まちへ、森へ。

八菅山修験、行場の入口

令和三年(2021)7月下旬の週末。神奈川県愛甲郡愛川町(あいこうぐん あいかわまち)に鎮座する八菅山修験の信仰の山、八菅山(はすげさん、225m)を起点に中津川(相模川水系)流域を古民家山十邸、箕輪耕地、田代半僧坊、塩川滝(第五行所)へと歩く。

 

1.八菅神社(八菅山七社権現、第一行所)

 

 

JR相模線・海老名駅西口2番のりばから神奈中(かなちゅう)海09系統・愛川バスセンター行に乗車、一本松バス停で下車。季節は梅雨明け十日、天気の安定した週末。時刻は午前7時半前。日中の気温は30度を超えるので熱中症対策の水分・塩分は欠かせない。
愛川町の町役場や内陸工業団地といった町の中心部は、相模川と中津川(相模川支流)に挟まれた河岸段丘・中津原の台地に広がっている。

 

 

 

バス停から少し戻ると一本松信号の角に八菅神社の大きな案内板が立っている。交差点を右折して中津大橋へ。

 

 

 

中津大橋は段丘崖(だんきゅうがい)を下る急勾配の橋。

 

 

 

中津大橋を下った先が八菅山・八菅神社の入口となる八菅橋。

 

 

 

中津大橋の入口。標高およそ92m。平成6年(1994)にこの橋が開通するまではここより少し南側から七曲りの狭い道をジグザグに下っていた。

 

 

 

風景ががらりと変わり、中津大橋が段丘崖を一足飛びに下っていく。中津川の対岸には八菅山のなだらかな峰々が横たわっている。

 

 

 

八菅橋。往時は俗界と聖域を分ける境界であり、中津川は天然の結界だった。昭和41年(1966)にコンクリート橋になるまでは吊橋が架かっていた。

 

 

 

八菅橋のたもと近くに建つ、鮎供養塔。

 

 

 

 

 

 

 

橋を渡ると「八菅山いこいの森」の案内柱が立っている。このあたりで標高61m。

 

 

 

「八菅山いこいの森」案内板と鳶尾山(とびおさん、234m。厚木市)一等三角点への案内板。

鳶尾山の一等三角点は日本全国へと三角測量を展開し始めた最初の一等三角点。明治15年(1882)に相模原に置かれた相模野基線を一辺とし鳶尾山を頂点とした三角形を作り、そこから測量を展開していった。
中津川沿いを歩く「中津川の清流と田園の道」は平成27年(2015)に「新日本歩く道紀行100選 ふるさとの道」に認定されている。

 

 

 

こちらは不動坂。

 

 

 

案内板には八菅山七社権現の別当(べっとう。社務を管理する寺)であった光勝寺の総門が建っていたところ、とある。

 

 

 

不動坂とは反対の方向へ、森の中の参道を登ってゆく。

 

 

 

花開いたヤブミョウガ。

 

 

 

途中の右分岐を奥へと進んでいくと、海老名季貞(えびな すえさだ)の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。

 

 

 

海老名氏は平安後期〜鎌倉初期の武士団、横山党(武蔵七党)の流れを汲む一族。相模国海老名郷を領し、海老名党と称される。
季貞は八菅山への信仰が厚く源頼朝の命を受けて社殿の再建や大日堂の建立など堂宇を整備した、と伝わる。

 

 

 

参道鳥居前に到着。標高90m。

 

 

 

向かって右手に芭蕉句碑「蓬莱にきかばや伊勢の初便」(安政七・1860)。
松尾芭蕉は元禄七年(1694)に生涯を終えたが、その後全国各地に次々と句碑が建てられていった。そうした句碑は「諸国翁墳記」という江戸時代の書物に一覧としてまとめられた。

