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伊豆山神社から日金山・十国峠へ、鎌倉将軍家の足跡


6.十国峠から湯河原へ

5.岩戸山から日金山・十国峠へはこちら。




十国峠(標高771m)から伊豆大島を正面に眺めつつ、湯河原・落合橋へ下山を開始。時刻は午後3時25分ごろ。




姫の沢公園のアスレチック遊具の向こうに見える、初島(はつしま)。
この先は日金山東光寺を経て湯河原分岐まで、岩戸山から来た道を戻っていく。




東光寺。




「日金山頂上」と台座に刻まれた石仏。




出発して10分余り、午後3時35分ごろに泉・湯河原分岐に到着。分岐までの復路は脇目も振らずにかなり飛ばしてきた。




山道を進む。

この道は日金山(ひがねさん)へ各方面から延びてくる「日金道(ひがねみち)」の一つ、湯河原からの参詣路。
先に見てきたとおり日金山は中世以来、死者の霊が集まる地蔵信仰の霊場として多くの人々に歩かれてきた。




四十丁目の丁仏(丁石)。









涸れた沢を丸木橋で渡る。









三十七丁目。









三十五丁目




三十五丁目には大正三年(1914)の石仏と昭和五十六年(1981)の石仏が並んでいる。









三十一丁目。「相洲土肥村(現湯河原町)」と刻まれている。




コンクリート舗装された施設に出た。午後4時ごろ。




ここは泉高区水源地。熱海市泉地区の水道水源地となっている。




この辺りからは、沢に沿ってパイプが引かれている。









二十九丁目。




林道に出た。ここは横断する。




丁仏と同様の体裁で「日金参道」と刻まれた石。




登り方向の案内。




林道を挟んで下り方向の案内。




時おり丸木橋で沢を渡りながら進んでいく。




沢の流れは清らか。









沢は小さな滝を掛ける。









沢から離れたり接したりしながら道は下っていく。




沢沿いの道は気持ちいい。









二十二丁目。




ヒノキ林に西日が差し込んできた。日の長くなってきた季節とはいえ、夕方近い。




「日金登山半程」と刻まれた大きな石仏。ここでちょうど半分。「是従(これより)至頂上地蔵堂二十一丁餘」とある。




西日に照らされるヒノキ林。




二十一丁目。




二十丁目。丁仏は五丁の節目ごとに他よりは少々立派なものが彫られている。




道が石段になった。









再び林道に到着。時刻は午後4時35分。分岐から60分ほどで下りてきたことになる。

ここから残りは車道歩き。




登り口の案内板。




略図。
岩戸山の「奥の院」は岩戸観音。「泉越峠」は伊豆山神社側の岩戸山登山口。

奥の院から岩戸山(鉄塔の建つ地点)への急坂(直登)は地理院地形図にも載っていない、ロープの張られた崖地。山慣れない人が踏み入るのは危険な道、ということになる。




五丁ごとの節目の丁仏と同じ体裁の石仏。

しかし、「右 日金道」はともかく「左 やま道」とはずいぶん大雑把なことだ。これを奉安した頃の「やま」とは岩戸山のことを指すのだろうか。




車道を下っていく。




十七丁目。広い車道に入ると、丁仏は路肩にポツンと立っている。




泉浄水場そばの、十五丁目。




道路擁壁に埋まってしまいそうな十四丁目。




でも丁仏は擁壁からきちんと離してある。




十三丁目。




電信柱は埋まっても、丁仏は埋まらない。




「日金山道丁仏保存会」の標柱。




今度は擁壁の傍ら。




また十三丁目。さっきのは「十三丁目半」だったのが、半の字がなかば埋まって消えたようだ。




西日に照らされる山。




十一丁目。




橋を渡る。




大丁橋(おおちょうばし)バス停。この路線(大丁橋〜湯河原駅)は平日の朝夕一本ずつのみ。




十丁目。こちらは並んで立つ古いものの頂部が欠損し、新しいものが立っている。




岩殿観音下バス停。




七丁目。




日が傾いてきた。




五丁目。もう少し下ると南湯河原バス停。




前仲沢バス停。

坂を下っていく右手には温泉旅館「ホテル東横」への案内看板。湯河原町の万葉公園に隣接するこの辺りから工事のフェンスなどが目立ち始める。




大きな道路擁壁。防災の観点から県道沿いの整備が進められているようだ。




二丁目。あと少し。




五軒町バス停と一丁目半の丁仏。

工事フェンスの向こうは千歳川をはさんで万葉公園。進行方向右手には温泉旅館の大野屋の案内看板。
どうやらこのあたりは道路の拡幅、万葉公園(湯河原町)や泉公園(熱海市泉)などとの回遊性の向上といった観点でのまちづくりが進行している模様。




