まちへ、森へ。

大磯の邸園めぐり歩き

平成30年(2018)12月の下旬、神奈川県中郡大磯町(なかぐん おおいそまち)を歩く。
JR東海道線・大磯駅から、先ずはこの秋冬に明治150年記念先行公開が行われた明治記念大磯邸園へ。続いて旧吉田茂邸、文人の旧居などを巡っていく。

 

1.JR大磯駅から明治記念大磯邸園へ

 

 

朝の8時半ごろ、JR東海道線・大磯駅前。

 

大磯駅はオレンジ色のスペイン瓦を葺いた瀟洒な駅舎。震災復興建築の三代目駅舎(大正13・1924竣工)は近代化産業遺産(経産省)に認定されている。

 

 

 

大磯駅前から国道一号・鴫立沢(しぎたつさわ)の交差点に出る。

 

 

 

国道一号沿いに西へ少し進むと、旧東海道大磯宿・上方見附(かみがた みつけ)跡。

 

見附は宿場町の両端に設けられた見張のための施設。上方見附は街道の京都寄りに設けられた見附であり、ここは旧宿場町の西の端となる。

 

 

 

案内板。

 

 

 

大磯には旧街道時代の松並木が残っている。

 

 

 

太くて立派な、松の大木。

 

 

 

案内板。

 

 

 

並木が続く。

 

 

 

明治記念大磯邸園。こちらは旧大隈邸、旧陸奥邸の入口。受付はこの先、旧伊藤邸前の総合案内所。

 

 

 

ひときわ立派なクロマツが立っている。

 

 

 

 

 

 

 

樹齢は約150年。

 

 

 

残された切株。

 

 

 

 

 

 

 

旧伊藤邸前。プレハブの背後の白い建物は、戦後になって邸宅が西武鉄道グループに売却されたのちにレストランとして建てられた建物。

 

明治記念大磯邸園は明治150年を記念して国(国土交通省)により整備され、先行公開が行われた。先行公開期間(2018.10.23〜12.24)は仮設の総合案内所が設けられており、豊富な展示資料で予習もできるようになっていた。

 

明治維新を迎えて間もない頃、政界人は別荘を風光明媚な海辺に求め始めた。
明治十年代には新橋(旧汐留)〜横浜(現桜木町)の鉄道開通(明治5年)により横浜から小船でアクセスできる富岡(横浜市金沢区)が脚光を浴びる。そこには三条実美、伊藤博文、松方正義といった元勲が名を連ねている。明治二十年代には横須賀線の開通(明治22年)に伴って逗子からのアクセスが良い葉山がより大規模に別荘地として開かれていった。
そして大磯。この地が別荘地として開けていったのは明治20年(1887)の東海道線開業が大きい。富岡や葉山の別荘建築は既に失われて久しいが、ここ大磯には当初の建物、そして関東大震災(大正12・1923)後に建て直された建物がいくつか残っている。

 

 

 

陸奥宗光、伊藤博文、大隈重信、そして西園寺公望の等身大パネル。陸奥、大隈は身長180cmを超える長身。一番小柄な伊藤でも170cm近くあり、当時の平均的な男子の身長と比べると皆体格がいい。

 

旧大隈邸、旧陸奥邸の内部、旧伊藤邸の外観を見学できるのは予約制ガイドツアーのみ。指定されたグループ分けに従って、旧陸奥邸、旧大隈邸、旧伊藤邸の順で見学していく。なお旧西園寺邸跡(現状は旧池田成彬邸)は公開されない。

 

旧陸奥邸、旧大隈邸は長らく古河電工の所有であったが、このたび建物が国に寄贈され整備・公開された。

 

 

 

先ほどの入口から生垣に沿って、まずは旧陸奥邸へ。

 

 

 

反対側は旧大隈邸への道。

 

 

 

旧陸奥邸の内門。

 

 

 

旧陸奥宗光(むつ むねみつ)邸。

 

現存する建物は宗光と縁の深い古河財閥の三代目虎之助によって、関東大震災(大正12・1923)で被災した最初の建物を往時の姿を再現しつつ改築したもの。
宗光から古河家に受け継がれていったこの邸宅は古河電工の保養所(迎賓館)として長年にわたり活用されてきた。

 

宗光は支援者であった古河財閥に次男の潤吉を養子として送り出し、縁を深めている。潤吉が若くして亡くなると初代市兵衛が晩年に設けた実子の虎之助が後を継いだ。

 

 

 

数寄屋造(すきやづくり)の邸宅。

 

 

 

建物は雁行型(がんこうがた。各部屋を少しずつずらしてジグザグにした配置)となっている。

 

