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湯河原梅林と鎌倉幕府開運街道めぐり


2.幕山から自鑑水、大石ヶ平、一ノ瀬分岐へ。

1.湯河原梅林はこちら。




幕山(まくやま)の山すそに広がる湯河原梅林。梅林の最高所付近は総数4,000本の梅林を一望する絶景がすばらしい。




幕山のシンボル、幕岩(まくいわ)。岩場にちらちらと見える、クライマーの影。




梅林を抜け、登山道へ。




山頂への登山道は「幕山ハイキングコース」として親しまれているが、梅林最高地点付近から山頂まで標高差が300mはあろうかというジグザクの急登は山慣れない人にはそれなりにきつい。観梅がてら登るにしても、スニーカーやウォーキングシューズくらいは履いておきたい。




湯河原の街を見下ろす。









真鶴(まなづる)半島が視界に入った。




早春の陽光を一杯に浴びながら、山道を登ることおよそ40分。




山頂周回コースに到着。左右どちらでも良いがここは左へ行ってみる。









手入れの行き届いた、広々としたカヤト(茅戸)の山頂に到着。午前11時半ごろ。




標高626m(最新の国土地理院地形図より)の、幕山山頂。ちょうどお昼時で賑わっている。




山頂からの真鶴半島。




海の反対側にはレーダードームの建つ山が見える。
あれは航空路監視レーダー(箱根レーダー局。国土交通省)のレーダー塔二基。箱根古期外輪山の大観山(たいかんざん。だいかんざん)あたりから派生する尾根上の小ピーク(890m)付近に建つ。


幕山の山頂から南郷山(なんごうさん。なんごうやま。611m)を経て鍛冶屋バス停(78m)へ下るコースは多くのハイカーに歩かれている。今回の山旅は当初は観梅がてらそちらをのんびり歩いてみようかと思っていたが、山行の前日に地図を眺めていて急遽、気が変わった。

今回は南郷山までは行かずに、後半は源頼朝ゆかりの地(鎌倉幕府開運街道)を巡る山歩きとする。

まずは南郷山手前の「自鑑水(じがんすい。565m)」に立ち寄ってから大石ヶ平(おおいしがだいら)、一ノ瀬分岐(260m)へと下り「しとどの窟(いわや)」(570m)へ登る。その先は城山トンネル・椿台(590m)から尾根伝いに620m地点を経て城山(土肥城址。563m)へとつなぎ湯河原駅(30m)に下りるという、やや長く起伏のあるコースを歩く。
なお、幕山・南郷山から城山へと縦走(じゅうそう)していくルートは一般のハイキングとしてはややきついので行政(県・湯河原町・観光協会)のハイキングコースとしては紹介されていないが、山歩き愛好家の間では結構歩かれている。




11時50分ごろ、山頂を出発。まずは自鑑水を目指し、南郷山方面へ。




周回コースにでるとすぐに「南郷山2000M」の道標が現れる。右方向は湯河原梅林へ下りる道。




次の道標。「大石ヶ平1,100m」と表示が変わっているが、この数字はちょっと短すぎ。









正面に南郷山から続く尾根を眺めながら緩やかに道を下っていく。




ヒノキの植林地。




分岐に到着。幕山の山頂からは600m、大石ヶ平へは1200m、南郷山へも1200m。

先に南郷山手前の自鑑水に立ち寄ってからここまで戻り、大石ヶ平へ向かう。




南郷山方面へ進み、林道を横切る。林道の向こう側(画面右奥)には道標が立っている。




「自鑑水200M」の道標。




ハコネダケの生い茂る山道を抜ける。




ヒノキの植林地を進むと、自鑑水が現れる。




案内板。




自鑑水。標高565m。




案内碑。

石橋山の合戦(治承四・1180)における源頼朝主従ら三百に対し、平家方に付いた相模の豪族・大庭景親(おおばかげちか)は三千の大軍。大敗を喫した頼朝は、頼朝に与した土肥郷(現湯河原町)の領主・土肥実平(どいさねひら)の手引きにより土肥椙山(どいすぎやま)の山中に逃れていく。
追討の手を緩めない景親の軍勢から逃れ切ることは困難を極め「もはやこれまで」と自害を覚悟していた頼朝であったが、自鑑水の湧くこの地で水鏡に映る自らの姿に気を取り直し、自害を思い留まって喉を潤し髷を整え直した、と伝わる。

