まちへ、森へ。

武州金沢八景、旧海岸線あるき

5.貝山緑地、夏島

 

4.野島・旧伊藤博文金沢別邸はこちら。

 

 

野島(のじま)と金沢区六浦(むつうら)、横須賀市追浜(おっぱま)地区をつなぐ「夕照橋(ゆうしょうばし)」。橋の名は金沢八景「野島夕照(のじま の せきしょう)」とは読みが異なっている。

古くは戦時中の昭和19年(1944)にそれまでの渡し船に代わって木造の「八紘橋(はっこうばし)」が架けられた。昭和27年(1952)に八紘橋は水害で流失し、架け替えられた際に「夕照橋」と改名される。かつては「せきしょうばし」とも呼ばれていたようだ。昭和35年(1960)には橋脚を井桁に組み橋柱に擬宝珠(ぎぼし)をあしらった木橋となる。現在の橋は老朽化した先代に代わって昭和60年(1985)に竣工した四代目。
参考「かねざわの歴史事典」「伊藤博文公と金沢別邸」

 

 

 

夕照にはまだちょっと早い、11月下旬の午後2時ごろ。

 

 

 

 

 

 

 

歩道の張り出しから。高欄(こうらん)には擬宝珠(ぎぼし)、街灯は行燈(あんどん)の意匠。全体的に木橋をイメージしたデザイン。

 

 

 

 

 

 

 

平潟湾(ひらがたわん)沿いに進み追浜公園を経て貝山(かいやま)緑地、夏島(なつしま)へと向かう。

 

 

 

平潟湾越しの野島。

 

 

 

「金沢八景 野島夕照(のじまのせきしょう)」初代広重画。

 

右手に烏帽子巌(烏帽子島)、奥に夏島が描かれている。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

「日本八景づくしの内 武州金沢八景」。こちらは幕末の絵師、五雲亭貞秀の画。

 

近代以降も明治期まではこうした景色が広がっていた金沢八景。大正期に至ると追浜には海軍により飛行場が埋立造成された。飛行場の拡張が重ねられることで夏島は陸続きとなり、烏帽子島は削られた。

画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(画像結合、黄文字加工はサイト管理者)

 

 

 

「富岡海荘図巻(部分)」。明治初期、富岡(金沢区)に別荘を築いた三条実美(さんじょうさねとみ)が画家に描かせた絵。
海側から夏島、野島を眺めた図となる。野島の左手は追浜の鉞切(なたぎり)と烏帽子巌。
画像出典「図説かなざわの歴史」

 

 

 

鷹取川の河口に架かる追浜橋。

 

 

 

追浜公園の一角に整備された、横浜DeNAベイスターズのファーム施設「ドック オブ ベイスターズ ヨコスカ」。建物は屋内練習場。
ファーム施設は令和元年(2019)、長浦(横須賀市。海上自衛隊横須賀基地そば)から追浜に移転してきた。

 

 

 

青星寮(せいせいりょう)。

 

 

 

 

 

 

 

屋外練習場。横浜スタジアムと同一の形状・同一サイズのグラウンド、同じ高さのフェンス。

 

 

 

「夏島貝塚通り」に出たら左折。

 

 

 

日産自動車総合研究所。

 

 

 

正面の角は横須賀市の夏島町自転車保管所。貝山緑地の入口はこのまま夏島貝塚通りを直進するが、右折して戦時中に貝山緑地に造営された横須賀海軍航空隊貝山地下壕の痕跡を観に行く。

 

 

 

事業所が集中するエリアではメリットが大きそうな、企業主導型保育事業による保育園。

 

 

 

明和工業(株)の敷地に隣接する、貝山地下壕の痕跡。コンクリートで塞がれた開口部の跡が見える。

 

昭和七年(1932)、横須賀海軍航空隊に隣接する貝山緑地周辺の浦郷(うらごう。浦郷町五丁目)に海軍航空廠(かいぐんこうくうしょう)が設立された。

昭和14年(1939)には海軍航空技術廠(空技廠)と名称が変更される。空技廠は航空技術の研究、実験などを担当する技術部門。昭和16年(1941)には支廠が磯子区釜利谷(現在の金沢区大川・総合車両製作所を含む一帯)に開設された。

