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横須賀軍港と記念艦三笠


2.記念艦三笠の艦内見学

1.JR横須賀駅からヴェルニー公園はこちら。




三笠公園。昭和36年(1961)、戦後における三笠の復興と時をほぼ同じくして開園した。




案内図。




記念艦三笠。

三笠は英国ヴィッカース社の造船所で建造され明治35年(1902)に就役、大正12年(1923)に除籍処分となる。
その時すでにワシントン海軍軍縮条約に沿って解体されることになっていたが、何とか残せないかという声が各方面から生じ、三笠保存会が結成された。三笠を記念艦として永久保存する計画について条約調印国の同意を得たのち、保存工事や維持のための費用の寄付が国中から広く寄せられる。
こうした経緯を経て大正15年(1926)、三笠は海底が整地された白浜海岸に着座、固定されて保存されることとなった。




連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督の像。




15p副砲、補助砲がずらりと並ぶ左舷。

復元された副砲は固定式のようにに見えるが、現役当時は可動式であった。




三笠の主砲、30cm砲弾と砲身の一部。




ちなみに大和の主砲、46p砲弾はこのサイズ。




見学順路の案内図。

艦底部は埋まっているため、上甲板(じょうかんぱん)、艦橋(かんきょう)、中甲板(ちゅうかんぱん)を巡るコースが設定されている。




乗艦すると最初に目にする、コンクリートで復元された砲塔。三笠の主砲は30p砲連装。

ちなみに第二次大戦中に連合艦隊の旗艦を務めた長門の主砲は41p砲連装。史上最強の戦艦大和の主砲は46p砲三連装。




日露戦争・黄海海戦では伏見宮殿下が御奮戦された。伏見宮家は長きにわたって親王の位を世襲した、かつての宮家。




三笠の主砲弾には「下瀬火薬」「伊集院信管」といった最新鋭の技術が用いられていた。

明治時代も後期に入ったころの日露戦争当時、まだまだ世界的には国力の小さかった日本にとって、日英同盟のもとでの軍艦の購入やバルチック艦隊の遠征に対する外交圧力など、英国の支援はまことに大きなものがあった。とはいえ、技術立国日本の片鱗もこの当時から見られた。




15p副砲。中型の巡洋艦に対して威力を発揮した。




当時のチーク材甲板が現存している。




無線電信室。無線は当時、最新の技術であった。




15p副砲の操砲展示。

東郷は「戦力なるものはただ艦船兵器等の物体や数によって定まるものではない。・・・百発百中の砲一門は、よく百発一中の砲百門に対抗できる」という言葉を残した。




「三笠艦橋の図」。日露戦争・日本海海戦(明治38・1905)における東郷長官、伊地知艦長らが描かれている。




8p補助砲。夜襲をかけに接近してくる水雷艇などに対して砲撃を加えた。




日本海海戦におけるZ旗掲揚の解説展示。




副砲の砲室に釣られている釣床(ハンモック)。釣床は、それぞれの持ち場に配置された乗員がそれぞれの場所で使用した。

戦闘時には艦橋上部の機器及び人員の防護用にも使用した。「三笠艦橋の図」にもその様子が描かれている。

この砲室には10名が配員され、ここで就寝し、食事をし、砲の手入れ、訓練、砲撃を行った。
なお艦内で釣床を使用したのは乗員約860名のうち中尉以下の約830名。ずいぶんと大人数のような印象だが、昔の軍艦はハイテクの塊である現代の護衛艦と異なり、一つ一つの装備を動かすのに多くの人の手が必要だった。ちなみに第二次大戦時の戦艦大和は機動部隊による空からの攻撃に対する対空砲火の増設を重ねたことで、最終的には3,000人を超えていた。




艦橋(かんきょう)へ上がる。




艦首。




海図室。




国際信号旗。
それぞれにアルファベットや数字が振られている。また旗ごとに固有の意味を持たせている。

先のZ旗は一般には「私は引き船が欲しい」という意味が与えられているが、日本海海戦では東郷長官の「皇国の興廃この一戦にあり」との号令を全軍に発する際にZ旗がマストに掲げられた。




信号探照灯。その先には、陸海軍の要塞が構築された猿島(さるしま)が見える。




操舵室。羅針儀と操舵輪は日露戦争当時の実物、とある。




艦橋の最上甲板。ラッパ状の管は、艦橋下部の操舵室への意思の伝達に用いられる伝声管。

東郷長官はここで最後まで戦闘指揮を執った。




最上甲板に備えられた、敵艦との距離を測る測距儀。「三笠艦橋の図」に描かれた場所。

NHKが総力を挙げて制作したドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)における日本海海戦のシーン、東郷長官が大きく腕を振りかざし「敵前大回頭」を指示する場面は、その並々ならぬ決意が伝わってくるようで印象深い。

