まちへ、森へ。

屏風ヶ浦から長浜へ、旧海岸線めぐり歩き

4.富岡八幡宮から富岡並木ふなだまり公園、長浜公園、長浜野口記念公園へ

 

3.富岡総合公園から長昌寺・芋観音、慶珊寺へはこちら。

 

 

国道16号・「宮の前」信号から海側へ入る道を道なりに右曲がりに進んでいくと、富岡八幡公園の入口。電柱には八幡宮への案内が出ている。

 

 

 

公園には松並木のほか、早咲きの河津桜の若木も植えられている。

 

 

 

富岡八幡宮の鳥居前に到着。

 

 

 

境内へ。

 

 

 

流造(ながれづくり)の拝殿。

 

 

 

朱塗りの本殿は覆殿(おおいでん)で覆われている。

 

富岡八幡宮は縁起によれば、建久二年(1191)源頼朝により摂津国(せっつのくに。現大阪府)難波の蛭子尊(えびすそん)を勧請したのが始めとされる。
さらに安貞元年(1227)源氏の氏神であり鎌倉の守護神でもある八幡神を併せて祀り、社名も八幡宮と改められた。

 

応長元年(1311)には大津波が近隣の「長浜千軒」と呼ばれた大きな村を壊滅させたにもかかわらず富岡は八幡宮の山に護られて無事であったことから「波除八幡(なみよけはちまん)」として称えられ、海の神様である蛭子尊信仰と相まって海に携わる人々の信仰を広く集めた。
江戸時代初期の寛永年間(1624〜1645)には三代将軍徳川家光が深川の埋立事業を推進するも工事が難航したことから当八幡宮に波除祈願し、事業完成ののち深川に富岡八幡宮を勧請した、とされる。
以降、当八幡宮は「正八幡宮」と称され、日本橋からの「正八幡」の額を始め多くの品が奉納されるなど江戸からの参拝者も集めた。

 

 

 

祇園舟の解説板。

 

夏越の祓と五穀豊穣・豊漁への感謝を併せて、海の神への供え物を載せた青茅の舟を専用の二艘の木造船で沖合遠くへ流しやり、沖から岸へと全速力で漕いで帰ってくるという御祭り。埋立前には宮の前の海岸から船を漕ぎ出していたというが、現在でも昔さながらに行われている。

 

 

 

 

画像出典・市民グラフヨコハマNo.105「横浜 文化財のある風景」(平成10・1998年発行)。

 

 

 

社叢林。

 

八幡宮をあとに、富岡八幡公園から船溜まりへ向かう。

 

 

 

富岡八幡公園の案内板。

 

旧海岸線の社叢林と埋立地とが一体的に造成された、およそ4.3ヘクタール(100m四方×4.3)の公園。

 

 

 

社叢林際の、かつては海岸線の海側であった石畳の散策路を抜けていく。

 

 

 

散策路を抜けた先は、富岡並木ふなだまり公園。

 

 

 

富岡並木ふなだまり公園の、船溜まり。海岸が埋め立てられた際、往時の海をしのび船溜まりのある公園が造られた。

 

 

 

 

 

 

 

カモメが群がってきた。

 

 

 

潮風とともに暮らす街。

 

 

 

古写真に見る、かつての富岡海岸。下の浜あたりから見る八幡山であろうか。漁船らしき小舟が見える。
画像出典・図説かなざわの歴史。

 

 

 

船溜まり沿いに、長浜公園へ向かう。

 

 

 

富岡並木地区センターを抜け、通りへ。

 

このあたりから京急富岡駅へ向かう途中には、富岡の別荘建築文化を現在に伝える貴重な建築だった日本画家・川合玉堂(かわい ぎょくどう)の別邸「二松庵」があった。しかし、平成25年(2013)10月、火災によりまさかの全焼。なぜなんだ、もっと早く見ておけばよかったと悔やんでみても、後の祭り。

