まちへ、森へ。

箱根の近代土木遺産と建築・庭園めぐり

4.強羅公園・白雲洞茶苑

 

3.千条の滝、蓬莱園から岡田美術館庭園へはこちら。

 

 

小涌園バス停から路線バスの「観光施設めぐりバス」で移動、箱根登山電車・強羅(ごうら)駅。標高541m。アルプス以北のヨーロッパにおける伝統建築であるハーフティンバー(外壁に構造材を見せる様式)のデザインを取り入れた、丸太の山小屋風の駅舎。

 

時刻は13時ごろ。強羅周辺の紅葉シーズン真っ盛りのこの時期、登山電車やケーブルカーの乗車待ちの観光客で駅前はごった返している。

 

 

 

駅前から歩いて強羅公園へ向かう。

 

 

 

強羅公園入口までは坂を上って5分ほど。

 

 

 

ケーブルカー公園下(こうえん しも)駅への道を右に分け、左へ進むと公園正門。

 

 

 

強羅公園正門。

この公園は入園料550円(2016年現在)だが、「箱根フリーパス」「トコトコきっぷ(登山電車・ケーブルカーのみの一日乗車券)」を提示すれば無料。

 

 

 

紅葉の見ごろを迎えた園内。

 

 

 

案内図。

 

強羅公園の開園は大正3年(1914)。箱根火山の中央火口丘である早雲山(そううんざん。1244m)山すその斜面をひな段状に整えた、左右対称の洋式整形庭園。幾何学的なフランス式やイタリア式を基本に、自然景観を作出するイギリス式や日本庭園の要素が折衷的に取り入れられており、国の登録記念物(名勝地関係)となっている。

 

強羅という地名は登山が趣味の人にとっては、比較的馴染み深い。岩がゴロゴロした地形のことを「ゴーラ」とか「ゴーロ」とか表記する例は少なからず見られる。
県内でいえば西丹沢の雄峰・檜洞丸(ひのきぼらまる。1601m)への登山道(ツツジ新道)で「ゴーラ沢(ゴーラ沢出合)」なる地点を通過する。全国に目を向ければ北アルプスの黒部五郎岳(くろべごろうだけ。2840m)や野口五郎岳(のぐちごろうだけ。2924m)の「五郎」が人名に因むものではなく「ゴーロ」の当て字。
ここ箱根の強羅も明治前期までは岩のゴロゴロした、荒涼とした山であった。強羅の名の由来には諸説あるようだが自分としては「ゴーラ」説に与したい。

 

明治中期以降、強羅は富裕層の別荘地・温泉地としての開発が始まったころから脚光を浴びる。
大正8年(1919)には登山鉄道が強羅まで開通。さらにケーブルカーが斜面に敷設され、整然と区画された温泉付き別荘地が出現した。強羅公園はそこに集う人々の憩いの場とすべく大正3年(1914)に開園した。

 

 

 

白雲洞茶苑へ向かう園路。曲線に飛び石を配し、明治・大正期の和洋折衷庭園といった印象。

 

 

 

白雲洞茶苑(はくうんどう ちゃえん)入口の正門。

 

白雲洞茶苑の建築群は、実業家にして近代の大茶人である「鈍翁」益田孝(どんのう・ますだ たかし。1848〜1938)によって建てられた(対字斎を除く)。対字斎を含めた全ての茶席が国の登録有形文化財となっている。

 

益田孝は佐渡奉行配下の役人の家の生まれ。幕末期に函館や江戸、横浜で英語を学び遣欧使節団の一員として渡欧。明治維新後は横浜にて貿易を学び、大蔵省への入省を経て三井物産を設立する。

 

三井物産の初代社長であった益田は大正期、前述の強羅開発に尽力。その労に報いる意味で白雲洞一帯の土地が贈られた。
益田は近代数寄者(すきしゃ)として茶の湯に精通し、本邸である碧雲台(へきうんだい。東京品川御殿山)での「御殿山大茶湯(ごてんやま だいちゃのゆ)」「大師会」といった茶会の開催により「利休以来の大茶人」と称されていた。鈍翁の茶室は現在ではほとんど残っておらず、ここは貴重な遺構。

