まちへ、森へ。

伝統文化の継承、日本民家園

川崎市立日本民家園(その1)

 

生田緑地・枡形城址はこちら。

 

 

 

川崎市多摩区・生田(いくた)緑地の一施設、川崎市立日本民家園。生田緑地東口を入ってすぐの正門・本館にはチケット窓口と展示室がある。ウェブサイト掲載用の写真撮影は窓口で申し出るようになっており、そこで注意事項を確認しておく。

 

日本民家園は昭和42年(1967)の開園。

高度経済成長期の真っ只中にあった当時、古民家は県内を始め全国各地で急速に消滅しつつあった。ただ研究者による学術的な調査も広く行われており、ダム開発や建て替えにより解体の憂き目にあった建物を引き取り保存することは各地で行われていた。

 

ここ川崎市立日本民家園の開園のきっかけとなったのは市内麻生(あさお)区の古民家であった伊藤家住宅(現在は国指定重文)。建て替えで取り壊されることになったその建物は、研究者の尽力で三溪園(さんけいえん。横浜市中区)へ移築することが昭和38年(1963)に決まっていた。
これに対して川崎市側が市内で残せないかを検討。「三溪園への移築を上回るメリットを提示してほしい」という研究者との協同の結果、伝統的建築を市域の枠を越えて幅広く保存する野外博物館として日本民家園が開園した。

民家園の古民家は、現代的に改造された移築直前の姿を建てられた当時の古い姿に戻す「復原」がなされている。

 

参考「日本民家園だより(開園50周年特別号)」

 

 

 

民家園の案内図。  拡大版。

 

広い園内は23棟の文化財建築(うち7棟は国指定重文、1棟は国指定重要有形民俗文化財)が移築されており、じっくり見て回ると三時間はかかる。

 

 

 

床上に上がって見学できる建物の案内。床上見学は「炉端の会」(ボランティア団体)により運営されており、古民家の屋根裏を燻すために囲炉裏(いろり)に火を入れる。
どの建物に上がることが出来るかは訪問日ごとに変わる。

なお、本館展示室で目を引いたのは県内の古民家二棟「関家住宅」(横浜市都筑区)と「旧石井家住宅」(鎌倉市)の展示パネル。いずれも国指定重文。関家住宅は小田原北条氏配下の地侍であった関家の古民家。江戸時代の古民家としてはあまりに立派な書院造の書院がある。旧石井家住宅はこちらも小田原北条氏配下の地侍であった石井家の江戸期古民家であり、その形式はかなり古い。

 

 

 

訪問したときは、「旧三澤家住宅」耐震工事のための工事用フェンスがめぐらされていた。

 

 

 

最初の建物は「旧原家住宅」。この建物のみ近代和風建築(明治44・1911年上棟、大正二・1913年竣工)。
元は中原区小杉陣屋町に建っていた商家。

 

 

 

立派な唐破風(からはふ)。

 

 

 

唐破風の下の「式台」(しきだい。玄関の段差)。式台は身分の高い来客が用いた出入口。ここに駕籠を横付けした。

 

この建物には近代建築でありながら江戸時代以前の和風建築のような造りがみられる。日常の出入口である土間(どま)を玄関としたためか、ここの式台や唐破風は「玄関の間」(この建物では「広間」がそれを兼ねている)ではなく「中の間」に付けられている。

 

 

 

広間の外回り。外壁には宮大工が技巧を凝らした装飾が随所に見られる。

 

 

 

玄関。こちらは日常の出入口。ここから広間に上がる。

 

 

 

玄関のシャンデリア。

 

 

 

玄関から上がってすぐ、広間のシャンデリア。富裕層とはいえ、民家の天井が格式の高い格天井(ごうてんじょう。格子状の天井)になっているのは四民平等の世になった明治以降の和風建築ならでは。

 

 

 

透かし彫りの欄間(らんま)。

 

 

 

菱格子(ひしごうし)の欄間。

 

訪問時は「古民家カフェ」が開催されており、奥座敷などにはお客さんが入っていたので室内の撮影は遠慮。

 

 

 

日本民家園は五つのテーマごとに古民家が配置されている。

 

最初のテーマは「宿場」。「宿場」と書かれた杭は「傍示杭(ぼうじぐい。ここでは宿境を示す)」を模している。傍示杭の立つ宿境は棒鼻(ぼうばな)といった。宿場の建物は街道に面した間口(まぐち)が狭く、奥行きが深い。