現在の句碑も幕末期に遡る句碑であるが、この句碑には先代の句碑があったようだ。「神奈川県下芭蕉句碑」(飯田九一著)によれば「諸国翁墳記の句碑は挿絵から推察するに現在の句碑と異なる。恐らく、安政二年の大地震で倒壊し、現存の句碑が安政七年に再建された」と消失した旧碑の挿絵を付して推察している。
参考「神奈川の文学碑」

 

 

 

八菅山修験場跡要図。

 

八菅山略縁起(天保11・1840)によれば、八菅山は古名を蛇形山(じゃぎょうさん)といった。これは日本武尊が東征のおり、中津坂本あたりからこの山を眺めて山容が龍に似ているところから名付けられたとされる。山中の池(左眼池、右眼池など)は蛇体の各部にあたる。八菅の名は縁起に拠れば修験道の開祖である役小角が大宝三年(703)この山に入り修行、不動・薬師・地蔵の三体の像を刻んだ時に池の中に白菅八茎が生じたことに因むとされる。
一方で室町期の鎌倉公方足利持氏による「光勝寺再興勧進帳(写)」(応永26・1419)によると行基による草創のおり八丈八手の玉幡(宝玉で装飾された幡)が山中に降臨、神座の菅の菰(こも)から八本の根が生え出たことから八菅山と呼ばれるようになった、とある。
こうした後世の編纂による縁起の伝説などとは別に民俗学的な観点から八菅山とは葉菅(山菅を加工して縄とし草履や草鞋の材料とした)を産する山の意味であり、そこに胎蔵界八葉曼荼羅とか八幡神信仰の八を当てたのではないか、という説もある。

 

中世以降、八菅山の一帯は修験者の修験道場として発展していく。八菅山に伝わる正応四年(1291)の碑伝によると熊野長床の修験者が八菅山に入山した記録があるほか、応永26年(1419)の勧進帳は足利持氏による外護、再興がなされた史実を記録する。
江戸時代になると修験道の統制が行われ八菅山は天台宗系の本山派に属することとなった。八菅山は総本山である聖護院門跡(しょうごいん もんぜき。京都市左京区)直末の格式ある修験集団として知られ、最盛期には五十余りの坊を擁した。本山派は熊野修験を中央で統括する園城寺(おんじょうじ、三井寺。滋賀県)の流れを汲む。

なお江戸時代には幕府の修験道法度により修験者は天台宗系の本山派、真言宗系の当山派のいずれかに属することとされた。とはいえ全国には出羽三山(山形県)の羽黒修験(羽黒派)、英彦山(ひこさん。福岡県)の英彦山修験(英彦山派)など古来の伝統により独自の峰入り修行を行う天台宗系の修験者集団が本山派に属さない別山として存続した。全国の多くの修験者集団は自前の修行の峰々や入峰儀礼を持たず修験者(山伏)は大峰、葛城に峰入りして修行することとされた。

一方で八菅山は丹沢・大山エリアにおいて本山とは別に独自の峰入り修行が明治の初頭に至るまで連綿と続けられてきており、地方霊山の一山組織として隆盛を誇った。ちなみに丹沢・大山を行場とする近隣の日向修験は本山派、大山修験は当山派に属していた。

 

参考「修験集落八菅山」「山と神と人‐山岳信仰と修験道の世界‐」「丹沢の行者道を歩く」「かながわの神社」「かながわの滝」「神奈川県神社庁ウェブサイト」

 

 

 

鐘楼と宝物館。

 

梵鐘は元和四年(1618)に徳川二代将軍秀忠の武運長久を祈願して光勝寺に献じられたもの、とされる。現在は撞くことを止めて保存されている。宝物館の開館日は原則として正月三が日と三月の例祭日のみ。別途拝観希望時は要連絡とある。

 

 

 

参道にまとめられた石仏に石塔、石碑。

 

 

 

ケヤキの大木。推定樹齢300年。

 

 

 

男坂の石段。歪みが出ており若干歩きにくいが、通行できる。

 

 

 

石段からすぐそばの、鼻の池。水は枯れている。

 

 

 

