まちへ、森へ。

武州金沢八景、旧海岸線あるき

令和三年(2021)11月23日、横浜市金沢区南部から横須賀市北部へ。往時からは姿を変えて久しい埋立地、新たに生まれた海岸線、旧海岸線の地形の名残りをたどって歩く。

 

1.金沢緑地・幸浦から柴、金沢園へ

 

 

金沢シーサイドライン・幸浦(さちうら)駅。JR根岸線・新杉田駅から京急・金沢八景駅を結ぶ全長およそ11kmの新交通システムは平成元年(1989)の開業からはや30年余り経った。

 

 

 

シーサイドラインは昭和の後期に金沢沖を埋め立てて造成された広大な土地を縦断する交通手段。幸浦駅からは以前に歩いた長浜公園の汽水池も近い。

「金沢地先埋立事業」は昭和40年代、市の六大事業の一つとして計画。横浜市内の市街地の住工混在を解消するため、工場の移転先として埋立地が造成された。大企業誘致を目的とした戦前の京浜臨海部、昭和中期の本牧の埋立とはその経緯が異なる。

 

 

 

歩道橋を渡ると金沢緑地の遊歩道。昭和の末期、緑地の予定地に若木が植えられて間もないころの姿を記憶しているが、30年余りを経て木々はすっかり成長し鬱蒼とした樹林となった。

 

元々この緑地は埋立地の住宅エリアと工場エリアを隔てる緑地として設けられている。そのため緑地の全長はおよそ4kmもあり、細く長い緑地が延々と続く。

 

 

 

工場エリア側はクスノキ、タブノキといった常緑樹が生い茂り、薄暗い樹林を形成。冬でも葉を落とすことなく、緩衝緑地としての役割を果たしている。

 

 

 

一方で住宅エリア側には紅葉した落葉樹。こちらは近隣住民の憩いの散策路。

 

 

 

細長い緑地は水路や大きな通りと所々で交差し、途切れる。ここはいったん通りに出て小柴橋交差点へ。

 

 

 

平成六年(1994)竣工の超高層ビル「横浜金沢ハイテクセンター」。4F〜17Fはオフィス、19F〜22Fはホテル。

 

 

 

道路を隔てた向こう側は、長浜から柴町にまたがる緑地。緑地の崖地のこちら側は、かつては海。

 

 

 

向こう側の緑地は旧海軍小柴貯油施設の時代から終戦後米軍に接収された時代を経て、現在は跡地を「小柴自然公園」(55.8ヘクタール。100m四方×55.8)として整備する計画が段階的に進んでいる。全面開園はあと10年くらい先。

 

 

 

イチョウの木々もだいぶ葉を落とした。

 

 

 

市民農園「柴シーサイドファーム」の入口。この辺りで緑地帯を逸れて道路の反対側へと渡り、旧海岸線沿いへ。

 

 

 

小柴崎緑道。埋め立てられる前は岬だった。

 

 

 

コンクリート擁壁は旧海岸線の崖地。

 

 

 

富岡(金沢区)に別荘を構えた公卿出身の政治家・三条実美(さんじょう さねとみ)が明治22年(1889)に画家に描かせた「富岡海荘図巻(部分)」にみる旧海岸線。

 

図の右端は長浜。柴から野島へは砂州の乙舳(おっとも)海岸でつながっている。野島の左手は追浜(おっぱま)の鉞切(なたぎり)、烏帽子巌(島)、そして手前に大きく夏島。
画像出典「図説かなざわの歴史」

 

 

 

桜の木が植樹されている。記念碑には「寄贈 横浜開港150周年記念植樹 横浜秋田県人会会員一同」の文字。

 

 

 

こちらは横浜青森県人会の寄贈による「弘前城のさくら」。緑道にはこの他にも「寄贈 横浜東北六県人会」と刻まれた碑がある。

 

 

 

柴漁港方面へ。

 

 

 

色づいた落葉針葉樹はメタセコイア(あけぼのすぎ)の並木。

 

 

 

「柴漁港碑前」交差点。

 

 

 

柴漁港碑。

 

 

 

伝承によれば、柴の名は中世に「長浜千軒」と称された漁村集落が応長元年(1311)の津波で壊滅した際に、難を逃れた人々が現在の柴町のとある大木の下に集まり住み「此の木村」と呼んだことがその起こり、とされる。柴町(旧柴村)を小柴と通称するのは移り住んだ漁師たちが越場(こしば)と称し漁業を続けたことに由来する、という説もある。

かつての海岸線は昭和後期より始まる「金沢地先埋立事業」により消滅。新たに生まれた大地には「幸浦」「福浦」といったかつての海をしのばせる地名が付けられた。現在では埋立事業で生まれ変わった柴漁港で漁業が続いている。

 

 

 

柴漁港碑前交差点からドラッグストア「クリエイトSD」前。この道筋は概ね旧海岸線に重なる。

 

 

 

黄色い外壁の処方箋薬局の角を入り、宝蔵院へ。

 

 

 

奥の階段を上ると、宝蔵院。

 

 

 

真言宗御室派・此木山西方寺宝蔵院。創建年代は不詳。江戸前期の元禄二年(1689)に伝宥が中興の祖となって再建した。
山号は応長元年(1311)の大津波で被災した長浜(金沢区)の住民がこの村(現在の柴町)の大木の下に集まり住み「此の木村」と呼んだことが起こりとされる。
参考「かねざわの歴史事典」

 

本堂前には寿老人の石像。このお寺は「横浜金澤七福神めぐり」の寿老人を祀っている。

 

 

 

阿弥陀三尊像の解説板。像はその作風から鎌倉時代初頭のものと推定されている。

江戸後期の地誌「新編武蔵国風土記稿 巻之七十六 久良岐郡之四 金沢領 柴村 宝蔵院」によると「本尊大日・・元は三尊阿弥陀行基の作を本尊とせしが、元禄年中別に堂(本堂の南の阿弥陀堂)を構えて安ず」とある。

 

 

 

六地蔵。

 

 

 

三界萬霊の供養塔と子育て地蔵菩薩。

 

 

 

本堂背後に建つ柴町内会館。

 

 

 

町内会館前から旧道を柴隧道へと歩き、金沢園へ。

 

 

 

柴・長浜間トンネル。トンネル出口の傍らには柴町バス停(京急バス・文13系統、金沢文庫駅〜柴町)。

昭和14年(1939)、柴と長浜の間に全長約180mのトンネルが開削された。長浜側は海軍貯油施設で戦後は米軍施設になったので一般には利用できなかった。平成17年(2005)に施設が国に返還されてトンネルは通行できるようになったが、抜けたところで行き止まりとなっている。小柴自然公園(旧小柴貯油施設)が全面開園すれば公園のアクセス路として利用されるようになるかもしれない。
参考「かねざわの歴史事典」

 

 

 

旧道を進んでゆく。

 

 

 

柴隧道。
大正二年(1913)開通。三方を崖、前面を海に囲まれてそれまで孤立していた柴の集落も、隧道の開削により寺前(金沢文庫・称名寺の門前町)へ楽に行き来できるようになった。

 

 

 

昭和20年〜25年(1945〜1950)ごろの金沢区柴町の空中写真。
画像出典・国土地理院ウェブサイト(画像赤文字加工はサイト管理者)

 

 

 

トンネルを抜け。

 

 

 

金沢園に到着。

 

 

2.金沢園

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