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大山周遊〜伊勢原日向から大山見晴台、大山表参道へ


平成30年(2018)1月中旬、大山(1252m)中腹の見晴台(765m)に登る。東麓の伊勢原・日向地区から大山中腹をトラバース(横断)し南麓の大山地区をこま参道から三の鳥居へと歩いて古刹、滝を巡っていく。

1.浄発願寺、石雲寺、浄発願寺奥ノ院




小田急・伊勢原駅北口発の神奈中バス終点「日向薬師(ひなたやくし)」バス停付近。標高およそ155m。時刻は朝の9時15分ごろ。

まずは日向地区の古刹をめぐってから大山中腹の見晴台(みはらしだい)を目指す。




日向林道から薬師林道を分ける。薬師林道は日向薬師(宝城坊)本堂裏の駐車場に通じている。




振り返れば朝の逆光の中で浮かび上がる、横浜ランドマークタワー(296m)のシルエット。




古道・日陰道(ひかげみち)への橋を通過。




日向渓谷を奥へと進んでいくと、浄発願寺(じょうほつがんじ)の三重塔が忽然と現れた。









天台宗弾誓派・無常山一之澤院浄発願寺。




開山は木食(もくじき)遊行の開祖、弾誓(たんせい)。浄発願寺公式サイトによると弾誓が当初の境内であった現在の奥ノ院の岩窟にて念仏を修したのが慶長十三年(1608)。感銘を受けた家康が帰依し、広大な寺領が与えられたとされる。

元の伽藍(現在の奥ノ院)は昭和13年(1938)の台風による山津波で崩壊。復旧が困難であったため昭和17年(1942)に現在地に再建された。




本堂。




立派な木造三重塔は現代の匠の手により平成十二年(2000)に竣工。




軒には複雑な三手先(みてさき)の組物(くみもの)。中世密教寺院の和様(わよう)建築となる中興塔が建立された。ここから先、浄発願寺の歴史が新たに刻まれていく。




大きな地蔵菩薩坐像。




浄発願寺を後にして先へと進んだ道を左に折れて御所の入橋(ごしょのいりはし)を渡り、大友皇子の墓所へ。




大友皇子の墓所。




現地の案内には複製(レプリカ)の石塔を制作中とある(平成30・2018年1月現在)。
オリジナルの五層塔は1300年代前期(鎌倉末期〜南北朝期)の建造と考えられており、この墓所は供養塔ということになろう。周りには従者のものと伝わる五輪塔(ごりんとう)が数基建つ。この地の豪族はどのような縁で石塔を建立したのだろうか。




大友皇子(おおとものおうじ。天智天皇の皇子。近江大津宮・近江朝廷の主宰)は壬申の乱(672)で大海人皇子(おおあまのおうじ。天智天皇の弟。後の天武天皇、飛鳥浄御原宮にて即位)に敗れ自害した。

大友皇子には壬申の乱ののち東国に逃れたという伝説がある。この碑文にはそうした経緯が刻まれている。なお、ここ伊勢原市日向・石雲寺に伝わる伝承のほか千葉県君津市にも大友皇子の伝承が存在する。




橋に引き返し、杉林の中を先へと進む。




日向渓谷の渓流。




曹洞宗・雨降山石雲寺(うこうざん せきうんじ)。




大友皇子の墓(日向渕ノ上石造五層塔)の解説板。




石雲寺の公式サイトによれば創建は奈良時代の養老二年(718)。当初は法相宗であった。開山は華厳妙瑞(けごん みょうずい)。
そして先に訪れた大友皇子の墓所は、里人から大友皇子がこの地で亡くなったことを聞いた華厳が皇子の菩提を弔うために陵墓を整えたとされる。五層塔は従者の子孫が建立したと伝わる。