 

 

 

門をくぐると視線の先に、腰掛待合(こしかけまちあい)。

 

なお茶苑案内図(茶席配置図)は強羅公園公式サイト内に掲載あり。

 

 

 

茶席に招かれた客が待機する、腰掛待合。

 

 

 

 

 

 

 

露地(ろじ。茶室の庭)の飛び石を、大岩の間を縫う様に登っていく。強羅の元々の地形を活かしたこの起伏が、茶室の庭としては異色とされる。

 

 

 

桜の木が根を張る、大岩。

 

 

 

苔むす石灯籠に、蹲踞(つくばい。茶庭の手水鉢・ちょうずばち)。

 

 

 

大岩の脇を上がったところに建つ、寄付(よりつき。待合処となる茶室)。

 

 

 

この寄付は縁(ふち)のない畳に石炉の、四畳半の茶室。四畳半の隅が切られている。

 

 

 

紅葉が美しい。

 

 

 

白雲洞の扁額(へんがく)。

 

白雲洞(はくうんどう)は、大正5年(1916)頃に鈍翁によって建てられた。その建築には宮城野(みやぎの。早川の対岸、外輪山の山すそ)の農家の古材が利用された。

 

その後大正10年(1921)に横浜の実業家である「三溪」原富太郎(さんけい・はら とみたろう。1868〜1939)に無償で譲られた。
三溪は茶人として鈍翁の薫陶を強く受けた一人。実業家として、茶人として、彼らには深い親交があった。鈍翁は三溪に「(三溪の)芦の湯別荘は不便であるから」という理由で譲ったとされる。

 

さらに三溪亡き後、白雲洞は昭和15年(1940)に原家から実業家の「耳庵」松永安左ヱ門(じあん・まつなが やすざえもん。1875〜1971)に無償で贈られた。
耳庵もまた三溪と深い親交があった。こうして白雲洞は鈍翁・三溪・耳庵という「近代三茶人」の足跡を伝える貴重な遺構となった。

 

 

 

紅葉のピークを迎えた強羅公園・白雲洞茶苑。

 

 

 

 

 

 

 

白雲洞は、山深き素朴な田舎家の茶室。近代数寄者の「侘び」の趣味が伺える。

 

 

 

抹茶・茶菓子付きの見学受付。お薄(おうす)を頂戴して、茶室内部を見学する。

 

 

 

自在鉤(じざいかぎ)の吊るされた囲炉裏(いろり)が、この茶室の炉。

 

 

 

屋根裏。丸木の太い梁に、太い柱。

 

 

 

押し板(おしいた)が設えられた、壁床(かべどこ)。最も素朴な、床の間の原型。床柱(とこばしら)は三代目庵主の耳庵によるもので、千年を経た奈良当麻寺(たいまでら)の古材。

 

 

白雲洞から、渡り廊下をたどって寄付、白鹿湯、対字斎へ。

 

 

 

寄付(よりつき)の内部。畳の隅が切られている。

 

 

 

白鹿湯(はくろくとう)へ。

 

 

 

 

 

 

 

巨岩を掘り込む様に造られた湯殿(ゆどの)。白雲洞は鈍翁の別荘だったためか、温泉を引き入れた岩風呂が設けられている。

 

 

 

白鹿湯の板額。白鹿湯の名は、三溪により名付けられた。

 

 

 

対字斎(たいじさい)へ。

 

 

 

この建物のみ、二代目庵主の三溪により大正11年(1922)頃に増築されたもの。

 

 

 

床(とこ)。床框(とこがまち)の厚みのない、押し板のような踏込床(ふみこみどこ)になっている。そして通常は床脇(とこわき)に設けられる地袋(じぶくろ。物入れ)が設えてある。数寄者の草庵らしい、自由な発想。

