まちへ、森へ。

伝統文化の継承、日本民家園

川崎市立日本民家園(その2)

 

日本民家園(その1)はこちら。

 

 

 

民家園の案内図。正門から第一テーマ「宿場」、第二テーマ「信越の村」と巡ってきた。

 

次はトンネルを抜けて第三テーマ「関東の村」へ。その先は第四テーマ「神奈川の村」、第五テーマ「東北の村」と巡っていく。

 

 

 

トンネルを抜け、石橋を渡る。この石橋は川崎市多摩区登戸(のぼりと)に架けられていた江戸時代後期のもの。

 

 

 

11.旧作田家住宅。旧所在地は千葉県山武郡(さんぶぐん)九十九里町。建築年代は1600年代後期(主屋)、1700年代後期(土間)。国指定重文。

 

この建物は九十九里浜の網元(あみもと)の家。主屋(おもや)と土間(どま)の二棟が結合したかたちとなっている。このような造りを「分棟型(ぶんとうがた)」という。
こちらは土間。

 

 

 

こちらは主屋。

 

 

 

土間の「にわ」。土足のまま作業をする空間。

 

 

 

土間から見た板の間。ここは生活空間であり、「かみ」と呼ばれる。奥には座敷が見える。

 

 

 

「かみ」の頭上に見える梁は見事な曲がり具合。右奥には仏壇と、床(とこ)の原型となる「押板(おしいた)」。

 

 

 

座敷の「なかのま」と「おく」。座敷は接客の間。

 

座敷にも天井板は張られておらず屋根裏をのぞかせ、構造としては素朴。とはいえ仕切には筬欄間(おさらんま)を上下互い違いにアレンジしたような欄間がはめられており、「おく」には立派な床(とこ)が設けられている。

 

 

 

床脇(とこわき)は上下二段の物入れになっている。

 

 

 

この建物も先に見た信州の農家・旧佐々木家住宅のように、来客用の風呂場と便所が備えられている。名主を務めた漁家(網元)の作田家には身分の高い役人が泊まりがけで訪れていたことを物語る。

 

 

 

奥へと進んでいく。

 

 

 

12.沖永良部(おきのえらぶ)の高倉。旧所在地は鹿児島県の奄美群島・沖永良部島。建築年代は1800年代後期。

 

これは高床式の倉庫。蘇鉄(そてつ)の植え込みが奄美の南国情緒を醸す。

 

 

 

屋根裏が倉庫になっている。

 

 

 

先へ進むと、一枚の石に六体の地蔵が彫り込まれた六地蔵(ろくじぞう)。

 

 

 

その先に現れたのは、素朴な民家。

 

 

 

13.旧広瀬家住宅。旧所在地は山梨県甲州市塩山上萩原(えんざん かみはぎはら)。建築年代は1600年代末期。

 

切妻造(きりづまづくり)の妻壁(つまかべ)に柱や梁を見せる造りになっている。

 

 

 

軒がかなり低い。雪深い地方の古民家とは対照的。

 

 

 

土間の梁。

 

 

 

莚(むしろ)敷きの「いどこ」。囲炉裏(いろり)が切られている。

 

ここの土間は「どじ」と呼ばれるたたきの部分と莚敷きの土座(どざ)となる「いどこ」の部分に分かれており、江戸時代前期の素朴な鄙びた農家の色が濃い。年代的にもかなり古いこの建物は、開口部が乏しく内部は閉鎖的な空間になっている。
訪問時にちょうど床上公開だったのでスタッフの方と少々話をしたのだが、所々に見られる小さな下地窓(したじまど。土壁の下地となる竹の格子が見える窓)は移築に際して明かり取りとして開けられたそうだ。

 

また、ここの土間にも竈(かまど)がない。冬の甲州は雪は少ないものの「甲州の空っ風」が吹きすさび冷え込みは厳しい。ここでも煮炊きは火を絶やすことのない囲炉裏で行っていた。建物が閉鎖的なのは時代的な特徴であるとともに寒さ対策という必要性もあったのかもしれない。

 

「いどこ」の奥には座敷が見える。

 

 

 

座敷の屋根裏。

 

 

 

「ざしき」と「なかなんど」。莚敷きの座敷であり、飾り気もない。どこか侘び(わび)の風情が漂う。

 

 

 

14.旧太田家住宅。旧所在地は茨城県笠間市片庭(かさまし かたにわ)。建築年代は1600年代後期(主屋)、1700年代後期(土間)。

 

この建物は内陸の栃木県境近くに建っていた名主の家。先に見た網元の旧作田家住宅(九十九里町)と同様、二棟が結合している。こちらも国指定重文。

 

