まちへ、森へ。

小田原城、戦国から泰平の世へ

2.小田原城総構(平地側)と八幡山古郭

 

1.戦国北条氏の小田原城総構(山側)はこちら。

 

 

御鐘ノ台(おかねのだい)の奥。標高およそ122m。眼下には総構(そうがまえ)空堀の西端が連綿と続く。奥には相模湾。

 

来た道を戻り、早川口遺構へと向かう。

 

 

 

邸宅街を下りていく。

 

 

 

鉄砲矢場と呼ばれるあたりの墓地。空堀と土塁の様子が見られるというが、ちょっとよく分からない。墓地のあたりが空堀だったということだろうか。

 

 

 

東海道線・箱根登山鉄道のガード下をくぐる。

 

 

 

トンネルの向こうは小田原城、小田原駅。

 

 

 

早川口の信号。右手のガード下をくぐると旧東海道・板橋見附から箱根湯本方面。ここからは線路沿いの国道135号を真鶴・湯河原方面へと歩き、早川口遺構へ。

 

 

 

遺構への案内柱が出ている。

 

 

 

奥へ入っていったところに立つ、案内板。

 

 

 

早川口(はやかわぐち)遺構。一帯は公園となっている。二重戸張(ふたえとばり。二重の堀と土塁)と呼ばれる特殊な構造の遺構とされる。

 

 

 

現在は窪地となっているかつての空堀の縁に土塁が見られる。

 

 

 

消防署まで戻った。公共の建物も白壁切妻屋根の和風建築。城のような縦格子の窓が見える。

 

 

 

山角天神社(やまかく てんじんしゃ)の、三の丸土塁の名残りの地形となるあたりで、急坂を登り清閑亭へ。

 

 

 

坂を上りきったこのあたりは天神山と称され、三の丸の一角であった。

 

平成27年(2015)現在、この地は(仮)国際医療福祉大学小田原城内新棟の建設工事が進んでいる。元は県立小田原城内高校(現在は県立小田原高校に統合)の校地。小田原城内高校は旧制小田原高等女学校の流れを汲む伝統校であった。

 

 

 

清閑亭(せいかんてい)。かつて三の丸土塁であったところに建てられた。

 

 

 

案内板。 拡大版

 

明治中期以降、戦国時代の残り香と風光明媚な海山に恵まれた小田原の地には、政財界人・文人の数多くの邸宅・庭園が造られた。

 

 

 

清閑亭は、元は黒田長成(くろだ ながしげ)侯爵邸。
黒田家は黒田如水(じょすい。官兵衛)が軍師として秀吉に仕え、この小田原の地で秀吉の天下統一の総仕上げにひとかたならぬ役割を果たした。徳川の世には如水の子である長政(ながまさ)が筑前・福岡藩主となった。その末裔である長成が明治の世に、巡りあわせにより小田原の地に別邸を構えることとなった。

 

清閑亭の内部見学はこちらのページへ

 

 

 

清閑亭を後に、八幡山古郭へ。

 

 

 

東海道線を見下ろしつつ、先へと進む。

 

 

 

線路の向こうに、天守閣。

 

 

 

八幡山古郭(はちまんやまこかく)。
北条氏の戦国時代は、このあたりが小田原城の中心となる城郭であったとする見解もある。地形的に見ても、八幡山古郭本曲輪(ほんくるわ)とその周辺は現在の本丸よりも標高が高い。

 

 

 

案内板。
八幡山古郭と総構について概説が載っている。

 

 

 

 

 

 

 

高みへと登っていく。

 

 

 

八幡山古郭・東曲輪(ひがしくるわ)。戦国時代の息吹を感じさせる史跡公園として平成22年(2010)に整備・開放された。

 

 

 

案内板。
発掘調査の結果、戦国時代の遺構から縄文・古墳時代の遺跡も発見された。

 

 

戦国時代の諸将を平安末期から鎌倉初期の武士になぞらえるとしたら、信長は義経・頼朝か。時代を超越したその戦法そして冷徹なまでの合理主義に、両者を併せ持った資質を感じる。
一方で秀吉は執権北条・平家だろうか。同輩中の首席として主君家中のライバルを次々と蹴落とし、朝廷の権威を利用しつつ最高権力者として振る舞ってゆく。

 

そして北条はといえば、奥州藤原氏。時代を大きく動かしうるほどの理想の大国を築き上げるも同時代の巨大勢力の軍門に下ることなく、己の信ずる処を貫き通してついには滅びゆく。もしも滅びの美学というものがあるとするならば、奥州藤原氏と小田原北条氏は双璧ではなかろうか。

 

 