 

空技廠は当時の日本におけるトップレベルの研究機関であり優秀な技術者・研究者が集っていた。軍の組織ではあったがある種のリベラルな雰囲気を持ち、若い者に責任を持たせてどんどん重要な仕事をやらせる、という気風があったという。そうした若い技術将校の一人に戦後にソニーを設立した盛田昭夫氏(技術中尉として支廠の光学部などに所属)がいる。

参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

戦後には米軍の追浜飛行場接収に伴う軍需工場と化し、接収解除後は平時の産業への転換ということで跡地に様々な企業が進出してきた。

 

 

 

 

 

 

 

フェンスで遮られた、草の生い茂る開口部。

 

 

 

貝山緑地に隣接する追浜浄化センター。ビオトープの「トンボの王国」が解放されているが、土日祝日は閉門。

 

角まで引き返して、貝山緑地入口へ。

 

 

 

貝山緑地入口。

 

 

 

緑地の入口はここのみ。

 

 

 

貝山地下壕の案内板。
緑地の地下に廻らされた貝山地下壕は、期日限定のガイドツアーに参加することにより内部を見学することができるようになっている。

 

 

 

貝山緑地案内図。
園路に沿って追浜神社跡の碑、予科練誕生之地記念碑、甲飛鎮魂之碑、海軍航空発祥之地記念碑、旧海軍砲台跡が見られる。

 

 

 

入ってすぐの右手に、追浜神社跡の碑。

 

追浜神社は横須賀海軍航空隊の殉職者を祀った。当時は「航空発祥の碑」の一段高いところに社殿が建っていた。現在は雷神社(かみなりじんじゃ。追浜本町)に合祀されている。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」「NPO法人横浜金澤シティガイド協会 おすすめコース10.浦賀道」

 

 

 

坂を上っていくと複数の案内板が立つ。

 

 

 

「予科練誕生之地記念碑」の案内柱、案内板。

 

 

 

「予科練誕生之地」記念碑。予科練一期生より十期生まで生存者一同により昭和56年(1981)6月建碑、とある。

 

「予科練(よかれん。予科練習部、予科練習生)」とは海軍航空隊の下士官・特務士官搭乗員を養成するために設けられた制度、およびその制度で教育された海軍生徒。昭和5年(1930)、横須賀海軍航空隊に初の予科練習部が開設された。学舎は現在の追浜浄化センターあたりにあった。

その制度は高等小学校卒業程度の学力を有する少年から試験で選抜、海軍航空隊に入隊させて旧制中学卒業程度の普通学と地上基礎教育を三年間施すというもの。更に「操縦」「偵察」に分けて一年弱の「飛行練習生(飛練)」課程で学ばせた。
昭和12年(1937)には甲種飛行予科練習生制度(甲飛)を創設。こちらは旧制中学四年生修了程度の学力を有する者から選抜し、短期間(一年)の基礎教育を施したうえで飛練に進ませるという制度。従前の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改称される。

横須賀の予科練は昭和14年(1939)、霞ケ浦海軍航空隊へ移設された。さらに昭和15年には新設の練習航空隊である土浦航空隊に移っていく。開戦後は三重、鹿児島、松山、岩国、藤沢などの航空隊でも予科練教育が行われた。

なお昭和15年以降、23歳未満の海軍兵から国民学校高等科卒業程度の学力を持つ者を選抜し短期間(三か月)の基礎教育の上で飛練に進ませる丙種飛行予科練習生(丙飛)が新設されている。更に昭和18年には17歳の乙飛合格者の中から選抜し海兵団の新兵教育と乙飛の教育を合わせた短期間教育(六か月)を施したうえで飛練に進ませる「乙種飛行練習生(特)」(特乙)が加えられた。これは戦局が進むにつれて飛躍的に増大する搭乗員補充の要請のため、ということになる。

参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

「海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑」と「海軍航空発祥之地」記念碑。

 

 

 