こちら側は土間。角は馬を繋いでおく空間である「うまや(馬屋)」が少しばかり張り出している。

 

 

 

こちらは主屋。
主屋は平成2年(1990)に生田緑地の花火が飛び火して大半を焼失するという大事故に見舞われた。それでも文化財指定解除は免れ、無事に復旧した。

 

 

 

土間となる「かまや(釜屋)」の内部。かなり広い「たたき」となっている。たたきとは土に石灰やにがりを混ぜて搗き固めた地面であり、日常生活における出入口・作業場となる土間に用いられる。
土間の奥は広間型の間取りを持つ主屋が結合する。板張りの間は生活空間の「ひろま」。

 

 

 

「ひろま」の奥は来客用の「ざしき」。

 

 

 

土間と主屋の結合部は建物内を雨どいが通っている。

 

 

続いては第四のテーマ、「神奈川の村」へ。

 

 

 

15.旧北村家住宅。旧所在地は神奈川県秦野市堀山下(はだのし ほりやました)。建築年代は貞享4年(1687)。

 

この建物で特筆すべき点は柱の墨書(ぼくしょ)により建築年代が明確になっていること。そうしたこともあり国指定重文となっている。
表丹沢(おもてたんざわ)の山麓に建っていた名主の農家であるこの建物の間取りは、広間型の三ツ間取り。

 

 

 

土間の「だいどころ」。玉石のように土が浮き出た、見事な「たたき」の土間となっている。
土間に接する「ひろま」は炊事場となる奥の部分が板張の他は莚(むしろ)が敷かれている。

 

 

 

むしろの下は竹簀子(たけすのこ)。すのこ張りの床は時代の古い古民家でときおり見られ、珍しい。

 

 

 

梁の上には細竹を編んだ簀子状の天井が張られている。

 

 

 

接客の間となる「おく」。仏壇が設えてある。

 

 

 

「ひろま」から「おく」にかけては濡縁(ぬれえん)が設けられている。江戸時代前期の農家にしては、新しい時代を感じさせる開放的な造り。

 

 

 

第五のテーマ「東北の村」の古民家を横目に見ながら、先へ。

 

 

 

「神奈川の村」の古民家が並ぶ。

 

 

 

16.旧清宮家(きよみやけ)住宅。旧所在地は川崎市多摩区登戸(のぼりと)。建築年代は1600年代後期。

 

棟(むね)に草が生えている。これは「芝棟(しばむね)」といい、屋根を土の重さで押さえつつ、その土が落ちないように草花を植えてある。

 

 

 

板敷の「ひろま」。右側の壁は裏部屋との仕切で、押板(おしいた)のようだ。
奥は畳敷きの座敷「でえ」。「でえ」と「ひろま」それぞれの裏側に小部屋があるだけの簡素な造りとなっている。

 

 

 

「でえ」。床(とこ)も押板(おしいた)も見あたらない、素朴な座敷。土壁で囲まれた座敷は比較的古い時代の古民家によく見られる閉鎖的な造り。壁の向こうの小部屋は「ひろま」裏の小部屋からつながっている。

 

 

 

順路案内。

 

清宮家に続いては「神奈川の村」の残りをめぐり、その先の木段を上った先に移築された志摩の舞台建築へ。往復して現在地まで戻ってきたら「東北の村」へまわる。

 

 

 

「神奈川の村」。

 

 

 

17.旧伊藤家住宅。旧所在地は川崎市麻生区(あさおく)金程(かなほど)。建築年代は1600年代末期から1700年代初期。国指定重文。

 

この建物は一番最初に移築された、日本民家園誕生のきっかけとなった建物。正面の窓は獣除けの縦格子(たてごうし)が取り付けられた「ししまど」となっている。

 

 

 

土間の「だいどころ」。この土間の「たたき」も玉石のように土が浮き出している。その奥は「ひろま」。小さく張り出しているのは「流し」が置かれた炊事場。

 

 

 

土間の竈(かまど)。右側の炊事場と接した機能的な配置。

 

壁の柱や貫(ぬき)は非常に狭い間隔で細かく組まれている。

 

 

 

土間の頭上の梁。

 

 

 

土間を仕切った「みそべや」がある。

 

 

 

「ひろま」。

 

 

 

「ひろま」の囲炉裏(いろり)。旧北村家(秦野)のように、この建物の広間も床が莚(むしろ)敷きの竹簀子(たけすのこ)になっている。

 

時代の古い、こうした竹簀子の古民家は一本杉公園古民家園の旧有山家住宅(東京都多摩市)でも見られる。

 

 

 