 

1.旧鈴木家住宅。この建物は奥州街道・八丁目宿(福島市松川町)の旅籠(はたご)で1800年代初期の築。

 

この旅籠は馬宿(うまやど)といった。馬を連れた旅人である「馬喰(ばくろう。馬商人)」や「馬方(うまかた。運送業)」を泊めるため土間(どま)に馬をつなぐ「馬屋(まや)」がある。画面右側、土間から張り出した板囲いの空間が「馬屋」。

 

 

 

「上段(じょうだん。客間)」の出格子(でごうし)。

 

 

 

板の間は「店(みせ。帳場)」。

 

 

 

土間の「馬屋」から見る「茶の間(ちゃのま)」。土間の奥は「にわ」と呼ばれ、竈(かまど)がある。

 

 

 

囲炉裏の切られた「勝手(かって)」。

 

 

 

「次の間(つぎのま)」。「上段」の従たる部屋。奥が「上段(じょうだん。客間)」

 

 

 

出格子から覗く「上段」の「床(とこ)」。床脇(とこわき)には天袋(てんぶくろ。物入れ)が設けられている。床(とこ)との仕切には火灯窓(かとうまど)風の明かり取りが開けられており、上質感のある座敷。

 

 

 

2.旧井岡家住宅。元は柳生街道(やぎゅうかいどう。奈良市)の商家。1600年代末から1700年代初頭の築。

 

この町屋(まちや)は、屋根が瓦葺になっている。

 

 

 

板張の「みせ(帳場)」。

 

 

 

「座敷(ざしき)」。床脇(とこわき)のないシンプルな「床(とこ)」が設けられている。天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)が張られている。

 

決して派手さはないが寂び(さび)を感じさせる座敷。時代としてはかなり古いはずであるが、現代にも通じる洗練された座敷となっているのは文化的交流が盛んな近畿の街道筋の民家ならではだろうか。

 

 

 

古民家の土間は「にわ」と称する場合が多い。土足のままで様々な作業をする空間となっている。

 

 

 

3.旧佐地家門。元は名古屋城下(名古屋市東区白壁)の武家屋敷の門。1800年代初期の築。

なお名古屋城下は美濃路(みのじ。美濃街道)の宿場でもあった(名古屋宿・なごやじゅく。名古屋市中区)。
美濃路は東海道・宮宿(みやしゅく。熱田神宮の門前町、桑名宿までの海路を船で結ぶ湊町)と中山道・垂井宿(なかせんどう・たるいじゅく。岐阜県)を結んだ街道。宮宿から分岐して名古屋宿、清州宿(きよすじゅく)と続いていく。

 

 

 

武家屋敷の門らしい漆喰・瓦葺の重厚な外観。

 

 

 

門番の部屋。

 

 

 

 

 

 

 

4.旧三澤家住宅。元は伊那街道(いな かいどう)伊那部宿(いなべじゅく。長野県伊那市)の商家。1800年代中期の築。

 

伊那街道(三州街道)は中山道・塩尻宿(しおじりしゅく。長野県塩尻市)から東海道・岡崎宿(おかざきしゅく。愛知県岡崎市。三河、三州)を結ぶ街道。

 

この建物は平成29年(2017)6月現在、耐震工事中。正規の順路が閉鎖されて裏手に仮設通路が設けられており、建物の背後へと回る。

 

 

 

工事の流れ。

 

 

 

これはこれで珍しい。工事の様子を目にする機会はそう頻繁にあるものでもない。

 

 

 

 

 

 

 

旧三澤家住宅の屋根は石置きの板葺。

 

 

 

宿場の家並みを一望する。

 

 

 

続いては第二のテーマ「信越の村」。

 

 

 

双体道祖神(そうたい どうそじん)、庚申塔(こうしんとう)、馬頭観音(ばとうかんのん)。園路には様々な石造物が置かれている。

 

 

 

5.水車小屋。旧所在地は長野市。1800年代中ごろの築。
現地では水車小屋は「くるまや」と呼ばれていた。

 

 

 

内部。

 

 

 

信越の村で最初に見えてくる民家は「かぶと屋根」(寄棟・よせむねの片側を切り落とした半寄棟の屋根)の民家。

 

 

 