 

 

玄関に掲げられた「聴漁荘(ちょうぎょそう)」の扁額。

 

宗光といえば、不平等条約として問題のあった「治外法権(領事裁判権)」の撤廃に辣腕をふるった外相として名高い。紀州出身であり薩長土肥の藩閥から外れるためか首相のポストには恵まれなかったが「カミソリ」の異名を持ちスラリとした長身の、西洋人にもひけを取らない好男子だった。美貌の亮子夫人は「社交界の華」と呼ばれ、夫婦ともども西洋人の日本人を見る目を改めさせたことは間違いない。

 

 

 

和室二間続きの応接間に設けられた床(とこ)。格式のある付書院(つけしょいん)をきっちりと配している一方で地袋(じぶくろ)の袋棚(ふくろだな)を斜めに設け、数寄屋の遊び心を取り入れた数寄屋風書院となっている。

 

掛軸は横山大観の筆による「飛泉」。大観は古河家から歓待を受けた御礼として敷地内の日本庭園の滝を描いている。

 

 

 

欄間(らんま)は櫛形。

 

 

 

庭に面した天井寄りの壁には明かり取りの下地窓(したじまど)が開けられている。

 

 

 

縁側の天井部。

 

 

 

縁側より庭園の眺め。

 

 

 

中廊下に設けられた下駄箱。棚板は屋久杉。ガイドさんが扉を開けて見せてくれた内部は、底板が連子格子(れんじこうし)のような簀子(すのこ)状になっている。これは履物に付いた砂を落とすための海辺の別荘ならではの工夫だそうだ。

 

 

 

廊下の網代(あじろ)天井。

 

 

 

ロンドンに宛てて出された手紙が額装されて展示されている。

 

 

 

浴室周りの洗面室。壁に大きな櫛形の下地窓を開けている。浴室周りの設えはこの建物の中でもとりわけ興味深かった。

 

 

 

洗面台は銅製。銅山経営で財を成した古河財閥ならではのもの。

 

 

 

脱衣所。丸窓の書院障子に付書院、そして水屋(みずや)風の水回り。まるで数寄屋造の茶室のようだ。

 

 

 

浴室。保養所として利用されていたため新しいカランが付いている。箱根あたりの高級旅館のよう。

 

 

 

浴室に用いられることも多い、傘天井。湯気を抜くための縦格子を設けた二重天井になっている。

 

 

 

茶の間の床(とこ)。こちらはシンプル。

 

 

 

陸奥邸の庭園へ。

 

 

 

蹲踞(つくばい)。鹿威し(ししおどし)が添えられている。

 

 

 

園路を石灯籠へと下る。

 

 

 

雪見灯籠の前に置かれた、大観腰掛岩。

 

 

 

応接間の床の間に掛けられていた掛軸の滝は、この岩に座って描かれたという。

 

 

 

庭園の滝は現在は水が流れておらず、涸滝になっている。

 

 

 

奥へ。

 

 

 

土俵跡。

 

 

 

古河家三代当主の虎之助は大変な相撲好きで、その実力はプロ級であったという。

 

 

 

バラ園へ。

 

 

 

バラ園。

 

 

 

陸奥邸が古河別邸となって以降、バラが栽培された。ガイドさんの解説によると東京の古河庭園(古河本邸)のバラは当初ここで育てられたものが移植されたという。

 

 

 

上からバラ園を振り返る。

 

 

 

続いて旧大隈重信邸。この建物は「神代(じんだい)の間」の棟。屋根は銅板葺。

 

旧大隈邸は明治30年(1897)に建てられた。関東大震災にも耐え、居室部分は建築当初の貴重な建物が残っている。

 

肥前(佐賀県)出身の大隈重信といえば私学の雄・早稲田大学の創設者として著名だが、政治家としての大隈は波乱万丈。
当初は大蔵卿として財政分野で活躍するも薩長藩閥との権力争いで敗れ下野、国会開設をにらみ立憲改進党を結成する。とはいえ藩閥の重鎮である伊藤からはその力量を買われ伊藤、黒田内閣に外相として入閣。その頃に条約改正案を巡り国粋主義者の爆弾テロに遭って左足を失う。復帰後は藩閥との協力、対立を経て板垣退助の自由党と合流、遂に首相として日本政治史上初の政党内閣を組閣する。

 

 

 

こちらは「富士の間」の棟。屋根はアルミ板葺。

 

旧大隈邸もまた大隈重信から古河財閥に譲渡された。ガイドさんによると東京の本邸が火災に遭い、再建資金捻出のために大磯の別邸を古河財閥に売却したとのこと。屋根は古河財閥の時代に軽量化されている。最新の金属素材は古河の得意分野。