接客の場となる座敷の「でい」。左は「ひろま」との仕切り。
「床(とこ)」や「押板(おしいた)」は設けられていない。神棚と仏壇が備えてある。

 

 

 

18.蚕影山(こかげさん)祠堂(しどう)。旧所在地は川崎市麻生区・東光院境内。建築年代は幕末の文久三年(1863)。

 

この建物は覆堂(おおいどう。さやどう)。棟は芝棟(しばむね)になっている。

 

 

 

内部に収まっている宮殿(ぐうでん。本殿)。養蚕の神様を祭る。
その造りは屋根が流れるような切妻造(きりづまづくり)。妻壁(つまかべ)の側を正面とし唐破風(からはふ)の向拝(こうはい。せり出した屋根)を設けている。細かな彫刻が施され、江戸時代後期の社寺建築らしい雰囲気。

 

 

 

19.旧岩澤家住宅。旧所在地は神奈川県愛甲郡(あいこうぐん)清川村煤ヶ谷(きよかわむら すすがや)。建築年代は1600年代末期。

 

岩澤家は東丹沢の山間部で炭焼きや林業、焼畑を生業とした名主であった。こちらにも正面の窓に獣除けの縦格子(たてごうし)が付けられている。

 

江戸時代、丹沢の多くは幕府の「御林(おはやし)」だった。中津川(相模川支流)の源流域となる宮ヶ瀬や煤ヶ谷といった地域に暮らす人々は御林を守ることを命ぜられ、代わりに年貢を免除されていたという。特に大事にされていたのは栂(つが)、欅(けやき)、樅(もみ)、杉、榧(かや)、栗の六種で「丹沢六木(たんざわろくぼく)」と呼ばれ、伐採はご法度(ごはっと)だった。
ちなみに秦野の蓑毛(みのげ)からヤビツ峠を越えた奥(宮ヶ瀬からヤビツ峠へ向かった奥)に「札掛(ふだかけ)」という地名がある(「国民宿舎丹沢ホーム」のあたり)。これは山の管理をする村人が見回った証として札を掛ける場所であったことがそのまま地名になった。

 

参考「県立宮ヶ瀬ビジターセンター自然体験ガイドパンフレット」(宮ヶ瀬ビジターセンターは平成28年に「みやがせミーヤ館」としてリニューアル)

 

 

 

土間の「だいどころ」から見る板敷きの広間「ざしき」。奥には畳敷きの「でえ」が見える。

 

 

 

接客の間となる座敷の「でえ」には「床(とこ)」の原型となる「押板(おしいた)」が設けられている。
古い時代の押板は棚の奥行きが殆ど無いものがみられ、壁には書画を掛け壁の手前に物を飾る板を置くといった使い方もしたのだろう。置かれる板も「押板」と呼ばれる。このような空間がやがて「床」に発展していった。

 

 

 

「でえ」の壁は土壁ではなく板張りの造り。「でえ」の裏側には「へや(寝室)」がある。

 

 

 

座敷の「でえ」は広間の「ざしき」よりも半間(はんげん。約90cm)ほど後退している。とはいえ、そこに濡縁(ぬれえん)などを設けている訳でもない。半間の壁部分は広間の「ざしき」への出入口になっていた、とある。

 

土間から上がるのとは別に敢えてここに広間への出入口を設けていたのは、季節的な要因たとえば冬場における出入口といった意味があったのだろうか。江戸時代の煤ヶ谷であれば今の時代以上に冷え込みが厳しそうな印象はある。冬は開口部をなるべく狭くして囲炉裏の火で建物全体をしっかり暖めていたのかもしれない。

 

 

「神奈川の村」はここまで。この先、志摩の舞台建築を観に行く。

 

 

 

山を登り、尾根筋へ。

 

 

 

20.船越(ふなこし)の舞台。旧所在地は三重県志摩市大王町(しまし だいおうちょう)船越。建築年代は幕末の安政四年(1857)。

 

かつて船越は海女(あま)の漁村だった。この建物は地域の鎮守である船越神社の境内に置かれ、祭礼で奉納される歌舞伎(農村歌舞伎)の舞台となった。建物は墨書(ぼくしょ)により建築年代が判明しており、国指定重要有形民俗文化財となっている。

 

 

 

回り舞台。

 

 

 

回り舞台は、舞台の下(奈落。ならく)で人力によって回す。

 

 

 

奈落の出入口。

 

 

 

奈落。

 

 

 

 

 

 

 

舞台の前はひな段状に整地されて観覧席となっている。観覧席の奥で橋を渡ると民家園の西門に至る。

 

「船越の舞台」から順路案内板まで引き返す。

 

 

 

