令和三年(2021)11月23日、横浜市金沢区南部から横須賀市北部へ。往時からは姿を変えて久しい埋立地、新たに生まれた海岸線、旧海岸線の地形の名残りをたどって歩く。
3.金沢園から海の公園へ
武蔵国南部の旧海岸線歩き。カフェ金沢園から柴漁港前を経て海の公園へ。人工海浜である海の公園が出来る前、金沢の海には金沢八景にも描かれた乙舳海岸の砂浜が延びていた。
カフェ営業中の金沢園から旧海岸線あるきを再開。柴漁港まえから「海の公園」へと向かう。
称名寺門前町の寺前へと向かう柴町〜金沢文庫駅のバス通りを緩く下り、信号を左折。
シーサイドライン・海の公園柴口駅への道を右に分け、進んでいく。
左手は崖地。往時は常緑樹の生い茂る崖地だったであろうが、現在はコンクリートで固められている。
「小柴切通し」と称するこの通りは旧海岸線に概ね重なる。昭和の後期まで右手は海だった。先に観てきた柴トンネルが大正二年(1913)に開通するまで、昔の柴集落の人々は寺前の町に出るには背後の山道を登るか、引き潮時を狙って海岸沿いを伝っていったのだろうか。
熊野神社の鳥居。
「熊野三社大権現」の扁額が掛かっている。江戸時代までは熊野権現社と称し、社殿の建つ山は権現山と呼ばれる。
長い参道石段を上り、社殿へ。
市の名木古木指定の札が立つ、タブノキ。強めの剪定が入っている。
拝殿。
柴の鎮守、熊野神社の創建年代は不詳。漁業の守り神として熊野三社が勧請されたという。
柴の漁師町は先にも見てきた通り鎌倉時代の後期、応長元年(1311)に長浜千軒の大集落を襲った津波から逃れた漁師たちが移り住んだのが起こりとされるので、熊野権現の勧請はそれ以降ということであろうか。
参考「かねざわの歴史事典」
拝殿の奥に本殿が並ぶ。
山頂の境内には大木が育っている。
市の名木古木指定のシラカシ。
往時は参道石段のすぐ下あたりは海だった。
やや遠くなったとはいえ、木立の隙間からは海が見える。
石段の中腹から見る八景島。
八景島は金沢地先埋立事業に伴って造成された人工島。
熊野神社から柴漁港へ。
柴漁港。
現在の漁港は昭和後期の金沢地先埋立事業に伴って再整備された漁港。
「八景島入口」信号を左折。
シーサイドライン高架が並走。奥は八景島駅。右手は海の公園柴口駅。
八景島駅前。
磯場へ下りてから砂浜へと向かう。
横浜市道路局の健康みちづくり推奨事業による「健康みちづくりルート」案内板。このルートは各区版(金沢区)ではあるが広域版並みに距離が長い。
八景島のイラストマップ。
磯場。
訪問時の磯場は潮が満ちていた。
磯菊(イソギク)。
潮が引けば磯遊びのできる磯が広がる。
砂浜へ。
シーズンには多くの人出で賑わう海の公園の砂浜は人工の浜。
そして往時の乙舳(おっとも)海岸もまた、古くは景勝地の金沢八景「乙舳帰帆」、昭和五年(1930)の湘南電鉄(現京浜急行)開通後は行楽地の乙舳海水浴場として、賑わいを見せた。
「武州金沢六浦案内」付録の地図(部分)。金沢園、熊野神社は海に近い。
左上には昭和五年七月十七日横須賀鎮守府検閲許可済、の記載が見られる。「要塞地帯」であった金沢区以南の三浦半島では許可なく写真撮影や写生をすることはできなかった。
画像出典「図説かなざわの歴史」
幕末期の絵師、五雲亭貞秀による「日本八景づくしの内 武州金沢八景」。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(画像結合、黄文字加工はサイト管理者)
波の穏やかな浜辺。
八景島。
八景島の右手には明治憲法ゆかりの地、夏島。
広い砂浜。
ウィンドサーファー。
SUP(サップ。スタンドアップパドル)ボーダー。
住友重機横須賀製造所(追浜造船所)のゴライアスクレーン。
バーベキュー場まえから駐車場脇へと回り込んで、出口へ。
海の公園から野島(のじま)へと向かう(黄文字加工はサイト管理者)。
この通りはかつての乙舳海岸(おっともかいがん)の旧海岸線に概ね重なる。かつては文庫小学校入口交差点の南50mあたりから野島に至る約1.5kmの旧海岸線を乙舳海岸(原の海岸)といった。
参考「かねざわの歴史事典」
「金沢八景 乙舳帰帆」初代広重画。野島へとつながる砂州に細く長く砂浜が延びていた。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション
金沢漁港入口を通過すると道は右に大きくカーブして旧海岸線沿いを離れ、運河沿いへ。
シーサイドライン・野島公園(のじまこうえん)駅が見えてきた。
野島運河に架かる野島橋。
太古から砂州でつながっていた野島は戦時中に運河が開削され、文字通り島状になった。
橋を渡って野島へ。
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