まちへ、森へ。

小田原城、戦国から泰平の世へ

平成27年(2015)の10月最初の週末。戦国北条氏の本拠・小田原城に残る総構(そうがまえ)の遺構を訪ね歩く。併せて近世の小田原城城郭と、東海道小田原宿をはじめとした城下町をめぐり歩く。

 

1.戦国北条氏の小田原城総構(山側)

 

 

朝八時前、小田原駅を出発。
小田原駅のシンボル、巨大な小田原提灯(おだわらちょうちん)。中央が膨らんだ通常の提灯と比べると、旅の道中で使う小田原提灯は畳んだときの携帯性に優れた形。

 

 

 

駅西口の、北条早雲(ほうじょう そううん)像。

 

北条早雲(伊勢宗瑞・いせそうずい。伊勢新九郎盛時)は備中(びっちゅう。現岡山県)の伊勢氏を出自とする。かつては伊勢新九郎長氏と呼ばれ素浪人からの下剋上の象徴とされたが、現在では研究が進み旧来の定説は覆されている。

 

京で足利将軍家に申次衆(もうしつぎしゅう)、奉公衆(ほうこうしゅう)として仕えたこともある宗瑞は後に駿河に下り、初め今川氏の勢力下にあった。
やがて堀越公方(ほりごえくぼう)足利氏の拠点である伊豆を平定。堀越公方とは鎌倉から古河へ逃亡した鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府の長官)にとって代わるべく足利将軍家が新たに送り込んできた長官。
続いて明応五年(1496)頃までには相模国西部の国衆(国人。在地の支配者)大森氏の拠点である小田原城を攻略。さらには相模全域を手中にすべく玉縄(たまなわ。鎌倉市)に支城を築き、戦国大名として頭角を現していく。

 

当時の南関東は、関東管領の山内(やまのうち)上杉氏が古河へ追いやられた古河公方(元の鎌倉公方)足利氏に代わって勢力を張っていた。また相模国についていえば守護職を扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が務め、両上杉氏の覇権争いが激しさを増していた。

 

初代宗瑞の頃までは北条氏の本城は伊豆韮山城(にらやまじょう)であり小田原城は支城であった。

第二代氏綱(うじつな)の代になると小田原へ本城を正式に移転。また氏綱の代には、室町時代の関東No.2(実質的にはNo.1)であった関東管領の山内上杉氏、あるいは相模国守護であった扇谷上杉氏との対立がよりいっそう激化する。
氏綱は関東における覇権の正当性を示すため、それまでの伊勢氏から鎌倉時代のNo.2であった「相模太守」北条を名乗るようになる。関八州の武士団にとって伊勢氏はいわばよそ者であったため、彼らを従えるための名分はどうしても必要であった。なお鎌倉幕府の執権北条氏も元は伊豆の小豪族であった。
さらに、氏綱の生涯における一大事業として忘れてはならないのは、東国における武門の聖域・鎌倉鶴岡八幡宮の大造営である。八幡宮の外護者となることは、氏綱の関東における立場の正当性をより一層強固なものとすることを意味した。

 

 

氏綱は相模を足掛かりとして武蔵へと進出。小机城(こづくえじょう。横浜市港北区)、江戸城、河越城(かわごえじょう。埼玉県川越市)と領国を拡大し、旧勢力の山内・扇谷両上杉氏の拠点を攻略していく。

 

参考・「戦国北条氏五代」黒田基樹著。戎光祥出版。

 

 

 

県道をゆく。正面には丹沢山塊の眺めが良い。丹羽病院前あたりで左折。

 

 

 

急坂に入り、登っていく。

 

 

 

宅地の最初の角を右に入ったところに、総構(そうがまえ)の、城下張出(しろした はりだし)。
遠くを監視することのできるこの地に、総構の土塁から張り出した形の平場(ひらば)が築かれた。

 

 

 

戻った道を先へと向かう途中、やや西寄りの農地から眺める丹沢山塊。 パノラマ拡大版 

 

城下張出の平場からの眺めと同様、見事な眺め。大雪に見舞われた後の丹沢は、アルプスばりの絶景となりそうだ。

 

 

 

閑静な住宅地をゆるく下り、右へ折り返すように登っていく。

 

 

 

八幡山古郭(はちまんやまこかく)の向こうにそびえる天守閣の眺めが良い。その先には相模湾が広がる。

 

 

 

谷津丘陵(やつきゅうりょう)の尾根道をたどっていくと、二又の道。
右手を下った辺りは丘陵の地形を活かした空堀が続いている。左側の土手は空堀の法面(のりめん)にあたる。

 

左手に進んでいったこの先は、全長9qにも及んだとされる総構のなかでも土塁と空堀が最もよく残っている。

 

 

 

案内板。

 

 

 

山ノ神堀切(やまのかみ ほりきり)。谷津丘陵を東西に分断し独立させた。

 

 

 

みかん畑をゆく。

 

 

 

稲荷森への標柱が立っている。

 