当時の軍艦は、旋回する主砲塔以外は左右両舷から突き出すように砲を備えた形状が多く、艦隊の決戦は一列縦隊ですれ違いざまに互いに砲火を浴びせる形が基本となる。したがって射程距離の長い大型砲を多く備えた方が敵から距離を取ることが出来るため有利であった(とはいえ、主砲塔の解説板にもあった通り当時の技術水準では砲弾の命中精度は低かった)。

連合艦隊とバルチック艦隊は、主力艦となる戦艦の数においては4対8であった。いかにバルチック艦隊が長距離航海で疲弊していたとはいえ、砲火力については小型艦の駆逐艦や水雷艇(それらは足は速いが火力は弱く、夜襲向き)まで多数動員せざるをえなかった連合艦隊が明らかに劣勢であった。
さらにバルチック艦隊を不利な隊形に追い込んだとしても、戦闘からの離脱・逃走を許せばウラジオストク港に逃げ込まれてしまうため、それ以降日本は大陸への兵站を敵艦隊に脅かされることとなって戦況は悪化することが明らかであった。
国力のぎりぎりで戦争を遂行していた日本にとっては、バルチック艦隊を全滅させることが有利な講和に持ち込むための絶対条件だった。

そのような状況下で東郷の「指揮官先頭」の信念のもと、旗艦三笠は艦隊の先頭に立って敵艦主砲の命中精度が上がるぎりぎりの距離まで敵艦隊を引きつけた上で、敵艦隊の進路を塞ぎ逃走を防ぐ「敵前大回頭」(いわゆる東郷ターン)を決行。これは先頭の三笠を始めとした何隻かの艦船の沈没を覚悟したうえで敵艦隊を全滅させることを狙った、まさに「肉を切らせて骨を断つ」戦法であった。
結果、舷側(船の横腹)を見せる形となった先頭の三笠は敵艦からの格好の標的となり多数の砲火を浴びることとなる。しかし三笠は沈没せずに持ちこたえた。逆に進路を塞がれて転回せざるを得なくなった敵艦隊に対して、転回してきた一隻ずつに全艦からの集中砲火を浴びせることで、勝負は決した。




司令塔(シェルターデッキ)。被弾時の操舵能力を維持するため、分厚い装甲に囲われた内部に羅針盤、舵輪、通信機などが備えられている。

東郷は戦闘中も安全な司令塔に退避せずに、自らの生死を賭して最後まで最上甲板で指揮を執り続けた。




マストのZ旗。祖国の存亡がこの一戦にかかっているという不退転の決意が、Z旗に込められた。


重傷を負ったバルチック艦隊のロジェストヴェンスキー長官は捕虜となり、佐世保の海軍病院に収容された。のちに東郷はロジェストヴェンスキーを見舞いに訪れ、敵将をねぎらい丁重に接する。その姿勢にロジェストヴェンスキーは深く感銘を受けた、といわれる。




中甲板へ。









現在は講堂となっている艦首部分。兵員室、准士官室、病室などがあった。




中央展示室。




艦首飾り。帝国海軍の象徴であるこの菊花紋章は、竣工から昭和62年(1987)まで三笠の艦首に取り付けられていたもの。




艦尾へ。




現在は見ることが出来ない機関(メインエンジン)のパネル。




士官室。




参謀長公室。




艦隊機関長居室の再現。




長官浴室。洗面台は建造当時に備え付けられたもの。




艦長公室(Captain's Saloon)。




長官公室(Admiral's Saloon)。その奥には長官室。




長官公室。




長官室の作り付け家具。「建造時に取り付けられたものと思われ当時の英国製家具の特徴が見られる」とある。




食器室。




三笠神社の神棚。




軍楽隊室。

士官用短剣なども展示されている。




士官の軍装。よく知られている白い軍服は、海軍士官の夏服となる第二種軍装。

見学を終えて、外へ。









日章旗がはためく艦首。




ニミッツ元帥らの名に於いて植樹された、記念月桂樹。

三本植樹されたが二本は立ち枯れてしまい一本を残すのみ。後継樹として新たに一本が植えられている。




海軍元帥チェスター・ニミッツ(1885〜1966)は、日本においては陸軍元帥にしてGHQの最高司令官であったダグラス・マッカーサーほどにはその名を知られていない。