 

 

 

玄関の車寄せ。宴会好きだったという大隈は幾度となく大広間で宴を催し、大隈邸には要人が続々と車で乗り付けていた。

 

なおこの玄関は通例とは異なって西向きに造られている。それは大隈邸の西隣に旧鍋島邸が建っていたため(現在はマンションが建っている。上の写真の背後の建物)。
肥前出身の大隈にとって旧佐賀藩当主の鍋島家はかつての主君であるがゆえ、大隈の鍋島家に対する敬意が形となって表れている。

 

 

 

玄関には丸い大鏡。

 

 

 

この鏡は古河別邸時代に設えられた。

 

 

 

上がってすぐの応接間。

 

 

 

大広間「富士の間」の広縁。二間続きの大広間だけでも26畳、広縁を含めれば40畳ほどにもなる。

 

 

 

大広間の欄間(らんま)には菊の透かし彫り。

 

 

 

大広間に展示されていた襖絵。これは旧伊藤邸の建具(たてぐ)だが旧伊藤邸内部は老朽化により非公開だったためこちらに展示されている。
この襖(湯川松堂画)は伊藤が明治天皇より下賜されたもの。板には「静御前の舞」「太田道灌の鷹狩」「野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の相撲」「後三年の役の源義家」が描かれている。

 

 

 

大広間の床(とこ)。

 

 

 

床柱はサルスベリ。掛軸は伊藤博文による書。

 

 

 

付書院。書院欄間にも菊の透かし彫り。

 

 

 

大広間から眺める庭。何本ものクロマツ、アカマツが植栽されている。マツクイムシにもやられず、よくぞ残った。手入れが良かったのだろう。

 

 

 

「富士の間」と「神代の間」を繋ぐ廊下。ケヤキの一枚板を張り合わせている。

 

 

 

「神代の間」の床(とこ)。床框(とこがまち)の厚みのない踏込床(ふみこみどこ)になっており、床柱は太い竹。

 

宴会好きで豪放磊落な大隈翁にしては随分と枯れた「侘び」の味わいを感じる造りだと思ったら、ガイドさんの説明では元々ここには暖炉があったとのこと。古河財閥の所有に移ってから今の姿になっているので、大隈翁の趣味という訳ではない。

 

戸板には神代杉が用いられている。このように室内には神代杉がふんだんに使われていることから「神代の間」と称されている。

 

 

 

「神代の間」のガラス戸。映り込みに歪みを生じるレトロなガラスとなっている。当時の製法では大きな一枚板のガラスはどうしても歪みが出てしまったのだが、今となってはそれが逆に味わい深い。

 

 

 

木目が美しく浮き出た竿縁天井(さおぶちてんじょう)の天井板も神代杉。

 

 

 

掲げられている額は「喉龍居」か。大隈翁の住処に相応しい名前と思いきや、この額も古河の時代のものだそう。

 

 

 

廊下からの「富士の間」広縁。

 

 

 

大隈邸の庭に置かれた、五右衛門風呂。

 

大隈がこの別邸を建てた当時、湯屋は海沿いの離れに造られていた。この風呂釜はその跡地あたりから発掘された。
通常、釜の底で火を焚く五右衛門風呂には板を沈めて入るが、別邸を建てた当時の大隈は爆弾テロで片足を失っていた。それゆえ動きが不自由であることから下駄を履いて入浴していたのではないか、とある。

 

 

 

大隈邸と陸奥邸の境界あたりにそびえる、枝を八方に伸ばしたクスノキの大木。

 

 

 

クスノキの根元には宇賀大神(うが たいじん)の碑。古河財閥の時代に建碑された。

 

宇賀神は白蛇を祀る信仰の神。水神信仰と結びつくことから七福神の弁財天とも同一視され、商売繁盛の福の神として祀られている。ちなみに鎌倉・銭洗弁天の祭神も宇賀福神。

 

 

 

アカマツの大木。

 

 

 

こちらのアカマツも八方に伸びた枝振りがいい。

 

 

 

最後は旧伊藤博文邸「滄浪閣(そうろうかく)」。この建物は老朽化が著しいとのことで、ガイドツアーでも外観の見学のみ。

 

 

 

伊藤邸時代の滄浪閣。

 

もともとは小田原に「滄浪閣」と名付けられた別荘があったが、明治29年(1896)大磯に新たな別荘が建築された。伊藤は明治30年に大磯に籍を移し、ここを本邸とする。

 