頼朝の伝承はしとどの窟(湯河原町)から地蔵堂、箱根権現へと落ち延びていく途中での出来事であったか。自鑑水〜南郷山の北方には小道地蔵寺屋敷跡(小道地蔵堂跡)がある。

江戸時代後期の地誌「新編相模国風土記稿」巻之三十二足柄下郡巻之十一早川庄真鶴村の項では、頼朝一行の経路についておおむね次のようにまとめられている。
吾妻鏡の日時に従うと頼朝は石橋山の合戦ののち土肥椙山(湯河原町)へ敗走、窟中(湯河原町のしとどの窟?)に隠れてから山越えして箱根山(箱根権現)に向かう。ところが頼朝を支援した箱根権現の別当である行実(ぎょうじつ)とは別に、行実の弟の一人が敵方である大庭景親に内通して頼朝を襲う恐れがあったので再び山越えして土肥郷に戻り、真鶴(まなづる)から舟で安房(あわ。現千葉県南部)に脱出した。そして、吾妻鏡には小道地蔵堂のことは書かれていないものの今の地形から考えればしとどの窟(湯河原町)を出て地蔵堂に隠れたのち箱根に向かったと見られる、と結論付けている。
一方、吾妻鏡に記載のない小道地蔵堂での顛末、すなわち大庭景親らに追い詰められた頼朝らが地蔵堂の僧・純海に匿われて辛うじて難を逃れたことについては源平盛衰記に詳細に記されている。

これらを勘案すると、頼朝一行はしとどの窟から地蔵堂に向かう途中で自鑑水に立ち寄ったのではないかとも考えられる。


来た道を引き返し、大石ヶ平分岐まで戻る。




大石ヶ平へ。




ハコネダケの生い茂る山道。









涸れた沢を渡る。




赤土に岩混じりの山道。









正面にどっしりとした立派な山が見える。あの山は幕山山頂で見た航空路監視レーダー局(国土交通省)の建つ904.8m峰。レーダードームはピークの裏側になる。左手前の斜面がえぐれた山が大石ヶ平正面の497m峰。




再び涸れた沢を渡る。




904.8m峰。




497m峰。









新崎川(にいざきがわ)に架かる橋が見えてきた。




大石ヶ平(おおいしがだいら)に到着。標高およそ335m。




名前の通り、大きな石がゴロゴロと転がっている。灰色と白の縞模様は、先ほど見てきた幕山(まくやま)の幕岩とおなじく白っぽい流紋岩だろうか。




大理石(だいりせき)のような淡いマーブル模様は石材として重宝されそうな質感。

明治から昭和の初期、湯河原町の新崎川沿いは石材の産地だった。下流の右岸側(湯河原火山の側)では「白丁場石(しろちょうばいし。相州みかげ石)」と呼ばれ花崗岩によく似た白っぽい安山岩(湯河原火山の溶岩)の石材が採石され、県内でいえば県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)の外装に用いられたという。

この石は幕山を形成する溶岩の一部のようなのでそれとは異なるだろうが、大石ヶ平の辺りも採石の歴史があったのだろうか。




「大石平」と書かれた道標。




新崎川沿いに林道を下っていく。









新崎川を見下ろす。









「クスノキの純林」への分岐。




案内板。
暖かい地方に見られる常緑樹の楠(クスノキ)はその昔、防虫剤(樟脳)の原料として重宝された。ここのクスノキ林は明治後期に植林された、とある。

立ち寄っていきたいところだったが、それでは時間が足りなくなりそうなのでパス。




山の神。




湯河原町鍛冶屋地区の山仕事に携わる人々の手によって祀られたという山の神。岩穴に石祠という現在の設えは碑文によると平成18年に移設されたもの、とある。




一ノ瀬分岐(標高260m)に到着。午後1時過ぎ。

このまままっすぐ進めば湯河原梅林に戻る。なお湯河原梅林から幕山に登るもう一つのルートとして、ここまで来た道の逆を行くと勾配の緩やかな山歩きで山頂に至る。


3.一ノ瀬分岐からしとどの窟、椿台、城山(土肥城址)へ。  森歩き山歩きトップに戻る。