「海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑」は平成9年(1997)11月の建碑。こちらは甲飛生存者有志、遺族と一般賛同者の有志による。

 

「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・」(若鷲の歌。土浦海軍航空隊の時代に作られた)。予科練の徽章が刻まれた碑。

 

 

 

「海軍航空発祥之地」記念碑。

 

案内板、碑文によると当初の碑は昭和12年(1937)、大正元・1912年に追浜飛行場にて行われた日本海軍の初飛行(カーチス式水上機)を記念してこの台地の下、海軍最初の航空隊となった横須賀海軍航空隊(大正五・1916年開隊)で最古の飛行機格納庫跡に建碑された。

追浜飛行場は横須賀海軍航空隊の前身組織である海軍航空術研究委員会(明治45・1912年発足)により大正元年(1912)10月に建設されている。
当初は水上機の飛行場を想定していたため横須賀軍港内長浦湾の追浜(かつての鉞切・なたぎり。現在の浦郷町五丁目・夏島貝塚通り沿いのあたり)に東西200m、南北600mの土地を確保、整地し水上機の格納庫と滑空台を整備した。

 

しかし戦後に碑は破壊されてしまう。現在の碑は昭和31年(1956)海空会によって再建された。再建当初の敷地は後に国より(株)ナブコ(旧日本エヤーブレーキ)に払い下げられたため、碑は工場内に保存(かつてのナブコ工場は現在は戸田フーズ追浜第二工場に変わっている)。戦後50年の平成七年(1995)に碑は現在地に移設された。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

旧海軍砲台跡へ。

 

 

 

少々の登り。

 

 

 

コンクリートの構造物が残っている。ざっと見ただけでは砲座(銃座)がどのあたりにあるのか、判然としない。

海軍の砲台は昭和期以降の防空砲台として12.7センチ連装高角砲台、25ミリ連装機銃砲台などが各地に設けられていた。「新横須賀市史 別編 軍事」に記載された横須賀海軍警備隊による配置状況の資料によると、貝山周辺で該当しそうな砲台は第二高射機銃中隊(文庫山、空技支廠、八景山、追浜山、光学工場、空技廠、夏島、野島浦)のうち「追浜山機銃砲台」「空技廠機銃砲台」あたり。山頂の機銃砲台なのでおそらく「追浜山」のそれが貝山の砲台なのだろう。

 

 

 

下に回り込んでみる。ちらっと見えるコンクリート塊が基礎の一部だろうか。

 

 

 

少しばかり引き返して展望台へ。

 

 

 

貝山緑地展望台。標高41mの山頂に建つ。

 

 

 

眼下に見える建物は「横須賀市環境部リサイクルプラザ アイクル」。ゴージャスな感じは一見して海辺の結婚式場か何かかと思ってしまった。

 

 

 

奥には米海軍横須賀基地、かつての海軍横須賀鎮守府。右手に吾妻島、左手は泊町。

 

 

 

住友重機横須賀製造所(追浜造船所)。夏島町・旧海軍航空隊追浜飛行場の地先が戦後に埋め立てられた。

 

 

 

手前には日産追浜工場、かつての横須賀海軍航空隊追浜飛行場。海を挟んで八景島シーパラダイス・アクアミュージアム。右奥に南本牧のガントリークレーン、鶴見つばさ橋、ベイブリッジ。

 

 

 

三角形のアクアミュージアムの左に資源循環局金沢工場の煙突、少し離れてシーパラダイスタワー、金沢テクノタワービル。

 

 

 

貝山緑地には多くのあんずの木が植樹されている。

 

 

 

貝山緑地入口から海側へ300mほど進むと、東京湾第三海堡(かいほ、かいほう)遺構が夏島都市緑地内に保存されている。

 

 

 

第三海堡は東京湾要塞を構成する砲台のうちの一つで、人工島に築かれた海上砲台。東京湾の入口で敵艦を迎撃する防衛ラインとして、陸軍により構築された。

 

 

 

