まちへ、森へ。

三島から箱根八里・西坂

4.箱根峠から箱根関所へ

 

3.箱根旧街道・西坂歩きはこちら。

 

 

標高846m、国道一号・箱根峠。時刻は午後3時15分ごろ。
ここは箱根旧街道(箱根八里)西坂の起点・終点。ここからは石畳や杉並木の残る向坂地区(旧街道東坂)を経て箱根関所へと下っていく。

 

信号を渡り、反対側へ。「箱根くらかけゴルフ場」への進入路を横切り、箱根新道インターチェンジ方向へと進んでいく。

 

 

 

国道一号の路肩はあまり広くない。ここはまだ広い方。

 

 

 

箱根峠バス停。こちらは元箱根港から三島駅方面のバス停。

 

反対車線側には「三島駅南口発元箱根港行」の箱根峠バス停がある。

箱根旧街道西坂を三島方面へ下るウォーキングの出発点として三島駅南口発の路線バスで箱根峠バス停まで来てしまうと、降りたところは非常に狭い路肩。しかも箱根峠の信号まで引き返していく途中で、芦ノ湖スカイライン(自動車専用道)への入口・出口進入路(信号・横断歩道なし)を横切らなければならない。

 

 

 

左手に箱根新道(国道1号バイパス。自動車専用道)への進入路を見ながら、まっすぐ進んでいく。

 

 

 

さらにまっすぐ行くと、箱根新道からの出口伝いに箱根新道に入ってしまう。ここは青看板の見えるあたりで左へカーブする国道一号に渡る。信号も横断歩道もない。

 

 

 

国道一号の路肩はどちら側にしても狭い。交通量も多いので細心の注意が必要。画像のこちら側はカーブを背後から走ってくるクルマからの見通しがあまり良くなさそうで危ない。この画像は、反対車線の側をこのあたりまで来てからこちら側に横断して撮影した(小走りで渡ったら軽く足攣っちまった)。

 

右側に見える箱根新道への進入路のすぐ先に旧街道への標柱が立っている。

 

 

 

旧街道・向坂(むこうさか)地区への下り口。なお歩道の先は「道の駅・箱根峠」に通じている。

 

 

 

関所方面から旧街道・向坂を登ってきた人がここから箱根峠に向かうには、ここまで見たように交通量が多くて路肩が狭く、しかも横断歩道・信号のないちょっと危ない道を進まなければならない。

 

小田原側の東坂と三島側の西坂を通しで歩く人はそう多くはないのかもしれないが、旧街道歩き旅をする人たちの安全がもう少し確保されていれば、と思う。

 

 

 

関所方面から東坂の最後となる向坂地区を歩く人は坂を上りきったところから道の駅〜箱根やすらぎの森方面を周遊し、箱根峠には向かわない人が多い、という前提で整備が先送りになっているのかもしれない。

 

 

旧道の急な木段の山道を箱根宿・箱根関所方面へ向けて下っていく。

 

 

 

向坂地区は挟石坂(はさみいしざか)、風越坂(かざこしさか)、釜石坂、赤石坂、向坂(むこうさか)と続き、宿場町の鼻となる芦川(あしがわ)地区へと抜けていく。

 

向坂地区には石畳と「向坂地区の杉並木」が往時の状態で残されている。

 

 

 

鬱蒼とした森の中、杉の大木が並木となって続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

杉の大木が狭い石畳に迫るように立ち並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

箱根旧街道(東坂)には江戸時代からの杉並木が合わせて四か所に残っている。そのうち、ここ「向坂地区の杉並木」は江戸時代の古道の雰囲気を最も色濃く残している杉並木。

 

 

 

 

 

 

この感じは他の地区の杉並木ではちょっと味わえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国道一号の下をくぐって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まもなく芦川。

 

 

 

芦川の石仏石塔群。巡礼供養塔、庚申塔。

 

 

 

解説板。

 

