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中津川流域・八菅山修験、行場の入口


3.熊坂から古民家山十邸

2.石神社(八菅山第二行所・幣山)はこちら。



八菅橋(はすげばし)。ここまで八菅神社から八菅修験ハイキングコースを石神社(いしじんじゃ)、尾山(おやま)耕地と巡ってきた。




八菅橋の先には中津川と河岸段丘の中津原を結ぶ中津大橋(平成六・1994年開通)が見える。




段丘崖(だんきゅうがい)の崖下には中津川沿いに下谷(しもや)集落が延びている。




下谷地区は古くからの街道に沿った町並みが続く。




用水路沿いには花菖蒲が植えられ「しょうぶの里」と名付けられている。




下谷八菅山児童館入口から「熊坂」へ。




児童館の先は幅員が狭く車両は通行できない。




熊坂を登っていく。
熊坂は坂上に新たに建てられた石柱の道標に別名として幣使坂、七曲り坂と刻まれている。熊坂の熊は八菅山七社権現が本殿に祀った熊野権現のことであり、熊坂は峰入りする人々が八菅山に入る際に通った坂、という理解でよさそうだ。




7月下旬、早くもキツネノカミソリが咲き始めている。




坂の途中の稲荷社。




お稲荷さんの祠の背後にもキツネノカミソリ。




坂は二手に分かれるが、古民家山十邸(やまじゅうてい)へはどちらから行っても大差ない。




中津川(相模川支流)の左岸と相模川の右岸に挟まれた、河岸段丘の台地(中津原)のヘリに上がる。




段丘のヘリを南北に通る、古道の中津往還。相模川の右岸を厚木から三増(みませ)峠を越えて津久井方面へ抜けていく古道か。街道沿いに山十邸の屋敷を囲む板塀が見える。




古民家山十邸の門。




門は薬医門(やくいもん)。桁が前にせり出し軒が深い印象になる。近世の寺院や武家屋敷によく見られるこの形式は農家の屋敷としては珍しく、明治期の屋敷ならでは。




立派な入母屋破風(いりもや はふ)を架けた来客用玄関。




玄関には式台(しきだい)が設けられており、玄関の間となる「三の間」にオシドリを描いた日本画「夏の池」(熊坂東以画)の衝立が飾られている。

江戸時代に身分の高い来客が駕籠を横付けする玄関として屋敷に設けられた式台は、明治期に入ってからもしばらくは豪商・豪農の屋敷に設けられていたようだ。山十邸は明治16年(1883)、中津地区の豪農であった熊坂半兵衛の屋敷として建てられた。熊坂家は明治以降、手広く商売を行っている。地区の字名(あざな)である熊坂を名字として名乗り、山十の屋号を用いた。




「三の間」から見た式台。




拝観者の入口は家人の出入口である土間(どま)の側。




土間。




土間に展示されている駕籠。




この駕籠は八菅山修験(はすげさんしゅげん)の院坊惣代を務めた宝喜院(ほうきいん)の永朝(えいちょう)が用いた駕籠とある。法印(ほういん)とは近世における修験者の敬称のようなもので、旧中津村の人々からは修験者は「法印様(ホーエンサン)」と呼ばれていた。

足立原と目にして思い浮かんだのは能の曲目「安達原」。ちょうど平成30年(2018)の大山阿夫利神社・火祭薪能で観覧したばかりの演目だった。
八菅山の院坊は明治以降にその多くが足立原姓となったが、これは「安達ヶ原(陸奥)の黒塚に籠れる鬼の住処」の鬼女とそこに一夜の宿をとった熊野の山伏との伝説に由来するとの説がある。他説として里中に在る山伏を「足立」と呼ぶという修験の用法にもとづくもの、という見解もある。

先ほど八菅山を巡ってきたばかりだが、八菅山修験は江戸時代の最盛期には五十余りの院坊があった。宝喜院は八菅山の一山組織における座位(序列)で筆頭の院。序列を巡っては院坊の間で熾烈な競争があったようだ。
宝喜院は江戸中期以降に力をつけ、本山の聖護院門跡(京都市左京区)から年行事職を任ぜられて一大勢力となった。組織内では各院が一定の順序で「年番」と呼ばれる職に就いて峰入り修行など各種の修験活動を司り、組織を運営した。その一方で幕府や地方役人との連絡といういわば政治的側面からの活動は、各種文書の調査の結果から宝喜院を中心に行われていたと推測されている。

