まちへ、森へ。

小田原城、戦国から泰平の世へ

3.近世の小田原藩10万石の居城

 

2.小田原城総構(平地側)と八幡山古郭はこちら。

 

ここでは近世の小田原城(現在の小田原城址公園)を中心に、中世の小田原城の遺構にも思いを巡らせながら歩く。

 

 

小田原城址公園。かつての三の丸あたり。

 

 

 

案内板にみる、空からの小田原城。

 

 

 

水掘は、二の丸を囲む堀。

 

 

 

三の丸小学校。かつての城内小学校、本町小学校が統合して新たに設けられた。

 

城に隣接する校地だけに景観に配慮された白壁黒瓦の、公立小学校とは思えぬ造り。さながら現代風三の丸御殿だ。
この地は江戸時代末期まで、藩校の「集成館」があったところとなる。

 

 

 

堀に沿って近世小田原城の登城路(大手筋)へ向かう。奥に見える石橋が登城路。

 

 

 

馬出門(うまだしもん)。左奥には銅門(あかがねもん)、そして天守閣が見える。

 

 

 

案内板。

 

近世の小田原城は、北条氏の滅亡後に家康の三河譜代の家臣・大久保忠世(おおくぼただよ)が所領四万石を与えられて入城。北条の家臣や農民の生活安定に尽力した。
忠世が文禄三年(1594)に没すると、家督を継いだ忠隣(ただちか)が六万五千石を拝領。酒匂川(さかわがわ)の治水、足柄平野の新田開拓、土肥(とひ)金山開発を行う。忠隣は幕政初期の老中として幕政に重きをなしたが、のちに本多正信と対立。金山奉行の不正に連座したとされて改易され、二の丸、三の丸の城門や石垣、櫓は破却された。

 

その後しばらく小田原は代官領の時代、阿部氏の時代などを経て、寛永九年(1632)に老中稲葉正勝(いなばまさかつ。家光の乳母・春日局の実子)が八万五千石で入封する。これは家光が将軍専制色を強めていく過程で主要城に幕閣大名を配置する一環としてなされた措置であった。
稲葉氏三代にわたる統治の時代、小田原城の再建や大地震に見舞われた城下町の復興、箱根関所や東海道の整備などがなされていく。とりわけ二代目の正則(まさのり)の治世は49年の長きにわたる。延宝元年(1673)からは三重四層の天守閣の修築、二の丸や三の丸のさらなる整備がすすめられ、近世小田原城の縄張(なわばり。城の設計プラン)はこの頃完成した。正則の晩年には石高は11万石まで加増される。

 

稲葉氏三代を経たのち、貞享三年(1686)に老中大久保忠朝(おおくぼただとも)が十万三千石で入封。ほぼ70年ぶりの大久保氏の小田原復帰となった。以降、明治維新(1868)まで大久保氏の支配が続く。1700年代には大地震や富士山の噴火(宝永噴火)による降灰などにより領内は荒廃。藩の財政は決して楽ではなかった。
文政五年(1822)、領主忠真(ただざね)は農村復興のため大久保氏の支族が支配する下野国の領内に二宮金次郎(尊徳)を起用、復興が成し遂げられた。天保年間(1830〜1844)には小田原領内の藩政改革に尊徳が起用された。

 

明治維新に至り、明治三年(1870)小田原城は廃城。城は売却され天守閣や櫓が破却された。その後御用邸の時代などを経て、昭和初期には城址や外郭が国指定史跡となった。
戦後の昭和35年(1960)になって、近世小田原城の復興天守閣(鉄筋コンクリート製)が完成。以降、発掘調査とともに櫓や門が順次復元されて現在に至っている。

 

参考・国別藩と城下町の事典 二木謙一監修 工藤寛正編 東京堂出版

 

 

 

二の丸東掘の解説板。

 

 

 

馬出門土橋(うまだしもんどばし。現めがね橋)。

 

 

 

二の丸隅櫓(すみやぐら)。関東大震災(大正12・1923)からの復興事業として、昭和10年(1935)に造られた。

 

 

 

馬出門。平成21年(2009)に復原されたばかり。門の形式は冠木門(かぶきもん)。冠木門というと一般的には屋根を架けない形式のものを指すが、この門は切妻(きりづま)の屋根を架ける。

 

 

 

馬出門は石垣・土塁・土塀で四角く囲われた桝形(ますがた)の形式となっている。

 

 

 