海上要塞は明治14年(1881)に着工した第一海堡を皮切りに、明治22年(1889)に第二海堡、明治25年(1892)に第三海堡と順次着工していく。
遠浅で技術的に比較的容易な千葉県木更津側から着工していった海堡は第一が9年、第二が25年を費やして完成した。第二は大型船の航路となる浦賀水道に近接しており工期がかさんでいる。

 

 

 

一方で第三は完成までに実に30年を要した。水深39mという海底の岩盤に捨石を投入して円形の土手を造り、海上に顔を出したところで砂を投入して人工島を築造するという気の遠くなるような作業である。

 

地盤沈下を防ぐため地盤の安定を待っては砂の投入を繰り返す作業もさることながら、土手が波浪で破壊されると充填した土砂が流失してしまう。波浪から土手を守るため当初は50トンのコンクリート方塊を盾のように配置したがあえなく流失。次に100トン、更には150トンの方塊を据えるもこれまた流失。
着工から21年を経過した大正二年(1913)には浦賀船渠(うらがせんきょ。横須賀市)で製作された1500トンの大型コンクリートケーソン(コンクリート函)13基を方塊に代えて配置した。こうして大正六年には基礎工事を終了した。しかし海堡の土手を守った巨大なケーソンの盾も大正六年の台風で1基を残して移動ないし倒壊してしまった。

ちなみにコンクリートケーソンは当時の埋立工事における最新の技術で神戸や横浜の埋め立てに使われた技術。横浜港・新港埠頭の築造では最新のニューマチックケーソンをハンマーヘッドクレーンの基礎代わりにそのまま沈めて頑強な基礎としたためクレーンは関東大震災(大正12・1923)での損壊を免れている。

 

 

 

こうして難工事の末に完成した第三海堡であったが、その僅か二年後に発生した関東大震災で基礎構造が崩壊。充填土砂が流出し地盤は沈下、砲台は使用不能の事態に陥った。視察した陸軍は修理を諦め、第三海堡は除籍処分された。

 

 

 

そのまま放置され海面下に沈下した構造物は暗礁と化す。戦後、船舶が大型化していくに伴い浦賀水道での大型船座礁事故が頻発した。東京湾の難所と化した第三海堡遺構を撤去するため、国は大規模な計画に乗り出す。1400トン吊クレーン船を動員して、海底で解体したコンクリート構造物を引き揚げていった。

 

こうして引き揚げられたうちの一部がいま、近代軍事遺産・第三海堡遺構としてここに展示されている。

 

参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

フェンスの中へはガイドツアーでのみ立ち入りできる。

 

 

 

「観測所」(円筒形部分)。
左側は砲側庫。砲弾を出し入れする小窓が開いている。

 

 

 

「観測所」の通路側。

 

奥の構造物は「砲側庫」。庫内への入口(扉跡)が二か所見える。

 

 

 

「砲側庫」。砲弾を出し入れする小窓が開いている。

 

 

 

奥の構造物は「探照灯」。

 

 

 

「探照灯」。

 

 

 

探照灯台座の側。

 

第三海堡遺構から烏帽子巌(烏帽子島)跡の碑、夏島・明治憲法起草地記念碑へ向かう。
記念碑までは約1.6km、歩いておよそ25分。

 

 

 

貝山緑地入口を過ぎて右折、しばらく進む。

 

日産自動車追浜工場を始め各社の工場、物流倉庫が建ち並ぶ夏島町。この広々としたまっ平らな土地は大正時代の中頃に横須賀海軍航空隊(横空)・追浜飛行場の拡張のために埋め立てられて誕生した。

 

横空の任務は「学生(士官)・練習生(下士官兵)の教育」および「各種航空術の実験研究」にあった。特に新型機の実用実験は重要な任務であった。
まず飛行機メーカーによる飛行実験を経て、軍に引き渡された新型戦闘機は試作段階でまず横空に隣接した海軍航空廠(のちの海軍航空技術廠。空技廠)の飛行実験部で飛行実験が行われる。そして実用実験段階に入ると横空戦闘機隊の手に移されて飛行実験が繰り返された。

 

