平成31年(2019)4月下旬、天皇陛下即位の日が祝日となり暦の上で十連休となった大型連休の前半。好天に恵まれた散策日和の一日、横須賀市内に残る土木遺産なかでも旧陸軍の軍事要塞遺跡を主として巡り歩く。最初に横須賀港沖の無人島、猿島(さるしま)へ。猿島から戻った後は路線バスを利用して走水(はしりみず)水源地、観音崎を巡っていく。
1.三笠桟橋から猿島要塞・陸軍「東京湾要塞」の時代
横須賀・三笠桟橋から猿島へ。このページでは猿島が陸軍による「東京湾要塞」として管理・運用されていた時代の遺構を中心に見ていく。
朝の7時50分ごろ、京急・横須賀中央駅東口の歩行者デッキ。駅から三笠桟橋へは歩いて15分ほど。
デッキから見下ろす通りの右側を奥へと進む。
三笠桟橋へは湘南信金の角を右折し、市役所前公園の角で突き当たる国道16号を左折。国道16号・小川町交差点を右折してフェニックスの立ち並ぶ通りをマンションが建ち並ぶ側の歩道沿いに進んでいき、分岐を左折。
右手に姿を見せる三笠のマスト。
三笠桟橋からの連絡船。第一便は朝8時30分の出航だが、8時過ぎに到着したところ発券所は既に長蛇の列。座れなくても構わないので、それはそれでいい。
記念艦三笠。三笠の艦内見学はこちらのページへ。
連絡船運行会社の職員さんに見送られつつ、出航。
三笠の雄姿。
猿島へは10分ほど。
ズームでとらえる防波堤赤灯台越しの横浜みなとみらい・ランドマークタワー(296m)。
横須賀市街の向こうに姿を見せる富士山。
猿島桟橋から上陸。
乗船したのは「シーフレンドZero」。座席は100名弱だが港内の平水(へいすい)区域であれば立ち乗りの乗客も含めて240名近く乗船できる。
海軍港碑。「巡ってみよう横須賀の軍事遺産」リーフレット(横須賀市)によると明治10年(1877)に海軍が管理する港の範囲を示すものとして初代が建てられ、明治16年(1883)に現在の石柱に建て替えられた。
猿島要塞は明治前期に陸軍が管轄した要塞。その役割は観音崎・走水(はしりみず)・富津(ふっつ)の砲台とともに敵艦の東京湾への侵入を防ぐ「東京湾要塞」の一翼を担うとともに、軍港周辺の砲台とともに横須賀軍港への侵入を防ぐ役割も担った。
電気燈機関舎(発電所)。石炭を用いた蒸気機関でタービンを回して発電、各所に電気を供給した。
壁にはモルタルが塗られているが案内板によると自立レンガ壁の構造とのこと。
煙突は下地のレンガ積がちょっとだけ見える。管理棟の展示パネルによると、発電所のレンガ積はイギリス積にそっくりなオランダ積という珍しい積み方らしい。
早速、要塞跡の散策へ。
凝灰岩の岩盤が削られて切通(きりどおし)が通され、露天の通路になっている。その先は両側に石造・煉瓦造の要塞施設が構築されて砲台の塁道となっている。
猿島の要塞は明治14年(1881)に起工、17年(1884)竣工。観音崎第二、第一砲台に次ぐ着工であり東京湾要塞における初期(明治前期)の遺構となる。
解説板。
砲台の塁道に設けられた兵舎。兵舎は斜め上に小窓が付いている。
兵舎の入口。
兵舎の小窓。
煉瓦の積み方は同じ段に煉瓦の長手(ながて。長辺)と小口(こぐち。短辺)を交互に並べる、フランス積(フランスづみ)。
石の積み方はレンガのように長く切った石をフランス積のように並べて積む西洋式の積み方で「ブラフ積(ブラフづみ)」と称される。これは幕末から明治の初期にかけて横浜の居留地とりわけ山手(外国人は山手を「ブラフ」と呼んだ)界隈でさかんに導入された積み方。ブラフ積はその後昭和中期ごろまで市街地の各所で用いられた。
ここのフランス積・ブラフ積の構築物は明治前期ごろのものが非常によく残っている。大正12年(1923)の関東大震災ではそれまでの土木・建築構造物が県内各地で大打撃を受けたが猿島要塞は軍事施設ということもあってか、非常に強固に造られたのだろう。
塁道の反対側には長めに切った石のブラフ積が見事に残っている。
続いて弾薬庫。塁道の上には東向きに24pカノン砲(加農砲、cannon)四門が据え付けられた(第二砲台)。
明治期の猿島砲台は敵艦と実戦を交えることなく役割を終えた。しかしそれは膨大な予算を投じた無駄な備えだったかといえば、決してそうではない。
事実、日露戦争ではウラジオ艦隊が日本の沿海に出現。輸送船を撃沈、拿捕しながら東京湾口に現れた。しかしウラジオ艦隊は東京湾要塞の砲台と交戦するリスクを冒してまで、湾内に侵入しようとはしなかった。仮に強固な要塞が構築されていなければ艦隊は東京湾に侵入し横須賀軍港や横浜港、首都東京といった重要拠点に砲撃を加えて火の海にしたであろうから、砲台の抑止力はいかんなく発揮されたことになる。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」