 

 

稲荷森(いなりもり)。ここには谷津丘陵に沿って構築された空堀が残る。

 

 

 

深い空堀は、いまは竹林の中。まさに「兵どもが夢の跡」といった風情。

 

 

 

農道へ戻り、先へと進む。

 

 

 

お茶の花。

 

 

 

再び分岐。正面を奥へと延びる道は画面左手奥の空堀(東堀)と並行している。道の左手の土手は、かつての土塁の跡。この道路も元は空堀(中堀)であった。

 

 

 

左折して先へ少し行くと、現在も残る空堀(東堀)の中を先へと歩いていくことができる。

 

 

 

案内板。

 

箱根外輪山から延びてきた丘陵は、このあたりで谷津丘陵、八幡山丘陵(はちまんやまきゅうりょう)、天神山丘陵(てんじんやまきゅうりょう)へと分岐していく。ここはその分岐点。
丘陵の尾根伝いに進軍してくる敵勢を迎え撃つために、尾根を分断する深い空堀が三重にもわたって築かれた。発掘調査時には、堀の中を自在に動くことを妨げる堀障子を設けた「障子堀(しょうじぼり)」の痕跡やクランク状の「横矢折れ」が確認されている。

 

 

 

車除けの柵の向こうに延びる、「小峯(こみね)御鐘ノ台(おかねのだい)大堀切(おおほりきり)東堀」。

 

 

 

深い空堀。

 

 

 

法面が急傾斜で、高い。

 

 

 

ゆっくりと写真を撮っていると、たかって来る蚊がすごい。森歩きのように虫よけを用意しておいて正解だった。

 

 

 

車道に出るところで空堀は終わる。

 

 

 

車道の傍ら、眼下に広がる相模湾。奥に真鶴半島が伸びている。斜張橋はブルーウェイブリッジ。

 

 

 

案内板。

 

 

 

空から見る小田原城総構(文字加工はサイト管理者)。 拡大版

 

現在もっともよくかたちを残す大堀切東堀は、総構の構築以前からの三の丸外郭に相当する。この先、八幡山丘陵は八幡山古郭・本丸へ、天神山丘陵は三の丸へと続いていく。

長大な総構城郭が構築される以前、第三代氏康(うじやす)の永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)の大軍がついに越後国から関東へ越山(えつざん)。
北関東(上野・こうずけ、武蔵北部)を次々に攻略し一気に南下、最終的に総勢10万にも膨れ上がった謙信の大軍は永禄4年(1561)にはついに小田原城を囲む。しかし小田原城は、謙信の大軍による小田原攻めにも耐え抜いた。謙信にしても拡大した戦線に将兵は疲弊、武田との抗争もありそれ以上戦を長引かせることはできなかった。
謙信が帰国したのち北条は上野へ反撃、領国を奪還することに成功した。

 

このころには旧勢力であった古河公方足利氏はすっかり衰え、北条の力なくして存続も危うかった。第二代氏綱の代には北条氏は古河公方により関東管領職に任ぜられる(もっとも古河公方にはそのような正式な権限はなかった)。
一方、室町時代前期には関東に覇を唱えた関東管領山内上杉氏も氏康の頃には没落の一途をたどり、越後の長尾景虎に名跡を継がせていた。
こうして関東管領が並び立つ異例の状況のもと、北条も上杉も互いを「長尾」「伊勢」と旧称で呼びそれぞれが自らの正当性を誇示した、という。ちなみに越後長尾氏は平安末期〜鎌倉初期の大武士団「鎌倉党」鎌倉氏の一族である長尾氏の末裔。鎌倉氏のルーツは平良文を祖とする坂東平氏である。上杉氏は鎌倉時代中期、執権北条氏によって迎えられた親王将軍(六代将軍宗尊親王)の供をして京から鎌倉入りした上杉重房(藤原氏の一族)を祖とする。

 

 

第四代氏政(うじまさ)が形式上家督を継いでいた永禄12年(1569)には武田信玄が小田原に進軍、小田原城を包囲し攻撃の機会を窺っている。

 

先の上杉謙信による小田原攻めの頃には相模・駿河・甲斐の北条・今川・武田は互いにけん制しあうべく三国同盟を結んでいた。しかし、桶狭間以降今川の没落により力の均衡が崩れると、海への出口となる駿河を欲した武田により永禄11年(1568)三国同盟は破棄された。なお駿河に進軍した武田と北条の対決は、小田原北条氏の一門である玉縄北条氏(たまなわほうじょうし。鎌倉)の第三代綱成(つなしげ。黄八幡)と武田軍との間で繰り広げられた駿河深沢城の攻防(元亀元年・1570)が知られる。

 

