島の別邸へは船で乗り付けた。ずらりと並ぶ石灯篭は当時の姿を復元。その灯りは、船で別邸に乗り付ける際の目印となったであろう。




客間棟より見る居間棟。居間棟は別邸主の私的空間。




居間棟の廊下。奥は便所。




「秋月(しゅうげつ)の間」より「夕照(せきしょう)の間」を見る。金沢八景「瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)」「野島夕照(のじまのせきしょう)」にちなんだ名。
こちらの欄間も鳳凰の透かし彫り。




居間からの庭、海の眺め。




「夕照の間」の床(とこ)。床脇(とこわき)には地袋(じぶくろ)。書院は設けられていない。




居間もまた客間と同様、床の周りは簡素な設えになっている。




「夕照の間」に飾られている額は「ホワイトアッダー号・ペガサス号」の画。文久三年(1863)に伊藤博文ら長州藩の五人(長州ファイブ)がイギリスに渡ったときに乗船した船。
文章は伊藤が後に語った「渡航の思い出」を伊東巳代治(いとうみよじ。明治憲法起草にかかわった一人)が執筆したもの。幕末期は海外渡航は禁じられていたので伊藤らは断髪し服装を変え、イギリス総領事やジャーディン・マセソン商会を頼りにして横浜港を深夜に出航した。




明治期の金沢八景。
南北に長く延びた砂州の先端に野島がある。砂州は宮川・侍従川の土砂堆積により数千年前に形成されたとされ、野島は太古から陸続きだった。
参考「かねざわの歴史事典」
砂州の中ほどにあるのが現在のシーサイドライン・野島公園駅。「瀬戸ノ内海(内川の入江)」は次第に埋め立てられ、昭和五年(1930)に湘南電気鉄道(現京浜急行)が開業する。




居間の便所。形は客間のものと同じだが、こちらは漆塗りではない。




湯殿。こちらは解体撤去されていたものが新築復元された。




湯殿の天井。二重天井になっており湯気抜きのスリットが開いている。




居間棟から中庭越しにみる台所棟。左手が湯殿。




展示にみる「金沢憲法記念館構想」。

冒頭でも触れたが、金沢別邸が建てられた時期は明治31年(1898)と金沢周辺の別荘としては比較的遅い時期。これは伊藤博文の金沢の地に対するひとかたならぬ思い入れを抜きには語れない。

日本近代史上、伊藤博文が大日本帝国憲法(明治憲法)の起草にかかわったことはよく知られている。国会開設に先立ち憲法を制定する必要性から、明治15年(1882)伊藤らは欧州の憲法を調査する目的でヨーロッパ諸国に派遣された。

帰国後の明治18年(1885)、伊藤は初代内閣総理大臣に就任。憲法の起草に取り掛かる。その際、自由民権運動の急進派による妨害活動から草案の機密性を守るため伊藤は無人島の夏島に別荘を建てることを計画。当時夏島は陸軍の砲台(東京湾要塞)建設が予定されており、伊藤は陸軍大臣大山巌に掛け合って別荘の建設許可を取り付ける。夏島の別荘は質素な造りでいずれ撤去されることになっていた。
そのあまりの狭さから夏島別荘に寝泊まりしていたのは当初は伊藤だけで金子堅太郎と伊東巳代治は金沢・瀬戸の料亭「東屋(あづまや)」に、井上毅は金沢・野島の「野島館」に宿泊していた。起草作業は東屋で行われることが専らであったが、東屋に泥棒が入り機密書類入りの鞄が盗難にあったため事態は緊迫。結局はただの物盗りで金品以外は近くの畑に遺棄されていたので事なきを得た。こうしたことから四人は狭い夏島別荘に詰めて起草作業にあたることになる。

憲法案が起草されると、次は正式な審議の場面に移る。天皇の諮問機関である枢密院が設置され、伊藤は首相を辞して初代枢密院議長に就任。その審議の場として用いられたのが赤坂仮皇居御会食所であった。
御会食所は赤坂の仮皇居に建てられた建物だが、建築に至るまでの経緯は以下の通り。明治維新が成立すると天皇の東京での御所は江戸城となっていた。ところが明治六年(1873)、皇居として用いられた江戸城西の丸御殿が全焼したため皇居は赤坂の旧紀伊徳川家中屋敷に仮移転する。ただ中屋敷はもともと江戸住まいの大名家族が住むプライベートな屋敷なので使い勝手は必ずしも良くなかった。大名が謁見する大広間を備えた公邸(上屋敷)であれば使い勝手がよさそうだがそれらは江戸城近辺に配置されていたため多くが明治政府の官庁に転用されている。そうしたこともあって、赤坂に仮移転した際に外国使節の招待、天皇謁見の場として利用するために建てられたのが御会食所である。

夏島別荘は憲法発布の年である明治22年(1889)、小田原に移築されて博文の父・重蔵の老居として用いられた。後に人手に渡るが、関東大震災(大正12・1923)により焼失した。