門の内部からは馬屋曲輪(うまやくるわ)となる。

 

 

 

馬屋曲輪の中を仕切る門(内冠木門)。

 

 

 

内冠木門の内側。控柱に小屋根を架けた高麗門(こうらいもん)の形式になっている。

 

 

 

広々とした、馬屋曲輪。

 

 

 

案内板にみる、江戸時代末の小田原城絵図。

 

 

 

馬屋曲輪から、住吉堀を隔てて見る二の丸・桝形の銅門(あかがねもん)。

 

 

 

かつての銅門。幕末から明治初期にかけて数多く撮られた、当時の貴重な写真が残っている。

 

 

 

馬屋曲輪の解説板。 拡大版 

 

 

 

発掘調査時の馬屋跡。

 

 

 

広々とした馬屋曲輪。立ち並ぶ松のうち、いちばん左の、四つ目垣で囲われた樹が古木の松。

 

 

 

古木の松。

 

 

 

数百年を生き抜いてきた、堂々たる老松。

 

 

 

住吉堀に架かる住吉橋を渡ると二の丸。二の丸の角地は桝形(ますがた)で四角く閉ざされた空間。

 

 

 

住吉堀の発掘調査では、戦国時代の小田原城の遺構となる障子堀(しょうじぼり)の跡が発見された。

 

なお、北条氏の築城技術の粋は箱根の西、三島の山中城に見ることができる。

 

 

 

桝形の内仕切門(うちじきりもん)をくぐる。

 

 

 

 

 

 

 

石垣の上に昇る石段(雁木・がんぎ)が付いている。

 

 

 

内側からの内仕切門。

 

 

 

櫓門(やぐらもん)形式の、銅門(あかがねもん)。平成9年(1997)に復原された。

 

 

 

銅門の名は扉の飾り金具の銅板に由来する、とされる。

 

 

 

 

 

 

 

銅門は普段、櫓(やぐら)の内部に入ることができない。が、天守閣の耐震改修期間中(平成27・2015年7月〜平成28・2016年4月)に限って、特別に土日祝日に公開されていた。

 

なお、天守閣改修完了後も週末の限定公開は継続されている。詳しくは小田原城公式サイトを参照されたい。

 

 

 

銅門の内部へ。

 

 

 

内部は白壁土塀・ヒノキ造り。極太の梁はマツ。

 

 

 

櫓の内部から縦格子(たてごうし)越しに、石垣・土塀で四角く閉ざされた空間が見える。この形状が「桝形」の名の由来。

 

 

 

石落とし。特別公開期間中ならではの眺め。

 

 

 

二の丸には、かつて藩主の居館となる二の丸御殿があった。

 

 

 

二の丸御殿跡の案内板。 拡大版 

 

御殿といえば京・二条城の二の丸御殿が全国的に有名であるが、平成20年(2008)に熊本城で本丸御殿が復元されたのは記憶に新しい。また名古屋城でも本丸御殿の復元計画が平成30年(2018)の全体公開を目指して着々と進行している。

 

小田原城では大手門から本丸への登城路となる大手筋が着々と復元され、本丸に隣接する御用米曲輪(ごようまいくるわ)の発掘調査も進んでいる。二の丸・本丸の調査・整備はまだまだ先であろうが、御殿が復元される日もいつか来るかもしれない。

 

 

 

かつての銅門の礎石と伝わる石。

 

 

 

銅門の再建にあたり事前に制作された模型。土壁の収縮具合を確認するためにつくられた。

 

 

 

樹皮の深い皺・傷がその生き抜いてきた歳月を物語る、ビャクシン。

 

 

 

綱を締め上げたような幹が堂々たる風格を醸す、イヌマキ。

 

 

 

戦国時代末期、小田原合戦の攻防図。 

 

 

 

令和元年(2019)11月、小田原城を再訪する。

 

再訪時の二の丸広場。二の丸の隣りには御用米曲輪が広がる。

 

 

 

調査終了後、整備を待つ御用米曲輪。

 

 

 

本丸に登り、御用米曲輪を見下ろす。

 

 

 

発掘調査時の航空写真。

 

こうした写真パネルが本丸から城址公園北入口への通路に沿って掲示されている。

 

 

 

本丸から北入口への通路の途中、北西土塁あたりに掲示されている御用米曲輪の解説パネル。

 

 

 

絵図の左側が現在の北入口にあたる。

 

 

 

右手の土塁の上に本丸、左奥には二の丸。

 

 

 