しかし、現在就役する原子力空母が「ニミッツ級」と呼ばれ一番艦(ネームシップ)にその名を冠していることが示す通り、アメリカ史に残る名提督であった。
第二次大戦の開戦後、ニミッツ提督はキンメル提督の後を受けて太平洋艦隊司令長官の任にあった。


ニミッツは士官候補生であった1905年(明治38年)にアメリカ軍艦オハイオに乗艦し東京湾に入港。日本海軍から園遊会の招待を受けて出席したおりに東郷平八郎と対面した。
日本海海戦で連合艦隊司令長官として戦力的に圧倒的不利とされた前評判を覆す勝利で祖国を守り、また流暢なクイーンズイングリッシュを操る気さくな東郷をニミッツは尊敬していた。1934年(昭和9)には東郷の国葬に参列後、東郷邸における仏式の葬儀にも参列している。

ニミッツは「東郷の弟子」を自認し、日本における東郷の弟子とも目される連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもと いそろく)とミッドウェー海戦で対峙。圧倒的に不利とされたアメリカ太平洋艦隊の戦力で日本の連合艦隊の空母機動部隊を壊滅させたこの戦いは、太平洋戦争における転換点となった。



戦後の十分な歳月を経た後で信頼できる資料を基に出版された「ニミッツの太平洋海戦史(原題・The Great Sea War)」はアナポリス海軍兵学校の海軍史教授であったエルマー.B.ポッターとの共著。真珠湾攻撃直前の状況から終戦までが司令官の視点で克明に記されている。

そもそも戦力において不利な者が大戦力を有する相手方に対し奇襲をかけることは卑怯でも何でもない古来からの兵法の一つである。近現代においては、それが戦争のルールに則っている限り。
「ニミッツの太平洋海戦史」におけるミッドウェーの章では「奇襲というものは、海軍作戦においても、また陸軍作戦においても、きわめて重要なことであり、奇襲をなし得る場合は、いつでも、これを活用すべきである。より劣勢な部隊は、しばしば、奇襲によってその目的を達成するよりほかに途がない場合もある。しかし、大作戦(注・ミッドウェー海戦)の計画に当たって、日本艦隊は奇襲を必要としなかった場合にも、奇襲に依存するという錯誤をおかしたのである。」という分析が記されている。

アメリカが日本の具体的な攻撃目標が真珠湾であることを事前に知っていたか否かは真相が明らかでなく、各種の状況証拠から説が分かれている。しかし問題の核心はそこではない。

日本は宣戦布告後、さほど時間を置かずに攻撃する奇襲作戦をたてていた。それが法治国家同士の手続き上のルールに則った戦争開始の手順である。
宣戦布告後の奇襲であればアメリカの世論は「日本の攻撃は十分想定できたはず。なぜ警戒を怠ったのだ」と政府を非難する論調も生じうる。しかし、あろうことか日本は大使館の事務方が通告文書の手交を指示されていた予定時刻よりも大幅に遅延するという、法治国家としてはあまりに稚拙な手続上の深刻な失態をしでかしてしまった。ぎりぎりの策を弄し、策に溺れてしまったのである。
偶発的な小競り合いから開戦状態に至ってしまったならまだしも、真珠湾の太平洋艦隊に対する攻撃は小競り合いなどというレベルではない。手続上の瑕疵(かし)はそれ自体言い訳のできないルール違反になってしまう。非凡な政治家であれば、相手の失態に付け込まない手はない。かくして大統領の「ギャングが卑劣な攻撃を仕掛けてきた。リメンバー、パールハーバー」となり、日本人を卑怯者に仕立てて厭戦ムードが漂っていた米国民の反日感情をあおる構図が出来上がった。ことにアメリカ西海岸では、新天地を求めて移住してきた日系人が低賃金で黙々と働くのを「雇用市場の秩序を乱し、我々の仕事を奪った日本人」と元々快く思っていなかった人々もあり、彼らの怒りに火をつけてしまった。

大統領は、国としてヨーロッパの同盟国を救いたい、ヨーロッパ戦線に参戦したいという当時の時代の流れの中で利用できる状況を最大限利用し、憎悪を煽るべくして煽った。それが当時のアメリカにとって必要であり、そうすることが国益にかなうという判断の中でなされたに過ぎない。当時であったからこそ大統領は政治家として非凡であったと評価される。現代において時代の流れに関係なくなお卑怯者呼ばわりするのとは訳が違う。
ただ、アメリカとしては日本海軍の機動部隊がこれほどの破壊力を持っていたことはある意味誤算であったろうし、戦争終盤に日本が戦争遂行能力を失いつつも頑なに全面降伏を受け付けなかったことにも苛立ちを持っていたであろう。