参考「修験集落八菅山」




土間の隣りは広間。大黒柱は50p角のケヤキ材。




緋毛氈(ひもうせん)が敷かれた24畳の広間「出居(でい)」。奥には玄関の間を兼ねる「三の間」、さらに奥には屋敷の上座敷となる15畳の「大広間」。




オシドリの衝立の裏側は墨絵の龍。




大広間の床(とこ)。付書院(つけしょいん。出窓のような棚のある書院)を設けている。




違い棚と天袋(てんぶくろ)を備えた床脇(とこわき)。




天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)。欄間は筬欄間(おさらんま)。総じて伝統的な書院造を踏襲した、明治期の豪農建築らしい立派な座敷となっている。




大広間の広縁(ひろえん。外廊下)は立派な庭に面している。




外から見る大広間・広縁の角と庭。




囲炉裏が切られた「勝手(かって)」。奥は土間。
土間に竃(かまど)が見当たらなかったので、この屋敷では寒冷地の古民家のように囲炉裏の火を絶やさずに全ての煮炊きを囲炉裏で行っていた、ということであろうか。




勝手の隣りは「茶の間」。茶の間には屋根裏への階段がある。




屋根裏。太い梁が見える。




大広間の裏側には、こちらも立派な座敷の「二の間」。茶の湯に用いる小さな炉が切られており、茶室の広間としても用いられた。




こちらにも付書院。




付書院の裏側の外廊下。菱格子の欄間がはめられている。




「おや?」と目を引いたのは、大川周明(おおかわ しゅうめい)の肖像写真。この屋敷は戦争中の昭和19年(1944)に大川周明が熊坂家から購入、昭和32年(1957)に亡くなるまで住んでいたそうだ。このとき初めて知った。
大川周明は戦前期の思想家。ちょうどその著書「日本二千六百年史」を興味深く読んでいたところだったので、何ともタイムリーだった。

大川周明は一般的には国家主義者・右翼思想家として評価されており、戦後はA級戦犯として起訴されるも精神疾患を理由に免訴、釈放されたことでも知られている。そんな通り一辺倒な評価を下されている大川周明ではあるが、皇国史観が世の中を覆っていた時代に上皇、天皇に刃を向けた「逆賊」として糞味噌な評価を下されていた北条泰時、足利尊氏といった東国の武家を時代の指導者として積極的に評価している。戦争指導者とされた側の人々からみて好都合であるばかりの思想家ではなかろう。実際、上記の書は出版された当時に「不敬罪」に抵触するとして削除された部分も多い(近年の再出版では復原されている)。

終戦当時のアメリカは日本の指導者層を徹底的に分析しており、その処遇を巡っては自由主義の国アメリカらしく様々な意見が交錯していた。そのうえで文官政治家だった広田弘毅元首相が処刑されたのは近衛文麿元首相の代わりに見せしめとして処断されたのではないか、との感もぬぐえない。そうした中で大川周明がいったんは起訴されたにもかかわらず免訴、釈放されたのは精神疾患だったから、というお座成りな理由だけではなかろう。当時のアメリカが本気で処罰しようとしたならば、その相手が法廷で奇行を見せただけで心神喪失で責任能力なしと診断して放免するはずがない。そもそもあの奇行は本当に大川自身の意思による演技だったのかさえ、真相は闇の中。アメリカ上層部側に一般にはうかがい知ることのできない意向、それこそ戦後世界の指導者になろうとしていたアメリカの立場上そのまま看過してしまっては具合の悪い何らかの要素に基づく意向が働いていたのではないか、と穿った見方をしてしまう。

思うのは、巷にあふれる物事の評価というものは「客観を装った主観」が蔓延っている、ということである。客観的な事実を並べ立てて如何にも客観的に物事を評価しているようでいて、その実は自らの考え方を裏打ちする事実だけを恣意的に取り上げることで受け手側が抱くであろう偏見を誘っているだけ、というのは偏った主観の発現以外の何物でもない。物事の真実はそんな浅いところにはない。自らの主義主張で(もっと言ってしまえば好き嫌いで)一方的に対象を卑下しあるいは侮辱する誹謗中傷合戦がはびこる世知辛い世の中、大げさに言ってしまえば何が人の世の中における真理であるのか、というのは難解な学識を振りかざすまでもなく意外と単純なところにあるような気がしてならない。




明治期の銅版画に着色した、創建当時の山十邸。




こちらは蔵。




中には民具などが収められている。




蔵の内部は二層。




改修前の山十邸に葺かれていた瓦。軒丸瓦には、よくある巴ではなく特注の山十の屋号が刻まれている。




終戦前まで愛川町の高峰小学校で奉安殿(ほうあんでん。天皇陛下の御真影が収められており、国民学校の児童たちは一礼してその前を通った)として用いられていた金庫。




古民家山十邸を後にして、龍福寺へ。石柱の道標には「熊坂 別名 幣使坂 七曲り坂」と刻まれている。


4.龍福寺から中津層露頭、へいしの坂  まち歩きトップに戻る