 

まち歩きという愉しみには、あまりに突然に大切な一コマを見聞きする機会を失ってしまうという悲しみも、稀にある。

 

 

 

通りに沿って、埋め立てに伴って造られた富岡川が流れる。先の船溜まりにつながっており、海が近い。

 

 

 

長浜公園案内板。

 

埋立地の旧海岸線沿いに造られた公園は広さ15ヘクタール(100m四方×15)余り。鳥見塚の富岡総合公園から富岡八幡公園、富岡並木ふなだまり公園、そして長浜公園と延々と続いてきた、旧海岸線を結ぶ公園の緑の帯。

 

 

 

スポーツ施設エリアの崖は、旧海岸線際の断崖。

 

 

 

「富岡海荘図巻」に見る昔の長浜。今はなき長浜は、地名として残る。
画像出典・図説かなざわの歴史。

 

 

 

道を大きくカーブし、中央広場へ。

 

 

 

中央広場に広がる、草地広場。

 

 

 

横浜横須賀道路金沢支線を跨ぐ陸橋を渡り、散策エリアへ。

 

 

 

 

 

 

 

親水広場。

 

 

 

親水広場の流れにはアシが生い茂る。

 

 

 

野鳥観察小屋(バードウォッチングウォール)。

 

 

 

観察窓からの視線の先には、市内初の人工干潟が設けられた大きな汽水池(きすいいけ。海水が流れ込む池)が広がっている。

 

 

 

親水広場から道路へ上がり、長浜検疫所・長浜ホールへ。

 

 

 

横浜高校長浜グラウンド。昭和62年(1987)完成のこのグラウンドで、数々の輝かしい記録を打ち立てた先輩たちに続き今日も球児たちが汗を流す。

宅地開発が進み住居表示により街区が細分化される前、終戦の直後となる昭和21年(1946)に横浜高校が現在地(能見台駅そば)に移転してきた頃は、郷村の時代からの歴史を受け継ぐ「杉田」「富岡」「金沢」の町は現在よりも広域であった。

 

校地から16号を隔てた「富岡の阜」の上からは、埋立前の海が眼下に迫っていた。屏風ヶ浦八景に歌われた「屏風ヶ浦」は、「富岡」あたりから「本牧の鼻」まで延々と続く崖地の全体を指していた。ここまで歩いてきたように旧海岸線はずっと内陸寄りであった。そして、「屏風ヶ浦の絶崖」を隔てて「商港横浜」となる。

 

 

 

長浜野口記念公園へ。

 

 

 

案内板。
長浜検疫所(のちの横浜検疫所長浜措置場。昭和48・1973年閉鎖)は明治28年(1895)の創設。その前身は明治12年(1879)横須賀市長浦に設けられた「長浦消毒所」。横須賀軍港の拡張整備に伴いこの地に移転してきた。
建物は関東大震災(大正12・1923)で倒壊するも復旧した。

 

ここは野口英世ゆかりの研究施設でもある。北里柴三郎の伝染病研究所で研究助手を務めていた若き野口英世(当時22歳)は明治32年(1899)、検疫医官補としてこの地に赴任した。
当時の長浜は海岸線がすぐ近く。海岸には小さな波止場が設けられ、検疫所の職員は沖に停泊する船に小舟で乗り込んで伝染病患者の有無を検査した。検疫という仕事の性質上、当時の検疫所は周囲からある程度隔絶された地区に設けられた。
着任して早々に野口は横浜港入港前の船の乗員からベスト菌患者を発見、隔離という成果を上げる。こうした功績もあり野口は北里の推薦により海外に派遣。長浜での勤務はわずか半年にも満たない期間であったが野口の細菌学者としての大いなる人生の第一歩となった。

 

 

 

昔の富岡〜長浜。海岸線の右下に丸く囲むように見えるのが長浜検疫所の防波堤。なお海岸線の右上埋立地は富岡の横浜海軍航空隊基地。
画像出典・磯子の史話。

 