江戸時代には幕府の蔵が建っていた、御用米曲輪。

 

 

 

出土した三ツ葉葵の軒丸瓦。

 

通常は巴瓦が用いられる位置に「葵の御紋」が刻まれた丸瓦が用いられた。

 

 

 

16世紀の戦国時代、この曲輪には小田原北条氏の居館が建っていた。

 

 

 

発掘調査では江戸時代の絵図にはない構造物も発見された。

 

 

 

小田原北条氏の時代における庭園の池の遺構。石積みの護岸が施されている。

 

 

 

発掘された庭園跡からは切石の石敷きも発見された。

 

小田原北条氏が関東を支配した戦国時代、関東にはこうした独自の庭園文化が華やかに花開いていた。そう遠くない将来、これらの庭園も復元・公開されることであろう。

 

 

 

大量に出土した「かわらけ」。

 

 

再び、二の丸から本丸への登城路へ。

 

 

 

下から見上げる常盤木門の傍らには、堂々たる巨松がそびえる。

 

 

 

二の丸から常盤木橋(ときわぎばし)を渡り、本丸へ向かう。

 

 

 

本丸東堀。江戸時代の絵図では水堀となっていた。発掘調査を経て、現在は菖蒲田として整備されている。土手には紫陽花が植栽された。

 

 

 

常盤木門(ときわぎもん)。こちらは昭和46年(1971)の再築。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸に到着。

 

 

 

案内板。

 

本丸御殿は徳川将軍上洛の際の宿泊所として建設された。ただ将軍上洛は三代家光以降途絶えたため、本丸御殿は元禄16年(1703)に焼失して以来、再建されていない。

 

 

 

本丸広場では甲冑隊・姫と記念撮影ができる。

 

 

 

天守閣。平成27年(2015)現在、耐震改修工事が行われている。その時には天守閣に登ることはできなかったが、その代わりに銅門の内部を見るという機会を得ることができた。

 

 

 

改修工事の完了した天守閣を再訪。

 

昭和35年(1960)復興の天守閣は、鉄筋コンクリート造の三重四階天守(現在の内部は五階)。五重六階の天守と比べると小さく見られがちであるが、三重四階の天守としては群を抜く規模をもち、五重六階の天守にも決してひけを取らない威容を誇る。

 

改修にあたり最上階には摩利支天像の安置空間が再現された。また展示スペースが縮小した関係で、甲冑や刀剣は天守閣に加えて常盤木門二階でも展示されるようになった。
なお、甲冑は歴史見聞館にも展示されている。そちらにはタモさん着用の兜もあり、ブラタモリファンは必見。

 

 

 

天守閣から眺める、八幡山古郭(はちまんやま こかく)。

 

 

 

秀吉が陣を置いた、石垣山一夜城跡。

 

 

 

相模湾に真鶴(まなづる)半島。

 

 

 

小田原駅。奥には相州の霊峰・大山(おおやま)。

 

 

 

本丸広場から報徳二宮神社へ。

 

 

 

城址口鳥居をくぐる。

 

 

 

本丸南堀(空堀)と土塁の跡。ここは中世(戦国時代)に北条氏により築かれた城郭の遺構となろう。

 

 

 

回廊をくぐり、社殿前へ。

 

 

 

報徳二宮神社の拝殿。

 

報徳二宮神社は、薪を背負って勉学に励む姿で全国に知られる「農聖」二宮尊徳(金次郎)を祭神とし、明治27年(1894)創建。

 

発起人となった福住正兄(ふくずみまさえ)は若き日に尊徳の弟子となる。尊徳の元で学んだのちに箱根でも指折りの旧家である福住家の養子となり家業を発展させた。

湯本の老舗旅館「萬翠楼福住(ばんすいろうふくずみ)」は正兄の代に現在の建物が建てられている。なお国の登録有形文化財となっている旅館は全国に数あれど、国の重要文化財に指定されているのは稼働中の宿泊できる旅館建築としては萬翠楼福住が唯一となる(温泉建築の重文としては平成27年現在、入浴施設として道後温泉本館と上諏訪温泉片倉館、資料館として武雄温泉新館がある)。

 

 

 

南堀の、大賀ハス(古代ハス)。傍らには藤棚。

 

 

 

明治初期の南曲輪(みなみくるわ)二重櫓の記録写真。 

 

 

 

藤棚交差点から旧東海道へ。

 

 

4.旧東海道小田原宿と、小田原城総構(平地側)へ

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