旧伊藤家そばに建つ、棟持柱(むなもちばしら)の木小屋。旧所在地は川崎市多摩区生田(いくた)。建築年代は大正13年(1924)頃。

 

この小屋は薪(たきぎ)や堆肥(たいひ)を保管した小屋。

 

 

 

21.船頭(せんどう)小屋。旧所在地は川崎市多摩区菅(すげ)。建築年代は昭和四年(1929)。

 

多摩川の渡船場、「菅の渡し(菅〜調布)」。この小屋は船頭が客待ちの時間を過ごす小屋。丸太を通して担いで移動することが出来た。

 

 

 

小屋は一間(いっけん。約180cm)四方程度の大きさ。

 

最後に第五のテーマ、「東北の村」へ。

 

 

 

22.旧工藤家住宅。旧所在地は岩手県紫波郡(しわぐん)紫波町船久保。建築年代は宝暦年間(1751〜1763)頃。

 

岩手県の南部地方(旧南部藩領)に多く見られる曲屋(まがりや)。L字型の建物は主屋(おもや)と馬屋(まや)で構成される。曲屋としてはかなり古く、国指定重文となっている。

 

 

 

主屋の「ざしき」と濡縁(ぬれえん)。

 

 

 

土間に設けられた「まや(馬屋)」。

 

 

 

土間の「にわ」から板張の「だいどこ」を見る。この建物も土間に竈(かまど)が見当たらない。

 

 

 

「だいどこ」の囲炉裏(いろり)。「にわ」の側から腰かけて利用できるようになっている。ここの囲炉裏もあらゆる煮炊きに利用されたのだろう。

 

 

 

土間の「にわ」から見た主屋の屋根裏。梁の下にも上にも天井板は張られていない。屋根裏部屋もなく建物全体で一室のような造りで、寒さの厳しい冬場は囲炉裏の火を絶やさずに家中を暖めた。

 

 

 

「にわ」から「ちゃのま」を見る。

 

 

 

左は主屋側、右は土間側。曲屋には、二棟を繋げた分棟型に見られるような屋内の雨樋はない。

 

 

 

「したざしき」越しに「ざしき」の「床(とこ)」を見る。座敷でも畳敷となるのは接客の間である「ざしき」のみ。

 

 

 

床脇(とこわき)は押入れのような物入れになっている。

 

 

 

旧工藤家の外便所。

 

 

 

23.旧菅原家住宅。旧所在地は山形県鶴岡市松沢。建築年代は1700年代末期。

 

雪深い庄内(しょうない)地方の山間部から移築された古民家。寄棟造(よせむねづくり)の屋根に台形の妻壁(つまかべ)と窓を設けている。この窓は「高はっぽう(切上窓)」と呼ばれる。

 

 

 

屋根のこちら側には屋根窓が設けられている。この窓は「はっぽう(高窓)」と呼ばれる。これらの窓は養蚕のために設けられたもの。屋根裏部屋の蚕室の採光・通風を確保するために開けられている。

 

こうした造りは「はっぽう造」と呼ばれる。関東甲信でいえばかぶと屋根の「かぶと造」のような工夫。

 

 

 

外壁は板張りで軒は高い。これは豪雪地帯であることを考慮した造り。同じく寒冷地でありながら、軒の非常に低い甲州の農家とは好対照。

 

 

 

土間は手前側が「あまや」と呼ばれる前室に区切られている。蓑(みの)にまつわり付いた雪をここで払う。この空間も雪国ならではの工夫。

 

 

 

土間の「にわ」。奥は板の間で右が「しもで」、左が「おめ」。「にわ」の右手は土間を区切って設けた「なや」。

 

 

 

「なや」の隣りの「ものおき」。土間にはいろいろな空間が揃っており、雪深い冬の作業場は土間で事足りる。

 

 

 

急な階段は「あまや」の上の「高はっぽう(切上窓)」に通じている。雪で埋まる季節は「高はっぽう」から出入りすることが出来た。階段の奥は板敷の「いなべや」。

 

 

 

手前の板の間は「しもで」。奥の畳の間は「かみで」。「かみで」の奥には「床(とこ)」が見える。

 

 

 

「でい(しもで)」。奥に見える「おめ」にも囲炉裏が切られており、土間に竈(かまど)はない。

 

 

 

「床(とこ)」の隣り、一見すると押入れのような空間は「あみださま」と呼ばれる小部屋。「床(とこ)」と同様、框(かまち)の厚みがある。これは仏間(ぶつま)の一種だろうか。その上には神棚。

 

 

 

以上で古民家めぐりは終了。正門まで引き返してもよいし、ここからすぐ近くの民家園奥門にまわれば生田緑地・奥の池あたりに出られる。

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