零戦は「十二試艦戦」(昭和12年試作の艦上戦闘機)と称していた試作機の段階で空技廠飛行実験部による急降下実験中に空中分解を起こしパイロットが殉職している。直接の原因は「フラッター(高速飛行の際の激しい振動)」にあるとされたが、そもそもの原因は「短距離ランナーのスピード(速度)とマラソン選手の持久力(航続力)、ライト級のフットワーク(旋回性能)とヘビー級のパンチ(重機関銃)を併せ持った超一流の万能選手をつくれという、とてつもない無理難題な要求」をクリアしようとした無理な設計にあった。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

ジブリ映画「風立ちぬ」をご覧になった方であれば映画の中盤、設計主任の堀越二郎が「七試艦戦」の試作機で起こした空中分解をホテルの一室で回想するシーン、「九試単戦」構想段階でのディスカッションのシーンを想起してもらえれば、と思う。
超一流の性能実現のためには相互に矛盾する条件をクリアするため、何かを犠牲にしなければならない。それが極限までの軽量化であり、防弾装備の貧弱化だった。しかし、これを「人命軽視」と断じるのは少々一面的な見方にすぎる、と言えなくもない。大きな風防に被弾するリスクを考えれば、防弾のために鈍重になった機体は敵機にとって格好のカモであろう。そもそもスーパーアスリートのような戦闘機が完成すれば、敵機にとってはどうあがいても勝ち目のない「悪魔」のような戦闘機であり、注文主の海軍としても空戦では絶対に負けない、敵の弾はかすりもさせないという大前提があっただろう。そして実戦に配備された当初の零戦はその通りに圧倒的な強さを誇っていた。

 

「風立ちぬ」の終盤では逆ガルウィング(逆さカモメの翼)の「九試単戦」が見事に飛行実験に成功しているが、その後継機の零戦でも試作機(十二試艦戦)は空中分解した。実験飛行はそれだけ危険の伴う任務だった。

 

 

 

信号のある交差点角に「烏帽子巌之跡碑」が建つ。

 

 

 

烏帽子巌之跡碑
烏帽子巌(島)は現在地より北北東150mのところにあった。高さは15m、周囲200メートル。烏帽子巌が削られて消失したのは、追浜飛行場を水上機のみならず陸上機も運用するために夏島までの海面を埋め立て拡張する工事があった大正7〜15年(1918〜26)の間。
この碑は烏帽子巌を偲んで昭和二年(1927)に建立された。現在地に移転したのは昭和57年(1982)。日産自動車追浜工場(旧追浜飛行場)地先が工場用地としてさらに埋め立てられたために、碑が移された。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

烏帽子巌(烏帽子島)は先に「野島夕照」「日本八景づくしの内武州金沢八景」で見たように、金沢八景を題材とした浮世絵にしばしば描かれてきた。

案内板にあるような、烏帽子巌と夏島との間を往来していた人々の中には、あの伊藤博文もいる。明治憲法起草のために夏島別荘に滞在していた伊藤らは草案の討議の合間に夏島から烏帽子巌まで泳いだりすることもあったという。
参考「伊藤博文公と金沢別邸」「図説かなざわの歴史」

 

 

 

単調な歩きは殊の外長く感じる。

 

 

 

夏島に到着。夏島は縄文時代の貝塚、明治憲法起草地の伊藤博文夏島別荘、陸軍夏島砲台、海軍追浜飛行場と様々な顔を持つ。

 

夏島砲台は明治21年(1888)8月に起工、翌年8月竣工。日清戦争では戦備に着いたが日露戦争では着かず、大正四年(1915)に除籍された。大正中期には海軍による追浜飛行場拡張のための埋立が始まっており、航空基地の拡充によって島は切り崩されている。

陸軍砲台の遺構は尾根筋の第4砲座、砲側弾薬庫など切り崩されなかった一部が残っている。追浜飛行場の遺構は山裾に大戦末期の夏島掩体壕(えんたいごう。飛行機を空襲から守る壕)、地下壕などが残っている。
これらの遺構はガイドツアー(開催は不定期な模様)によらなければ見学することはできない。

 

 