長州(山口県)出身の伊藤は言わずと知れた初代内閣総理大臣。幕末から明治初頭にかけて幾度となく海外に渡航し近代政治体制への造詣を深めていく。そして内閣制度の根幹となる大日本帝国憲法の起草から制定に深くかかわった。

 

 

伊藤の政治家としての後半は国際情勢の荒波の中に在った。日本を取り巻く環境だけを見ても欧米列強に侵食され衰退していく清、中華思想・華夷思想に基づく清との旧秩序維持と近代化との間で揺れる李氏朝鮮・大韓帝国(以下韓国)、不凍港の獲得により東アジアでの経済的権益の拡大を狙う帝政ロシア、それを阻止しようとするイギリス。

 

そうしたなかで伊藤の採ったスタンスは協調路線であった。日露戦争の後に初代韓国統監として半島の行政に深くかかわった伊藤は、日本においても併合派と反対派が両存する中、日清・日露を戦った当時の日本の国力に照らすと日韓併合により日本と朝鮮半島の双方に莫大な予算を投下するやり方では日本と韓国が共倒れになると懸念。韓国の教育の充実と独力による自立的近代化、国力増強を支援する方向を模索する。要はアジアに欧米列強に対抗するための仲間を作りたかったのである。

 

ただ韓国社会では古代〜近世の長きに亘る中華思想・華夷思想に基づく秩序により、そのプライドから辺境と見下してきた日本が韓国の内政に深く関わることを良しとしない勢力も強かった。「帝」が存在するのは中華だけであり周辺国のそれは「王」に過ぎないという、あれである。狭い範囲ながらも当時の西洋(ヨーロッパ大陸諸国)、東洋(東アジア大陸諸国)とは異なる別の支配秩序を確立してきた地域が至近に存在するという事実は認め難かったのだろう。別の支配秩序を持つ地域はこの他にも世界中に無数にあるにもかかわらず。
思うに差別、逆差別と評される現象の根底深くには「兄の私に弟のお前が尽くし兄を丁重に扱うことは当然のこと、お前の成果は私の恩恵の下にある」と儒教を解釈することによる歪んだ優越感とそれを行動の規範としていることが根底に透けて見える行状の数々、そしてそれに対してもよおす「何だそれは、そんなことは知ったことか」という嫌悪感に起因する感情が根強くある。そしてそれらは他者に対する温かい関心とそれに基づく調和とは対極にある。
そもそも伝統とは「変わらない理念を今現在に生かして今を創りあげていくこと」が本旨であり、それにもかかわらず年月の積み重ねという事実に第一次的価値を置き他者を卑下することは国際関係のみならず国内関係においても当たり前のように人の性として見られることであろう。

 

日清戦争により韓国は長きに亘る清との主従関係を脱したが、清に代わって朝鮮半島の支配を目論んだのはロシアであった。日清の戦後処理に対してロシアが中心となって三国干渉を行ったのはこうした背景による。韓国皇帝は清に代わる主としてロシアに接近。このことが日本とロシアの対立、日露戦争へとつながる。ロシアから賠償金を取れなかったことは、伊藤に先の考えをより一層強くさせた。
しかし伊藤の考えとは裏腹に韓国皇帝は日本と距離を置き、ついにはハーグ密使事件を引き起こす。このままでは韓国がロシアに飲み込まれてしまい、ひいては日本の安全保障にも重大な支障をきたすことなると危惧した伊藤は皇帝を退位させた。このことが韓国民の怒りを買い政情は一気に不安定となった。やむなく伊藤は日韓併合の道へと舵を切る。そして歴史はハルビンの悲劇につながっていく。

 

 

韓国にとってはロシアに飲み込まれ新たな中華思想秩序に身を置いた方がそのプライドを保つ上で幸せだったのだろうか。日本としては当時のロシアが目論んだ東アジア支配に対しては英米ときっちり手を結ぶことで国土の無理な拡大を図らずに最低限の権益を守る方が幸せだったのだろうか。その場合、当時の世界情勢の中でロシアと同じく覇権主義によって東アジアでの権益を確固たるものにしようとしていた英米に頼り切ることで、本当に国を守り切れただろうか。歴史にイフはないとはいえ、激動の近代は考えさせられることがあまりに多い。

 

あれから百年以上経過した今、そろそろ彼の国でも伊藤博文に対する再評価の試みがなされてもよいのではないだろうか。学問の自由を標榜する自由主義社会を自認するのであれば、近代史上における様々な事象に対して意に沿う見解だけが「良識派」、沿わぬ解析は「修正主義」などと声高に強弁し社会から抹殺することなく。多角的な学術研究成果に対して司法が機能不全に陥り国民世論という不文律の下で葬り去ってしまうようなことなく。学問知識は人を育てるが、人を驕らせもする。