もしも北条が秀吉に恭順していたら、その後の歴史はどうなっていたのだろう。仮に北条が相模と伊豆に領国を縮小されていたとして、家康は果たして武蔵以北に国替えさせられたであろうか。家康は江戸の可能性を探るまでもなく肥沃な濃尾平野に育まれた尾張に幕府を開いて、ひょっとすると今ごろは名古屋が日本の首都になっていたかもしれない。

 

 

 

小田原北条氏が用いた虎の印判「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」。二代氏綱から五代氏直まで用いられた。
画像出典 小田原城・常盤木門SAMURAI館パンフレット。

 

ここには領民が平和に暮らせるように、禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように、という願いが込められている。

 

関八州に覇を唱えた小田原北条氏は築城技術などの軍事面においてその手腕が評価されている。一方で、二代氏綱、三代氏康の頃に整っていった領国経営の仕組みは、時代の先頭を行くものであった。
まず他大名に先駆けて領国の検地を実施したことは、基本台帳である「小田原衆所領役帳」という形になってその成果が実を結んだ。土地を掌握することは税制改革にも功を奏し、雑多な税を整理統合することで結果的に領民の負担軽減につながっていった(俗に「四公六民」といわれる、領民にやさしい税制)。
また領国の一元支配を強化する制度として本城・支城に目安箱を設置し村民による大名への直訴を認め、重臣による評定衆で訴訟を裁く仕組みを制度化した。さらには関東一円の街道を整備し通信・物流手段として伝馬制度を設けた。そして最古の上水道ともいわれる小田原早川上水を築いた。
このように北条の領国経営センスは抜群であり、まさに戦国大名の中の戦国大名であった。その全てが後々の時代のモデルになったといっても、決して言い過ぎではない。

 

北条にとっては初期の今川、そして武田、上杉(長尾)と、隣接する勢力が強大すぎた。早雲以降傑出したカリスマを擁するでもなく、強力な一門衆とともに宗家数代にわたって信玄、謙信といった隣国のカリスマたちと渡り合ってきたところが北条氏の真骨頂といえる。
(なお小田原城配下の有力な支城として、玉縄城(相模東部)、津久井城(相模北部)、小机城(武蔵南東部)、八王子城(武蔵西部)などが時代を追って関東一円に広がっていった。)

 

更に歴史上のイフとして、もしも上杉謙信の養子となった北条三郎(景虎)が家督を巡る御館の乱(おたてのらん)で滅ぼされることなく上杉家の実権を掌握していたらどうであったか(むろん、それができていれば再度の同盟関係にあった武田勝頼の評価・その後も全く変わっていただろうが)。上杉・北条の連合がもしも強固になっていたとしたら。

 

史実として北条第四代氏政はいともたやすく勝頼を滅亡させた信長を脅威に感じ、信長に恭順の意を示し嫡男氏直と織田の姫とで姻戚関係を結ぼうとしていた。秀吉との小田原合戦における氏政の姿勢に対する評価は暗愚で先見の明がなかったとされがちであるが、氏政は決してそのような将では無かった。しかし信長は天正10年(1582)、本能寺に倒れる。
上杉・北条・徳川の草刈り場となった織田領信濃で北条は徳川と一戦を交えたのち同盟を結んだ。氏直に姫を嫁がせ姻戚となった家康は、小田原合戦に至るまでぎりぎりのところで北条と豊臣の間を取り持つべく奔走していた。機を見るに敏な家康のこと、五代目氏直のことは高く買っていたのかもしれない。

 

もしも徳川が豊臣の行く末を見限って上杉・北条連合に完全に軸足を置き大連合となっていたらどうか。伊達はどう出るのか。秀吉に征服されあるいは恭順の意を示した西国の島津、長宗我部、毛利。これらの大名間のパワーバランスはどうなるのか。もう近世史は全く別物になってしまい、想像は如何様にも膨らんでいく。

 

 

 

八幡山古郭は現在、その多くが市街化されている。そうしたなか、かつての西曲輪・藤原平であった辺りに江戸時代における小田原藩の藩校「集成館」以来の伝統を受け継ぐ県立小田原高校(旧制神奈川二中)の校地がある(大正3・1914年、同校発祥の地である現在の小田原駅東口付近より現在地に移転)。

 

 

 

古郭をあとに、小田原城址公園へ。

 

 

 

小田原城址公園、三の丸あたり。

 

現在の小田原城址公園は近世(江戸時代)における小田原城の城郭が整備されているが、城内には中世(戦国時代)に北条氏によって築かれた土塁・空堀(土の城)の遺構も見られる。

 

 

3.近世の小田原藩10万石の居城へ

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