石段の途中、女坂の交差するところを左手に逸れて右眼池へ。

 

 

 

右眼池。

 

 

 

右眼池から石段まで戻り、左眼池へ。

 

 

 

石段を挟んだ一帯の森はスダジイを主とした自然林。地域本来の植生がまとまって残存しており、「八菅神社の社叢林」として県の天然記念物に指定されている。

 

 

 

水神の祠が建てられた、左眼池。

 

 

 

クロガネモチの大木。こちらは推定樹齢250年。

 

 

 

奥の院に到着。標高およそ150m。

 

 

 

傍らに「八菅修験ハイキングコース」の案内板。

 

 

 

第二行所であった幣山(へいやま)への山道が案内されている。

 

 

 

八菅神社の社殿。横にとても長い(桁行11間・66尺。およそ20m)覆殿は慶応二年(1866)の建立。
内部には本殿(證誠殿。貞享四年・1687築)とその左右(南北)に二棟の社殿(北三社の玉函殿・金峯殿・誉田殿、南三社の妙高殿・妙理殿・走湯殿)が納められている。

 

 

 

證誠殿に祀られるのは熊野権現。玉函殿は箱根(函嶺)権現、走湯殿は伊豆山権現、誉田殿は石清水八幡宮・八幡大菩薩。本殿と両脇の社殿に併せて七柱の神々を祀っており、これがかつて八菅山七社権現と呼ばれた由来となる。
参考「神奈川県近世社寺建築調査報告書」

 

 

 

明治初頭の神仏分離、修験道廃止令により七社権現を管理した別当の光勝寺は廃寺。八菅山七社権現は郷社・八菅神社として再出発する。院坊として存続できなくなった修験者たちは八菅神社の神職となり帰農。八菅山修験はここに途絶した。

 

 

 

経塚(経典を奉じて埋めた塚)の跡。案内板によれば八菅山には平安末期〜鎌倉期の経塚跡が調査により十七基確認され、壺等の埋蔵物が出土している。

 

 

 

社殿から展望台へ。

 

 

 

天然林の社叢林から一転、森は人の手による里山の装いとなる。一帯は「八菅山いこいの森・お花見広場」として整備されている。

 

 

 

白山堂跡を示す案内板。白山権現は八菅山七社権現の祭神の一つとして社殿の妙理殿に祀られている。
「修験集落八菅山」によれば神社所蔵の「八菅山版木絵図」には「白山堂」が描かれているが文久元年(1861)の宝喜院永朝による絵図には該当する地点に「拝参所」と記されている。
八菅の峰入り修行の最終行所は第三十番大山寺白山不動であるが、行所第一番では白山への祈願がなされている。

 

 

 

梵天塚と案内板。

 

 

 

塚には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられている。
梵天塚は八菅山の一山組織を構成する院坊の一つである「覚養院」に属した塚。覚養院は組織運営の要職を担った序列上位の院。案内板には「修験道で祈祷に用いる梵天(幣束)をたてたことにちなむ名であろう」とある。

 

 

 

展望台下に到着。この辺りから三角点(225.7m)にかけての峰は分県登山ガイド「神奈川県の山」(山と渓谷社)では「七尾山(ななおさん)」と称されている。

 

 

 

教城坊塚と案内板。
八菅山の院坊は江戸初期の記録ではすべてが坊と称されていたが江戸前期の元禄期に「院」と名乗る坊が出現。やがて本坊は「院」、脇坊は「坊」として名称が統一されていく。教城坊は序列上位の坊が院と名乗り始めた元禄期から教城院と名乗っていた。

 

 

 

八菅山展望台。展望台の立つあたりで標高206m。

 

 

 

展望台から横浜方面を眺める。

 

 

 

ランドマークタワーのシルエット。

 

 

 

展望台から八菅修験ハイキングコースをたどり、第二行所の「幣山」(へいやま。石神社)へと向かう。

 

 

2.石神社(八菅山第二行所・幣山)

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