金沢別邸は憲法発布の八年後、野島に建てられた。ここには憲法起草に深くかかわった伊藤が金沢の地を「明治憲法記念の地」として後世に残そうとする意図があったのではないか、と推察されている。
御会食所は赤坂に東宮御所(現在の迎賓館)を造営するため、明治32年(1899)に解体された。資材が保管庫に収納されていた御会食所は翌年、伊藤に下賜されることになる。下賜に先立ち伊藤は御会食所を金沢別邸に移築する計画を検討していたことが、残された資料により判明している。そのための敷地として別邸の隣接地も買い増しされていた。




展示にみる移築計画の図面。右上の金沢別邸と比べると、左下の御会食所は相当に巨大な建物であることが分かる。一方で金沢沿岸の別荘地は江戸時代の旅人のように山道を徒歩で越えるか小舟でしかアクセスできない立地である。その巨大さの故か、金沢別邸への移築は結局かなわなかった。
仮にこの移築が実現していれば、この地は近代日本の憲政史を語るうえで今以上に極めて重要な意義を有する地となったであろう。

参考「野島公園旧伊藤博文金沢別邸リーフレット」「伊藤博文公と金沢別邸」「図説かなざわの歴史」




旧伊藤博文金沢別邸を後にして野島山周辺へ。このとき山頂展望台への登路(坂道の登路)は工事中のため通行止め。




野島海岸の階段護岸。右奥には明治憲法起草の地、夏島。そして夏島沖の埋立地に造られた住友重機横須賀製造所(追浜造船所)のクレーン。




右に八景島。左奥に金沢ハイテクセンタービルが見える。




金沢八景近辺で、ひいては横浜市域で唯一残った自然海岸となる、野島海岸の砂浜。金沢八景・乙舳海岸(おっともかいがん)旧海岸線の一部がこうして残っている。




砂浜の向こうは横須賀市・日産自動車追浜工場。




野島山の崖地。




崖裾に巨大な壕がくり抜かれている。




この壕は「掩体壕(えんたいごう。戦闘機を空襲から守るための壕)」。

日産追浜工場の敷地は戦前、横須賀海軍航空隊の基地(追浜飛行場)だった。掩体壕は戦争末期の昭和20年(1945)春に設営隊が掘削に着手、終戦直前に完成した。飛行場と掩体壕は浅く狭い水路(野島水道)を埋め立てて繋がれた。当時の空中写真を見ると土橋状の埋立が確認できる。それに伴い平潟湾から湾外へ出る漁業者のため、野島水道に代わる新たな運河(野島運河。現在は野島公園駅への野島橋、帰帆橋が架かる)が開削された。
参考「かねざわの歴史事典」「新横須賀市史 別編 軍事」




掩体壕の規模は国内最大と言われ、同時に開削された夏島掩体壕と合わせて零戦などの小型機を100機収容できた。しかし実際に使われることなく終戦を迎えた。




バーベキュー場。




ビオトープ。




ビオトープの植栽は現在、整備が進められている。




野島稲荷神社。









拝殿。
野島町の総鎮守、野島稲荷の創建は鎌倉時代前期の安貞元年(1227)。江戸時代初期には紀州藩初代藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の別邸「塩風呂御殿」が近くに建てられたこともあって、頼宣の篤い崇敬を受けた。




幣殿、本殿。




船玉社(ふなだましゃ)。航路安全の守護神として祀られている。




大神宮と天神社。




山頂展望台へ。




長い階段を239段登っていくと山頂。




野島公園展望台。標高57mの山頂に建つ。




正面に八景島。奥に本牧の「キリン」(ガントリークレーン)の群れ。左に金沢ハイテクセンタービル。




海の公園の砂浜。奥にはみなとみらい・ランドマークタワー。




三浦半島・森戸川源流域(逗子・葉山)の二子山。




山頂の草地広場へ。




野島貝塚の案内板。山頂下から山腹にかけて貝塚が発掘されている。縄文の昔、海面は現在よりも遥かに高かった。




夏島。手前に日産追浜工場の「グランドライブ(テストコース)」、奥に住友重機のゴライアスクレーンが見える。
伊藤博文が明治憲法起草のために別荘を建てて籠った無人島の夏島は明治期の陸軍砲台の時代を経て、大正期には追浜飛行場の埋立造成により陸続きとなった。夏島の管轄も海軍に移る。




野島公園から追浜(おっぱま)へ。夕照橋を渡り貝山緑地、夏島へ向かう。
山頂からの階段を下りてすぐ近くの公園出入口から公園外周道路と丁字に交差する道路を進み、突き当りを左折。




左折して少し進むと、夕照橋。




夕照橋を渡る。
夕照橋は「ゆうしょうばし」と読み金沢八景「野島夕照」とは読みが異なる。現在の橋は老朽化した先代に代わって昭和60年(1985)に竣工した四代目。
参考「かねざわの歴史事典」「伊藤博文公と金沢別邸」


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