 

フェンスで閉ざされた夏島への入口と夏島貝塚の案内柱。

 

 

 

貝塚の解説板。
昭和25年(1950)に明治大学による発掘調査がなされ、縄文時代早期初頭(およそ9500年前)の貝塚であることが判明。底の尖った土器(夏島式土器と命名され国重文に指定)などが出土した。

 

 

 

明治憲法起草地記念碑は入口フェンスの隣りに建つ。

 

 

 

明治憲法起草地記念碑。

 

記念碑は大正15年(1926)、草案の起草に加わった伊東巳代治、金子堅太郎らが発起人となり現在地より南に200mの場所(夏島別荘跡地。陸軍夏島砲台構築の際に別荘を撤去)に建碑された。

その時すでに海軍追浜飛行場となっていた跡地は著しく改変されており跡地の特定には手間どったというが、伊藤公が小舟をつないだタブノキの老木や古井戸が見つかり、特定に至った。
碑には現在御影石の碑柱が建つ部分に夏島別荘の間取図を刻んだ銅板、そして正面に伊東巳代治の碑文を刻んだ銅板の二枚が納められていた。当時の碑が現在の碑より高さを低く収めているのは飛行機の離着陸に支障を来さないためだったという。

 

終戦後は銅板が二枚とも剥ぎ取られ地中に埋もれた状態で荒廃していたが、米軍に接収された飛行場跡地(米軍兵器局として利用)で操業していた富士自動車(米軍車両の修理・解体・再生を行っていた)の社長が間取図の銅板を新たに鋳造するなど改修、昭和26年(1951)に新たに御影石の碑柱を建てて碑文の銅板がはまっていた位置に間取図の復元銅板を納め、再度除幕された。
ところがその二年後、伊東巳代治の碑文を刻んだ銅板が古物商で発見される。富士自動車はこれを買い取り、間取図の復元銅板を外して元々の位置に納めた。
昭和37年(1962)には米軍の接収が解除された跡地を取得した日産自動車が追浜工場の操業を開始。日産自動車は横須賀市と協議して昭和50年(1975)に記念碑を工場の構内から現在地に移設した。
参考「伊藤博文公と金沢別邸」

 

 

 

伊東巳代治の碑文が刻まれた銅板。

 

碑文は「明治憲法起草にあたり伊藤公が別荘を建てた。他の者は旅館に泊まって起草作業にあたっていたが泥棒に入られて機密書類の入ったカバンが盗難に逢い翌日金目のものだけを抜かれた状態で発見され書類は無事だった。そこで皆で別荘に移り起草を続けた。島へは舟で渡るのみ。近くに烏帽子巌があり討論のあとはそこまで泳いでみたりもした。その夏島は今海軍飛行場になり烏帽子巌もない。ここに夏島が憲法発祥の地であったことを刻み後世に伝えたい」といった内容が刻まれている。

碑の冒頭あたりには「自古称武相第一之名区伊藤春畝公愛其勝」とあり、伊藤が風光明媚な憲法誕生の地を愛していた、と記されている。伊藤は夏島の別荘が完成した当時、妻に宛てた手紙で「日和のよき時には後の山廻り、海岸の貝ひろひ等にて、余程おもしろく日を送り申し候。さかなは近処の網引などに頼み候へば、随分沢山に取り来り候。是も亦、余程おもしろく候。近日の内、天気のよき時に二、三日の滞留にてお越しはいかが。お越しなれば横浜より小蒸気船一時間余につい来られ申候。」と記した。当時の夏島への交通手段は東京から横浜まで汽車で来て、横浜の八幡橋(根岸湾・堀割川河口)からは神奈川県庁所有の小型蒸気船が使われていた。
参考「図説かなざわの歴史」「伊藤博文公と金沢別邸」

 

明治憲法起草地記念碑から京急・追浜駅までは歩いて3km弱、45分ほど。最寄りの「夏島バス停」は朝夕のみ運行、休日は運休。「追浜車庫前」(貝山緑地、京急バス追浜営業所の前)まで歩けば20分おきのバスを利用できる。

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