6.旧佐々木家住宅。旧所在地は長野県南佐久郡(みなみさくぐん)佐久穂町。享保16年(1731)築。

 

この建物が出色なのは、その構造もさることながら普請帳の記録から建築年代が明確であること。そうしたこともあってか国指定重文となっている。

 

 

 

かぶと屋根を持つこの古民家は横にかなり長い。

 

かぶと屋根は寄棟(よせむね)屋根の片端を切り落として屋根裏部屋に開口部を設けた養蚕農家の造り。こうすることで屋根裏の蚕部屋(かいこべや)の通風、採光を良くする。関東ではお馴染みのこの造りは甲信でも見られる。

 

 

 

「土間(どま)」から「お勝手(おかって)」、「茶の間(ちゃのま)」、「座敷(ざしき)」を見る。お勝手は茶の間より一段低い。また、この建物の土間には竈(かまど)がない。

 

 

 

立派な梁をのぞかせる、屋根裏。信州・佐久地方の冬は寒いとはいえ降雪は比較的少ない。それゆえ、これでも梁は豪雪地帯と比べれば細いそうだ。

 

 

 

「茶の間」。神棚と仏壇が設けられている。囲炉裏(いろり)は火を絶やすことがなく、煮炊きは全てここで行った。

 

 

 

「奥座敷(おくざしき)」。こちらは延享4年(1747)の増築であることが普請帳により明らかになっている。

 

奥座敷は大切な来客をもてなす空間。この部屋に相応しい客が訪れるようになったことで、増築されたものと考えられている。
幅一間(いっけん。約180cm)の床(とこ)を設け、床脇(とこわき)には天袋(てんぶくろ。上部の物入れ)が見える。さすがに書院(付書院・つけしょいん、あるいは平書院・ひらしょいん)は設けられていないが、江戸時代の名主の古民家としてはなかなか立派な床の間となっている。

 

 

 

風呂場。
この名主屋敷には武士階級の役人が泊まりがけで訪れていた。それはこうした来客用の風呂(家人は使わない)の備えから窺い知ることが出来る。

 

 

 

見学を終えた佐々木家住宅の前庭には、合掌造(がっしょうづくり)が建ち並ぶ光景が広がる。

 

 

 

建ち並ぶ、計四棟の合掌造。

 

 

 

 

 

 

 

7.旧江向家(えむかいけ)住宅。旧所在地は富山県南砺市上平(なんとし かみたいら)。建築年代は1700年代初期。

 

合掌造の里として有名な富山県五箇山(ごかやま)。旧江向家住宅はその中でも庄川(しょうがわ。河口は富山湾)の本流に沿った上平細島(かみたいら ほそじま)地区に建っていた。

 

切妻造(きりづまづくり)の屋根は正面入口側の妻壁(つまかべ)に大きな茅葺の庇(ひさし)が付き入母屋造(いりもやづくり)風になっている。屋根には通風・採光のための屋根窓が設けられている。
この建物は五箇山地区における18世紀の合掌造の標準的形式をよく示すものとして国指定重文となっている。

 

 

 

土間の「にわ」。囲炉裏の火を絶やさずに囲炉裏で全ての煮炊きをすることの多かった寒い地方の古民家にしては珍しく、土間に竈(かまど)がある。この家ではそのようにする必要性があったのだろうか。

 

土間の隣り、板の間は田の字型の四ツ間取りとなっている。

 

 

 

「にわ」から板の間の「でい」を見る。

 

 

 

座敷の「おまえ」。
右側に見えるのは「床(とこ)」の原型である「押板(おしいた)」のようだ。少しばかりの奥行きがあり、床(とこ)に近い形になっている。
左手には襖で仕切られた立派な仏間(ぶつま)が設けてある。「真宗王国」富山県は浄土真宗の信仰が盛んであった。

 

 

 

隣りの合掌造へ。

 

 

 

8.旧山田家住宅。旧所在地は富山県南砺市桂(なんとし かつら)。建築年代は1700年代初期。

 

上平地区から庄川沿いに上流へ遡り、支流の境川へ。富山県と岐阜県の県境となる境川の富山県側が桂地区となる。この建物は境川ダム(桂湖)の完成に伴い湖底に沈むところであったものが移築された。

 

旧山田家住宅は切妻造(きりづまづくり)。庄川本流のさらに上流となる白川郷(岐阜県)に見られる合掌造など、著名な合掌造といえばこの形が思い浮かぶ。

 