 

 

 

立水屋(たちみずや)。

 

 

 

窓の外には紅葉。

 

 

 

 

 

 

 

そして、箱根の大文字山(だいもんじやま。箱根外輪山の一つ、明星ヶ岳。標高924m)。山肌に「大」の文字を望む。

 

箱根の大文字焼きは強羅が別荘地となった大正10年(1921)より始まった。避暑客の風物詩として、また地元宮城野の人々の旧盆の送り火として、毎年8月16日に大文字焼きが行われる。
対字斎の名はこの大文字に対することにちなむ、とされる。

 

翁御三方が亭主として、客として、送り火を前に茶を点て、服していた姿を瞼の裏に重ねつつ。季節外れの一句。
「函嶺(かんれい)の宵を染め上げ大文字」

 

 

 

対字斎の扁額。鈍翁の揮毫(きごう)による。

 

 

 

対字斎より白鹿湯。

 

 

 

白雲洞へ戻る。

 

 

 

日差しも穏やかな、晩秋の午後。

 

「お薄を頂いているうちに、今度は夜です。もう一杯どうですか?いやいや、二杯が三杯、四杯、またこちらに泊まるようなことになります」なんて、こんなところでやってみたいかな。寅さんのように。
男はつらいよ 第32作 口笛を吹く寅次郎」(YouTube松竹チャンネル)

 

 

 

不染庵(ふせんあん)へ。こちらは渡り廊下ではつながっていない。不染庵は茅葺が新しく葺き替えられたばかり。

 

農家の古民家を再構成して移築した白雲洞に対し、不染庵は、多くの数寄者の茶室を手掛けた「魯堂」仰木敬一郎(ろどう・おおぎ けいいちろう)が設計・施工にあたった。

 

 

 

不染庵の扁額。

 

 

 

四畳半の寄付(よりつき)。

 

 

 

寄付の水屋(みずや)が奥に見える。

 

 

 

隣りは二畳台目(にじょう だいめ)の茶室。

 

 

 

踏込床(ふみこみどこ)のとなり、台目畳(だいめだたみ。四分の三畳ほどの大きさ)に通じる開口部は茶道口(さどうぐち。亭主の出入口)。

 

白雲洞と比べると整った印象の茶室だが、にじり口(客の出入口)は設けられていない。

 

 

 

低くて深い庇(ひさし)は、茶席に陰影を創出する。

 

 

 

不染庵の蹲踞(つくばい)。

 

 

 

 

 

 

 

露地を下りていく。

 

 

 

山茶花(さざんか)。

 

 

 

右手奥の、茶花園へ。今度は外から白鹿湯、対字斎を見る。

 

 

 

巨岩に囲われた、白鹿湯。

 

 

 

傾斜地に建つ対字斎は、外から見ると掛造り(かけづくり。舞台造り)となっている。ただ、通常見られる(清水寺の舞台のような)掛造りとは異なって、茶室の床板を支える柱や貫の骨組みは檜皮(ひわだ)の板壁で囲われている。

 

 

 

 

 

 

 

茶花園。

 

 

 

 

 

 

 

露地門。

 

白雲洞茶苑を後にし、強羅公園を抜けて箱根美術館庭園へ。

 

 

 

強羅公園のシンボル、噴水とヒマラヤ杉。

 

 

 

大文字山(明星ヶ岳)を借景とした、強羅公園。借景を取り入れるのは日本庭園の発想。

 

 

 

ヒマラヤ杉。大正3年(1914)の開園にあわせて植樹された。

 

 

 

 

 

 

 

昭和初期の強羅公園。

 

 

 

ローズガーデンのバラは、秋バラの名残りのバラ。プリンセスアイコ。

 

 

 

クイーンエリザベス。

 

 

 

公園上(こうえん かみ)側の門(西門)から、箱根美術館へ。

 

 

5.箱根美術館庭園「神仙郷」

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