禅宗の曹洞宗となったのは室町時代の中期。中興開山は天渓。戦国時代の天文十二年(1543)には北条幻庵(ほうじょう げんあん。宗哲)から御朱印(印判状)を拝領し、寺院としての基盤が整ったとされる。
北条幻庵は初代早雲(伊勢宗瑞)の四男。兄である宗家第二代氏綱以下氏康、氏政、氏直を長老として支え、秀吉による小田原征伐の直前となる天正十七年(1589)まで長寿を全うした。幻庵の縁者は小田原城の重要な支城である小机城(こづくえじょう。横浜市港北区)の城主に就任している。




石雲寺本堂。「雨降山」の扁額が掛かる。




大棟(おおむね)に見られる寺紋は「五七の桐(ごしちのきり)」。五七の桐は皇室の紋。華厳が亡き大友皇子を開基として当寺を開山したという伝承に因むのだろうか。




石雲寺の由来碑。

御神体である雨降石は江戸時代の初頭に雨降山大山寺(あぶりさん おおやまでら)との争奪戦が起こり、石雲寺本堂は大山寺の衆徒によって焼かれてしまったという。




先へ進む。




クアハウス山小屋。立ち寄り湯も営業しており、大山から日向側に下山した場合の日帰り入浴に便利(公式サイトを参照)。




駐車場の脇あたりから浄発願寺奥ノ院へ。標高およそ295m。見晴台に登る前に、こちらに立ち寄っていく。




浄発願寺奥ノ院の案内板。

昭和13年(1938)の台風による山津波で堂宇が壊滅するまでは、浄発願寺はこの地が境内だった。




浄発願寺は近世には徳川将軍家をはじめ尾張徳川家、佐竹氏、黒田氏など有力大名の庇護を受け、隆盛を誇った。




宝篋印塔(ほうきょういんとう)。案内板によれば江戸時代の初期、尾張徳川家正室を弔うために建立された。大正12年(1923)の山津波(関東大震災か)で流失、昭和5年(1930)に再建された、とある。




門前に六地蔵が立つ、山門跡。




参道は山道。




大きく根を張る、ケヤキの大木。




参道沿いには多くの石仏・石塔が見られる。




首のない地蔵像。首は丸い石で補修されている。

奥ノ院参道の地蔵像はその全てに元々の首がなく、ちょっと異様な雰囲気がある。鎌倉あたりの弘法大師石像には博徒たちが験担ぎのためにその首を持ち去ったという話があり、ここもそういった類の話があるのだろうか。あるいは明治初頭、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で破壊されたのか。




山深い奥ノ院。




五十三段の石段。53人の罪人たちが幕府から寺に預けられ、罪滅ぼしのために一人一段ずつ築いたとされる。山津波の被害に遭っているが平成3年(1991)に再建された。脇には岩盤を掘った枯滝のような水路が通っている。

江戸時代まで、浄発願寺は罪を犯した男たちの「駆け込み寺」だった。殺人・放火といった重罪でなければ、ここに駆け込むことで助かることができた。




浄発願寺奥ノ院・本堂跡。標高およそ350m。




案内板。




堂宇跡の平面図と堂宇見取図。




堂宇跡から先は急傾斜の登山道となる。落葉の積もる冬場はとても滑りやすい。




「三界萬霊」と刻まれた、無縁仏を供養する石塔。その先には鐘楼跡。




堂宇跡を見下ろす。




更に山道を登っていく。




奥ノ院の岩窟前。標高およそ370m。




開山の弾誓上人が修行したという岩屋。




奥には多数の墓石が並んでいる。




多数の無縫塔(むほうとう。卵塔)は歴代住職の墓。こちらも山津波で埋没していたものが平成3年(1991)に発掘され復元された。




案内板。


岩屋前から引き返した反対側の山道は日向薬師・日向山(ひなたやま)方面に向かう山道。道が明瞭とは言えず安易な入山は道迷いによる遭難の危険があるので、地形図を携帯しない状況で入山することは控えたい。




林道に下りて戻り、大山中腹・見晴台へ。


2.日向から大山中腹・見晴台、大山阿夫利神社下社へ。  森歩き山歩きトップに戻る。