 

 

土間の「まや」。
この建物の間取りは田の字型の四ツ間取りに加えて、土間を狭くしてその奥にもう一部屋を設けている。

 

 

 

土間を狭くして設けた奥の部屋が板の間の「うすなわ」。樋で水が引かれた台所となる。

 

 

 

「おいえ」の天井。太い梁の上は屋根裏の床となる簀子(すのこ)。この下が囲炉裏。

 

 

 

座敷となる「おまえ」。この建物にも仏間が造られ、立派な仏壇が置かれている。それでも天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)は張られておらず、構造材の根太(ねだ。床板を支える材)をそのまま見せる「根太天井」。

 

 

 

「おまえ」の土間寄り、「でい」。奥の「おいえ」と並ぶ日常生活の空間。天井はこちらも簀子(すのこ)。

 

 

 

山田家住宅の外便所。これも小さいながら合掌造。

 

 

 

9.旧野原家住宅。旧所在地は富山県南砺市利賀村(なんとし とがむら)。建築年代は1700年代後期。

 

庄川本流を下流に下り砺波市(となみし)との市境近くから分岐する支流、利賀川。その奥深く、利賀谷(とがだん)に建っていた旧野原家住宅。この建物は昭和42年(1967)に開園した日本民家園の最初の三棟のうちの一つ。

 

こちらも旧江向家住宅のように切妻造の妻壁側に茅葺の庇を付けた入母屋造風になっている。

 

 

 

土間から見る広間の「おえ」。

 

こちらの間取りは「田の字型」ではなく、土間の隣りに二間(ふたま)が一体となった広間を設けた「広間型」の三ツ間取り。

 

 

 

「ざしき」の隣りは板戸で仕切られた「ぶつま」となっている。

 

客間の「ざしき」が「床(とこ)」あるいはその原型となる「押板(おしいた)」の設けられていない簡素な座敷であっても、仏間だけは立派に造られているのが五箇山の合掌造に共通した特徴のようだ。雪に埋もれる厳しい生活環境のなかで信仰心を大切にしてきたのだろう。

 

 

 

建物の前後に渡された梁(はり)。ぐっと曲がっている。先の合掌造でも見られたが、この建物の梁の曲がり具合は一層鋭い。

 

 

 

このように両端が曲がった梁を「ちょうな梁」という。これは大工道具の手斧(ちょうな)になぞらえた呼び名。このような梁は雪の重みに耐える合掌造ならではだろうか。ちょっと珍しい。

 

 

 

10.旧山下家住宅。旧所在地は岐阜県大野郡白川村長瀬。建築年代は1800年代前期。

 

この建物は合掌造の里としては最も有名な白川郷(しらかわごう)の建物。

白川郷は庄川の上流に位置する。富山県五箇山からさらに奥、富山・岐阜県境を過ぎて岐阜県(飛騨地方)に入ると世界遺産の白川村荻町(しらかわむら おぎまち)地区。この建物があった長瀬地区はそこからさらに上流へと遡る。
ちなみに白川村よりもさらに上流、御母衣(みぼろ)ダムで水没した荘川村(現高山市荘川町)に建っていた合掌造の「旧矢箆原家(やのはらけ)住宅」(国指定重文)が昭和35年(1960)に横浜本牧の三溪園に移築されている。そして荘川村から庄川をさらに上流に遡っていくと、その源流は烏帽子岳(1625m)から鷲ヶ岳(1672m)へと連なる稜線に突き当たる。

切妻造(きりづまづくり)の大きな妻壁。何層にもなった屋根裏の各階に付けられた窓。合掌造といえば、この姿が思い浮かぶ。庇(ひさし)は石置きの板葺(いたぶき)となっている。

 

 

 

土間に入ると、板の間が休憩所になっている。

 

 

 

合掌造の古民家らしからぬ傾斜の緩い階段がある。

 

旧山下家住宅は昭和33年(1958)に川崎駅前に観光料亭として移築されていたものを、民家園の開園後に再移築した。この階段は料亭時代のもの。民家園への移築にあたっては建築当初の姿に復原せずに料亭時代の改築を活かし、現在は1階が蕎麦処で2階が企画展示室(企画展示の開催期間のみ)となっている。

 

「信越の村」からトンネルを抜けると、そこは第三のテーマ「関東の村」であった。

 

 

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