三代氏康は外交政策を大転換させ、かつて北関東で激しく争った越後の謙信と永禄11年(1568)同盟を結ぶ。そうしたなか、信玄は2万の軍勢を率いて甲斐を出発、小田原に進軍してきた。が、結局は攻め切れずに甲斐へと帰国していった。津久井を経由して帰国する信玄の退路を断つべく北条方は愛川町の三増峠(みませとうげ。東丹沢・宮ヶ瀬ダムの下流域)で北条氏照(うじてる。四代氏政の弟)らが待ち構えていたが、そこは激しい山岳戦のすえ信玄の軍勢に突破されてしまっている(三増合戦)。越相同盟は謙信が出兵に応じなかったことで全く機能せず、氏康をいらだたせた。

 

なお、上杉との越相同盟にあたり氏康は氏政の末弟である三郎を謙信の名跡を継承させる養子として送り出している。三郎は謙信により景虎の名を与えられた。この養子縁組は、それと引き換えに謙信が手中にした関東管領職・上野各地の一部所領を北条が保証する意味合いがあった。
氏康の死去に伴う四代氏政への正式な代替わりがあった元亀二年(1571)に越相同盟が破棄されても、謙信は景虎を離縁しなかった。北条は同盟を破棄しても事実上その内容を尊重せざるを得なかった。一方で氏康の遺言もあり、氏政と信玄との間では甲相同盟が復活。西上野の武田領に北条が干渉しないこととし、北関東における北条・武田と上杉の抗争は再燃した。

 

天正元年(1573)には信玄が死去。そして天正6年(1578)謙信の死去に伴う上杉家中の御館の乱(おたてのらん)で景虎が景勝に滅ぼされると北条は上野の掌握へと動く。
北条と武田との間には緊張が高まり、上野各地は武田勝頼の攻勢にさらされることとなる。勝頼は上杉景勝と姻戚関係を結び常陸(現茨城県)の佐竹氏とも盟約を結んでいた。氏政は徳川との軍事盟約をもってこれに対抗、織田へも接近を図っていく。

 

城下をおよそ9qに渡り土塁・空堀でぐるりと囲む小田原城総構は、豊臣秀吉による小田原攻め(天正18・1590年)に備えて構築された。これは戦国時代の城における最大級・天下無双の城郭であった。まさに「落とせるものなら落としてみろ」といわんばかりのスケールである。堀の中を仕切って堀に落ちた敵兵の動きを妨げる障子堀(しょうじぼり)をはじめとした小田原北条氏の築城技術は、後々の近世城郭に大いに影響を与えたとされる。
北条は東海道(中世の古道・湯坂路)を東進する秀吉の軍勢に対し、これを迎え撃つべく箱根山を挟んだ要所の城・砦とりわけ三島・山中城をより強固に改修して待ち受けた。

 

北条氏にすれば本城の小田原および各支城と連携し、豊臣軍の兵站線を断ちつつ持久戦に持ち込むことで小田原遠征軍を疲弊させる腹積りであっただろう。しかし、秀吉の家臣諸将らに加え東海の徳川、四国の長宗我部、越後の上杉、中国毛利家の吉川といった名だたる戦国大名を引き連れた20万を超える大軍はさすがに北条の想像をはるかに超える規模であった。謙信との大戦では耐え抜いた支城を次々に落とされ次第に孤立した小田原城は、いかに天下無双の名城といえどもさすがに籠城戦に勝利する目処を立てることができなかった。
小田原合戦に至るまでの状況、その顛末の詳細は石垣山一夜城のページへ

 

参考・「戦国北条氏五代」

 

 

 

小田原城址公園に掲示されている、小田原合戦の図。

 

 

 

清閑亭(せいかんてい。三の丸土塁跡地)に掲示されている、戦国時代〜江戸時代の小田原城。

 

 

 

案内板前から高台へ向かう。

 

 

 

箱根外輪山の大観山(たいかんざん。ターンパイクで登れる)あたりと、二子山の眺めがいい。

 

 

 

蓮船寺の門前。

 

 

 

城南中学のあたり。門の傍らに、大堀切中堀(一部は現在道路となっている)の解説がある。

 

 

 

中学校の門の前から、画面右手への道が元の大堀切中堀の一部となる道路。

 

 

 

もと中堀だった道路を先に来た方向へ戻るように進むと、先ほど歩いた東堀を見下ろせるところがある。

 

中学校の門前まで戻り、先へと進む。

 

 

 

御鐘ノ台(おかねのだい)の碑が建つあたり。その名は、小田原攻めのときこの地に陣鐘が置かれたことに由来する、とされる。

 

 

 

大堀切西堀は、現在では車道に近いこのあたりは埋められている。

 

 

 

御鐘ノ台の奥。標高およそ122m。

 

 

 

この道は、当地に住んだ明治の童謡詩人・北原白秋も絶賛したという散歩道。

 

 

 

西には丹沢の雄大な眺め。

 

 

 

そして東に相模湾の眺めが加わった。眼下には空堀の西端が連綿と続く。

 

 

 

山から海へ、大パノラマ。 パノラマ拡大版

 

来た道を戻り、早川口遺構へと向かう。

 

 

2.小田原城総構(平地側)と八幡山古郭へ

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