ミズーリ艦上での降伏文書調印式後、横須賀にて記念艦となっていた三笠に乗艦したニミッツは占領軍兵士により記念品漁りがなされている現状を見るにつけ、これ以上「三笠」が壊されたり略奪されたりするのを防ぐために四六時中海兵隊員に艦内を見張らせるよう命じている。

戦後、横須賀基地司令官として赴任したデッカー大佐は米兵が壊したり汚した「三笠」をきれいに修復し、管理・保存に積極的に取り組んだ。これに対し占領軍による武装解除の過程でソ連からは日露戦争の象徴である三笠が「要塞」であるから破壊すべきとの執拗な主張があったが、アメリカはこれを拒絶。
一方で、地元の事業者からは三笠を歴史遺産ではなくレジャー施設として利用したいとの申請もあった。これに対しアメリカはマストや大砲などの装備を取り外して転用することを許可。これはデッカーらが意図していた保存の趣旨に反するものの、ソ連からの解体圧力をかわす狙いもあったと推測されている。こうして三笠には屋根が付けられダンスホール、水族館として使われた。

こうした状況に対し、日本国内でも三笠を国有財産として復元する機運が生じる。昭和29年(1954)には国有財産として認められ、32年(1957)には三笠と敷地が横須賀市に無償貸与された。事業者は引き払うことになり、管理は市に引き継がれた。
一方でニミッツは日本人訪問者から「三笠」が改造されていることを知る。そこで「文芸春秋」に、東郷提督の勝利が日本海軍に及ぼした影響について日本人を喚起する一文を書き、受け取った原稿料を寄付した。日本人自身が復旧に拠金を寄せる呼び水とするために。またニミッツの計らいにより、米海軍から「費用の一部に」と廃艦となった揚陸艦の寄贈を受け、その売却益も復元資金に充当された。
こうして日本で三笠復旧の運動が盛り上がり、昭和36年(1961)に三笠は往時の姿に再興した。

既に高齢であったニミッツは式典に招待されたが出席することが出来ず、「貴国最大の海軍士官である東郷提督の旗艦を復旧するために拠金された愛国的な日本人の皆様へ。その大尊敬者である弟子より心からの祝福を込めて」とのメッセージを寄せた。
またニミッツは「ニミッツの太平洋海戦史」の日本語版出版社に対して、謝礼金を空襲で焼失した東郷神社の再建奉賛会に寄贈してほしいとの依頼もしている。

参考「ニミッツの太平洋海戦史(C.W.ニミッツ、E.B.ポッター著。実松譲、冨永謙吾訳。1962)」「提督ニミッツ(E.B.ポッター著。南郷洋一郎訳。1979)」「夕日のミッドウェー アドミラル東郷の弟子たちとニミッツ提督(江戸雄介著。1990)」「新横須賀市史 通史編 近現代(2014)」 




政治家も軍人も、祖国の存亡をかけて国を守る。大局を見据え、敵国であっても生死を賭して対峙する相手には敬意を払い、そして戦の傷が癒えた跡には、断たざるを得なかった旧交も再び温められる時が来る。

戦略の方向性を誤り、敵国はおろか母国までも破滅へと導く敵将に対しては「祖国を守る者の誇りはあるのか」と憤りもあろう。戦勝国として裁くこともあろう。古今東西、戦というものは「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。
しかし、戦の勝敗は時の運。「戦勝国」「戦争犯罪人」の立場は一変する。それは先の大戦でも双方において自覚されていたこと。

結果として日本は敗戦した。しかしその結果、日本は戦前と比較して国民が政治に関与しうる民主主義がより一層進展した。国力の分を越えて国民に窮乏を強いる軍備拡張の世の中も去った。
もしも山本長官率いる連合艦隊がアメリカ太平洋艦隊をバルチック艦隊のように葬り去り、目論んだ通りに日本に有利な講和にこぎつけていたとすれば、その後の世界はどうなっていただろうか。大国間のパワーバランスはより一層複雑になって、もしかするとさらに破壊的で凄惨な第三次世界大戦が起こり、自分も今ごろはこの世の中に存在していなかったかもしれない。