24pカノン砲。
画像出典「新横須賀市史 別編 軍事」
兵舎・弾薬庫の並びと反対側の壁に築かれた煉瓦構築物。これは掩蔽部(えんぺいぶ。待避所)だろうか。レンガ壁には庇(ひさし)を架ける梁を通すための穴のようなものが開いている。しかし、そうだとしても庇を架けただけでは瓦礫から身を守る待避所としては心許ないので、やっぱり何か別の用途のものだろう。
煉瓦の積み方は長手を並べた段と小口を並べた段を交互に積み重ねるイギリス積。
管理棟の展示パネルの解説では「イギリス積」と「オランダ積」の違いが解説されているが、ここの積み方は大きな画像で確認すると隅に「羊羹煉瓦」が用いられている。
なお管理棟の展示パネルには「第二砲台指令所付属室」などにイギリス積とそっくりな「オランダ積」が見られる、とある。
朽ち果てた遺構も。
こちらも弾薬庫。
解説板。
弾薬庫と兵舎は、個人・少人数グループ向けの当日申込制でボランティアガイドの方の引率により内部に入って見学することができる。
今回は猿島要塞の後に観音崎砲台まで廻る予定で三笠桟橋に戻る船の時間を決めていたため、見学終了時間が合わず参加できなかった。
弾薬庫の入口。天井がヴォールト天井(カマボコ型の天井)になっている。
反対側の崖の煉瓦構築物。アーチの入口が付いており庇の梁を通すらしき穴も開いている。あるいは管理棟の展示パネルにみる猿島平面図に載っていた「便所」だったのか。
フランス積の特徴がはっきりと分かる。
アーチ窓は塞がれている。
塁道の奥は天井を開削せずに残して隧道(トンネル)になっている。
解説板。
解説文であるが、旧陸軍の関連で言うとレンガ構造物は明治20年ごろを境としてフランス積からイギリス積に変遷していった。
旧陸軍関係以外に目を転じてみると、それ以降の時代でもフランス積は少なからず用いられているが、いずれにしても明治20年ごろまでのフランス積によるレンガ建造物は完全な形で残っているものはごくわずか。
たとえば横浜の場合、山下町の旧居留地48番館(モリソン商会)が横浜最古の居留地建造物(明治16年・1883築)としてフランス積の残存部分が保存されている。まち歩き・続関内界隈の近代建築のページへ。そちらは関東大震災(大正12・1923)を経て昭和初期に改修工事が施されて建物として利用されていたが、平成13年(2001)に旧状に近づけるための保存工事が施されて改修部分を撤去。現在は震災遺構のような姿となっている。一方、フランス積の工法自体が大正期に至っても建造物に用いられていた例として、立教大学(東京池袋)の煉瓦校舎群がある。四季だより歳時記・立教大学のクリスマスのページへ。
アーチ内部の曲面は小口の並びになっているがアーチの断面(平面)は長手の並びだけでなくフランス積の長手・小口交互の並びも見られ、かなり複雑な積み方をしている。
トンネルの内部。
天井。小口の並ぶ曲面。
トンネル壁面の出入口。
トンネル内の地下施設。トンネル内には兵舎や弾薬庫の他に司令部が置かれており、要塞の中枢だった。
西側斜面への出口。
解説板。
トンネルの出口。
出口の突き当りは陸軍により要塞が構築された当初は弾薬庫だった。上部には東北向きに27pカノン砲二門が据え付けられた(第一砲台)。
大正12年(1923)の関東大震災ではこの堅牢な要塞も被災。そして軍艦同士が砲火を交える戦闘から航空機による攻撃が台頭するという時代の趨勢とともに猿島砲台は砲台としての必要性が低下。大正14年(1925)には砲台は廃止され除籍される。昭和2年(1927)に猿島要塞は海軍へ移管された。
出口を出て右側の塁道。左側は素掘りの切通のまま。
塁道奥の隧道(トンネル)の先は、展望台のある広場へ通じる。こちらのトンネルも要塞が構築された当初からのトンネル。島の東側に抜ける通路だった。
右手のレンガ壁には部屋の出入口がある。
案内板には「この部屋は第一砲台の関連施設ではなかったか」とある。
出口の正面突き当りに見える、第一砲台下のトンネル。脇に階段が見える。
こちらのトンネルが造られたのは昭和初期。猿島要塞の管轄が陸軍から海軍に移ったのちに陸軍時代の弾薬庫を貫いて造られ、海軍の高角砲砲台への通路となった。
正面のトンネルを抜け、海軍高角砲の砲台跡・日蓮洞窟の方面へ。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」
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