 

 

旧細菌検査室。関東大震災(大正12・1923)で倒壊するも、大正13年(1924)復旧。

 

ここは日本に現存する野口英世博士ゆかりの研究施設として、貴重な存在となった。

 

 

 

館内。必要最小限の簡素な造りの館内には、野口博士にまつわる数々の資料に加えて市大から寄託された古い医療器具などが展示されている。

 

 

 

レンガは出土した施設の一部。イギリス積(イギリスづみ。長手(長辺)を並べた段と小口(短辺)を並べた段を交互に積む)で積まれた姿を保存している。

 

 

 

長浜ホール(旧横浜検疫所長浜措置場事務棟)。

 

 

 

公園の開園にあわせて音楽ホール(地下1階)として平成9年(1997)に建てられた施設に、大正13年(1924)に建てられた旧事務棟の外観が忠実に復元されている。

なお、長浜ホールの奥へと続く緑地は旧小柴貯油施設の外縁。敗戦を経て占領軍に接収されたのち、平成17年(2005)返還。敷地面積はおよそ55ヘクタール(100m四方×55)。跡地は今後、長期にわたる整備計画の実施を経て公園となる。

 

市の基本計画によると第一期、第二期の開園は貯油タンクの周囲を囲む里山・広場などのゾーンで平成32年(2020)をめどに開園する計画だが、第三期の貯油タンクのあるゾーンはモニュメントとして残す部分も含めてその処理に時間がかかるため全面開園予定は平成44年(2032)と息の長い計画となる。

 

 

 

野口記念公園を後に、能見台駅へ。

 

駅へ向かうとすぐ、左手に横浜検疫所長浜庁舎の敷地が広がる。敷地内は通常は立ち入りできないが、年に一回の施設公開日が設けられている。
情報は厚生労働省横浜検疫所の公式サイト「お知らせ」ページに掲載。

 

 

 

長浜庁舎敷地内の、長浜検疫所1号停留所。  
画像出典 「横浜:建築百景」(市制100周年・開港130周年記念事業)。

 

停留所とは汚染された船の乗客、乗員が隔離されて留まる施設。「1号」とは一等客室の乗客、高級船員などに用意された施設の意味。

 

明治28年(1895)に長浜検疫所が建設された当時は、14,000坪(4.6ヘクタール。100m四方×4.6)余りの広大な敷地に建坪にして1,200坪余りの数十棟の木造建築群が配されていた。山と海に囲まれた検疫所はあたかも別荘地のような趣きで、隔離された人々のせめてもの慰めとなったであろう。

 

昭和初期には与謝野鉄幹・晶子夫妻や高浜虚子らが長浜を訪れている。当時の一般人には縁のなさそうなこの場所であるが、彼らはそのころ柴のカフェ「金沢園」(当時は割烹旅館)を訪れており、おそらくは金沢周遊のおりに界隈を訪れたのであろう。鉄幹は
「春の日に来て立つ沙丘ななめにも さはるものなく海に及べり」
「芝のなか斜に白き坂となる 路より見ゆる桟橋と船」といった歌を残している。

 

参考「横浜:建築百景」「図説かなざわの歴史」「横濱Vol.17伝統のまち横浜金沢」「金沢園ウェブサイト」。

 

 

 

1号停留所の館内。  画像出典 横浜:建築百景。

 

根岸湾〜金沢の旧海岸線沿いに展開した明治以降の別荘文化が和洋問わずあらかた消滅してしまった今となっては、別荘に類する役割を有したともいえるこの建物は、当時を思い起こさせる貴重な建築。

 

 

 

能見台駅へ向かう途中で坂を振り返ると、坂の向こうに海が見える。

 

 

 

県立循環器呼吸器病センター前の道案内に従って左折すると、能見台駅へつながる歩道橋はすぐそこ。

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