多くの人々が命を散らせていった過去をこういってしまっては不謹慎かもしれないが、それもまた歴史の通過点の一つに過ぎない。世界の情勢はとどまることなく流れ、絶えず変化している。
先人たちの願いであった、祖国を脅かされることなく平穏な生活を守る。戦後七十年を過ぎて、異文化間の相互理解とりわけ西洋諸国の日本文化理解は当時とは比較にならないほど深まった。相手を知り、相手を尊重し互いを活かし合う。自我の激突する状況下では簡単なことではないが、究極の目標である調和のとれた世の中を築いていくという中で、愚かしい戦争に突入しないためにも必要とされることは、絶えず変わっていく。

すべては過去からの思いを引き継ぎ、未来へとつなぐこと。そのための各種方法論の差異は、語弊があるかもしれないが大きな流れの中では些末なことに過ぎない。
つらい過去は過去として、変えることはできない。しかし、そこに意味を見出すことはできる。新たな行く先に目を向けて同じ轍を踏まぬよう自戒しつつ、ときには自らを守護する信仰の力を借りてでも滓のように心の奥底に澱んだつらい過去に対する複雑な思いを流していく。
それが叶ってこそ、人間が人間たるゆえんがある。古今東西、そうやって世の中は廻ってきた。現代社会における文明は高度であるが決して終着点ではない以上、それは現代にも通じるものがある。
相手に求めるだけではない。自らも律せねばならない。今を生きる己が為すべきことは、何であるのか。世の中に生じる殆どの事象(結果)はそこに関わり合いを持つ各々に原因があり、事実の核心は事象の上澄みだけを掬っていては見えてこない。




艦尾の長官室の扉から外へとめぐらされたスターンウォークは、明治期までの軍艦ならではの優雅さ。

そして、はためく軍艦旗。一般的に旭日旗と呼ばれるが、旭日旗の意匠は日章の位置、放射状に延びる条の本数において様々なものがある。陸軍の軍旗であった旭日旗と海軍の軍艦旗であった旭日旗もまた、デザインは異なる。時代的に先行していたのは陸軍の軍旗の方であった。

明治以来、日本の海軍の艦船であることを示すために用いられてきた軍艦旗は、終戦後の軍解体によりいったんは役割を終えた。そしてアメリカの占領下で行われた警察予備隊の発足から自衛隊へという自衛のための戦力の再整備の過程で、軍艦旗は自衛艦旗として再登場することとなった。
(なお陸上自衛隊の自衛隊旗は、理由は知らないが陸軍の軍旗そのものを受け継いではいない。航空自衛隊についてはそれに相当する空軍は元々無く陸海軍それぞれの航空部隊があった。ちなみに有名なゼロ戦は海軍の艦上戦闘機。陸軍には隼という戦闘機があり、それぞれの特性は異なっていた。)

先の大戦を身を以て経験した各々が軍旗あるいは軍艦旗に対して抱く複雑な感情は、確かにあろう。が、中世の戦乱期・戦国期を経たのち長きにわたる平和を謳歌してきた日本が、外から押し寄せた圧力による開化期を迎え、強大なる力に飲み込まれまいと懸命に先行者の背中を追って走った時代。この旗はそんな青年期の日本の象徴でもある。
そして、その後は立場の違いによりさまざまに評されるが、概ね日本が先行する西洋諸国に倣って急成長を遂げたがゆえに国同士の間に軋轢を生じ、それをもとに情勢が推移していく時代であり、この旗はその時代にもそのまま存在し続けた。
いずれにしても、この旗が特定の思想に基づく政治体制の象徴ではないことが明らかなゆえ、特に咎められることなく再登場が叶った。

この旗を掲げながら排他的主張を繰り返すが如きは、この旗に対する冒涜であって、して欲しくない。そのようなことをしては、開化期の先人たちに対して顔向けができない。
他方で、妙なレッテルを貼ってあたかも総意であるかのようにこの旗を否定するが如きも、あって欲しくない。人の思想は十人十色ゆえ、どんな国でも必ず一定数は存在する人々からの憎悪感情によるものならばまだしも(それとて「表現の自由」というにはその保障の趣旨に照らせば保障に値するか甚だ疑問だが)、政界・学界・一流報道機関といった社会権力が総力を挙げてそれを行うことは如何なものか。未来へ向けて協調を目指すべき世の流れに逆行するどころか、自らの主義・主張・信条のみを絶対視して相手を全面否定し殲滅せんとする前時代的思考への回帰と言えなくもない。




猿島への連絡船が発着する三笠桟橋。 




三笠公園から公園通りの遊歩道を経て、横須賀街道(国道16号)の歩道橋を渡る。




三笠ビル。それまでの商店街が耐火建築に建て替えられることになり、昭和34年(1959)に誕生した。




横須賀市街の中心地、京急の横須賀中央駅に到着。


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