とうとう一丁目まで来た。




一丁目。




一丁目も古いものは頂部が欠損している。




一丁目は椿寺(身延山湯河原別院)の参道の傍ら。




正面を左へ下りていくと落合橋(標高92m)はもうすぐ。右へ行けば泉公園、日帰り温泉「いずみの湯」。




落合橋のたもとには画像を後で確認すると起点の石仏が立っていた。しかし一丁目を撮って安心し「やれやれ、やっと着いた」と気持ちが飛んでしまい、気付かずに通り過ぎてしまった。




落合橋の架かる千歳川は、橋のすぐ上流で右手の左岸(さがん。河口に向かって左の岸)側から藤木川が合流する(落ち合う)。

千歳川は静岡県(熱海市泉)と神奈川県(湯河原町)の県境となる。
「湯河原温泉」の温泉街は大半が湯河原町に属するものの、千歳川を県境として一部が熱海市泉にまたがっている。熱海市側は「伊豆湯河原温泉」となり独自のウェブサイトも見られるが、事実上は一体化しているようだ。

神奈川県の県境は平野部はともかくとして、山間部では渓谷を横切るところを除いて山梨県・静岡県を通して稜線が県境になっている。
しかしここだけは例外的に河川が県境となっている。そして千歳川の河口付近では左岸の門川(もんがわ。神奈川側)に対して右岸(静岡側)には街が全くと言っていいほど見られないので、尚更泉地区だけが取り残されてしまったように見える。


日金山山頂から湯河原に下りてくる参詣道をここまで辿ってきたわけだが、岩戸山の尾根の北側は行政区画上は熱海市に属するにもかかわらず、大正時代に奉納された丁仏に刻まれた奉納者の住所はほとんどが現在の湯河原町域だった。稜線のこちら側は生活文化圏としては当時から明らかに湯河原に一体化している。

戦国時代、伊豆、相模は北条氏の領国でありいずれにしても北条氏の支配に服していた。北条は伊豆山権現に対して社殿を修造し所領を保証するなど篤く庇護したであろうし、だからこそ伊豆山権現は秀吉の小田原襲来に対して北条とともに戦い、全山焼き討ちの憂き目にあった(伊豆山神社参道の解説板)。では江戸時代はどうか。
江戸後期編纂の地誌「新編相模国風土記稿」巻之32足柄下郡巻之11早川庄土肥宮上村の項によれば「南方豆相の国界は古と大に異り」とある。「古は西は日金峠より祭神向尾弦通り、東は鳴沢石引道の辺に至るまで皆当国(相模)の属なり」だった。「然るに元禄十一年(1698)、伊豆山(権現)領と小田原(藩)領と国界の争論ありて、(幕府による)裁許の時門川(新編相模編纂時は藤木川。現在は千歳川)を豆相の国界と定め」たとある。「されど古来の如く、その地の租税山林以下総べて小田原領主の所務となし、唯其の地のみ伊豆山領に属せしなり」となった。こうして泉地区は「小字 和泉(泉) 藤木川(千歳川)の対岸豆州の属にあり」となる。
概念上は土地が伊豆山領に帰属するとしても、人々が里山を管理し薪炭を採る、租税を領主に納めるといった生活実態は数百年来のままに変わることはなかった。
これが近代になると廃藩置県による県域の変遷(小田原県と韮山県から足柄県へ、そして神奈川県と静岡県へ)により、湯河原・泉地区の帰属は二転三転する。

本来ならば日金山(十国峠)から箱根・鞍掛山に向かう稜線の東側、日金山から岩戸山、七尾峠を経て門川地区(湯河原町)へ下る稜線の北側は一括して湯河原町に属することにしてもよさそうだが、近代以降の県への帰属を巡る諸事情により現在の様になってしまったようだ。




落合橋バス停。

時刻は夕方の5時20分。赤い欄干の橋を渡ると湯河原温泉観光会館。ここは万葉公園の入口の一つとなっている。

公園内には「あしかりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに(足柄の土肥の河内に出づる湯の 世にもたよらに子ろが言わなくに)」という万葉歌碑がある。土肥(郷)とは湯河原(町)のかつての呼び名。万葉集において地名の詠われた古湯は数あれど温泉の湧出そのものがが詠われたのはこの歌が唯一、とされる。また足湯「独歩の湯」、町営日帰り温泉「こごめの湯」も近い。
「いづるゆの」は万葉仮名では「伊豆流湯能」という漢字が当てられる。よもや、これをもって「万葉の時代からこの地は伊豆だった」という理屈が通ったのではあるまいな。

当初の予定では万葉公園にも寄ろうかと思っていたが、なかなか予定通りにはいかない。結局こんな時間になったのでこれでお終いにして湯河原駅へ。


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