 

 

 

現在残る建物は大正10年(1921)に滄浪閣が博文亡き後の伊藤家から大韓帝国・李王家最後の皇太子であった李垠(りぎん。イ・ウン)に譲渡されて以降のもの。関東大震災(大正12・1923)で被災後、昭和元年(1926)に旧材を用いて再建された。

 

洋室の棟は妻壁(つまかべ)に妻飾りをあしらい、ベイウィンドウ(張り出し窓)が設けられている。

 

李垠は明治43年(1910)の日韓併合により皇族に準じた「殿下」の敬称を授かる。大正9年(1920)に梨本宮方子(まさこ)と結婚、大正15年(1926)に李王家を承継。日韓の架け橋となる覚悟を腹に据えた両殿下であったが、帝国陸軍将校として終戦を迎えた李垠と方子妃は日本国憲法施行により王公族の身分と日本国籍を喪失した。その後の方子妃は韓国での福祉事業に後半生を捧げ、李垠は没後李王家の宗廟に眠っている。
そもそも主だった近代欧米国家の皇族・王族がいわゆる「植民地」と翻訳される国々の皇族・王族と婚姻関係を結んだ事例を、浅学なだけかもしれないが私は知らない。「植民地」を欧米各国の元となった単語に翻訳して(戻して)伝えた時、欧米人は「ああ、かつての日本人は我々の先人と同じ植民地経営を行ったのだな」と感じるだろう。どんな時代にも必ず一定数は存在する粗野な人間が何らかの威を傘に着て粗暴な振る舞いをするからといって、それで全てを括ろうとするには無理があるにも拘らず。
デリケートな用語は翻訳による対比が概念として正確に一致するとは限らない。例えて言えば、時代によって変容するにもかかわらず全て時代の「征夷大将軍」を「KING」ではなく「GENERAL」などと訳す発想でいくことで(そこには何かに拘る意図が見え隠れする)「幕府は朝廷のペンタゴンだ、○○時代と称するなどおこがましい」などと言う論を披歴して憚らない目線の論者が出てくることと同じである。

 

 

 

洋室棟中央部(食堂)。

 

 

 

内部にステンドグラスが見える。

 

 

 

ベイウィンドウ上部のステンドグラス。

 

 

 

和室棟。屋根に相当傷みが出ている。

 

滄浪閣は終戦後GHQに接収され利用された。昭和26年(1951)には西武鉄道グループの所有となり、今回見学した外観の背後(国道から見える側)から隣接地、海側にかけて大規模に増改築されレストラン・結婚式場として大磯プリンスホテルと一体的に利用されてきた。
ガイドさんによると今後は海側の旧結婚式場は撤去され、老朽化した現存部分(見学した部分)の内部に補修の手が入るとのこと。

 

旧伊藤邸を後にして、旧吉田茂邸(県立大磯城山公園)に向かう。

 

 

 

国道一号沿いに建つ「伊藤公滄浪閣之舊蹟(旧跡)」の碑。

 

 

 

国道一号から小径に入り「大磯こゆるぎ緑地」へ。

 

 

 

右手に見える洋館は旧西園寺邸跡に建つ旧池田成彬邸。今回の明治150年記念先行公開では公開されなかった。平面図を見る限り、かなりの規模だ。こちらの洋館も公開が待ち遠しい。

 

「最後の元老」と称される西園寺公望(さいおんじ きんもち)は明治時代最後の総理大臣。大磯には明治32年(1899)に別邸を建築、伊藤の滄浪閣の隣だったため「隣荘(となりそう)」と名付けられた。
現存する洋館は大正6年(1917)に西園寺から別荘を譲り受けた池田成彬(いけだしげあき。昭和初期の三井財閥総帥、日銀総裁、蔵相)が昭和7年(1932)に建築した。
英米の凄みを肌で感じ取り、身をもって知る実業家の池田もまた「開戦は回避すべき」というスタンスであった。

 

 

 

海が見えてきた。

 

 

 

松林の「大磯こゆるぎ緑地」をゆく。
「こゆるぎ」とは地名の「小淘綾」のこと。大磯町の属する中郡(なかぐん)は古くは淘綾(ゆるぎ)郡と呼ばれた。

 

 

 

 

 

 

 

こゆるぎ緑地の先は西湘バイパス沿いに太平洋岸自転車道をしばらく行く。

 

 

 

旧吉田茂邸の入口は国道一号側のみなので自転車道から適当なところで国道一号に戻り、旧吉田茂邸(大磯城山公園)へ。

 

 

2.県立大磯城山公園・旧吉田茂邸へ

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