巡礼供養塔は、江戸時代に盛んだった霊場めぐり(坂東三十三箇所など)のために地域で講(こう)を組み、巡礼の後で記念として建てられた。
庚申塔は、庚申信仰が盛んだった江戸時代に地域で庚申講が組織され、その供養のために建てられた。

 

 

 

芦川地区に出た。時刻は午後4時ごろ。

 

この辺りはもう箱根宿の鼻。芦川地区は集落の成り立ちとしては宿場中心部よりも古く、鎌倉古道の時代から成立していた。

 

 

 

駒形神社。

 

 

 

芦川入口。

 

 

 

角に建つ石仏の祠。

 

 

 

「かどの地蔵さん」と呼ばれたこの二体の石仏は、その昔箱根の人々も信仰した地蔵信仰の霊場・伊豆の日金山(ひがねさん)に怪我や病気で参拝できない人のために祀られたそうだ。

 

参考「改訂新版 箱根を歩く」

 

 

 

箱根宿。

 

関所の京口側に箱根宿が設けられたのは他の宿場よりも一足遅く、元和四年(1618)。始めに小田原宿と三島宿から住民を移住させて、小田原町(小田原藩支配)と三島町(幕府直轄地の三島代官支配。のちに韮山代官)が造られた。このような二元支配の宿場町は珍しく、東海道では箱根のみだった。
宿場町はその後の発展にともなって芦川町、新町、新屋(新谷)町の三町が加わった。芦川町は中世の鎌倉時代から集落があった古い町。新屋町は関所の江戸口側に位置し、十五軒ほどの茶屋があった。

 

本陣は六軒もある(多いとされる小田原でも四軒、三島は平均的な二軒)。宿場の規模に比して本陣が非常に多いのは、箱根越えが負担であった大名行列を想定して設けられた宿場であったため。旅籠もそのほとんどは行列に随行する足軽などが泊まるためのものだろう。
関所の開門は夜明けから夕暮れまで。庶民にとっては三島宿なり小田原宿なりを早朝に発って明るいうちに箱根関所を超えないと、山のなかをうろつく追剥・盗賊とかが物騒だったのではないか。

 

箱根における宿場の人々はそのほぼ全てが宿場に関連する職業についていた。箱根は気象条件が厳しく田畑は皆無。大部分の人々は旅人が宿場に落とす僅かな収入で生活し、過重な宿場の雑務を担っていた。
そのような厳しい環境における宿場機能を維持するため、幕府は宿場町一般に課している負担について箱根では積極的に減免していた。

 

参考「神奈川の東海道(上)」

 

 

 

「東海道名所風景 箱根」一光斎芳盛
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

箱根宿をゆく騎乗の貴人を描いた浮世絵。

 

 

 

明治期の箱根宿。
画像出典「日本之名勝」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

 

箱根宿の中心部。お正月に箱根駅伝往路のゴール・復路のスタートのドラマが繰り広げられるあたり。

 

 

 

宿場町(旧東海道)の道筋は国道一号から湖の側へと折れて関所へと続く。

 

 

 

箱根関所前から国道一号小田原方面を見ると、現在の道路は切通(きりどおし)となっている。こうして見ると山肌が切通しで削られる以前、関所は山の斜面と湖に挟まれた狭いところに置かれていたのが分かる。

 

 

 

関所手前の宿場町。

 

 

 

箱根関所に到着。時刻は午後4時15分ごろ。資料館の拝観受付に何とか間に合った。

 

ここは京口千人溜(きょうぐち せんにんだまり)。旅人が関所改めを待つ間に滞留した広場。

箱根関所は長い間、国指定史跡の「箱根関所跡」だった。かつては現在の足軽番所の側に、昭和40年(1965)に「大番所」を模して建てられた「御番所」の建物が建っているのみだった。それが平成19年(2007)3月、山側の地形も含めて完全に復元され、甦った。

 

史跡にかつて存在したとされる建物は通常、明確な資料がない限り復元は認められない。箱根関所でそれが可能になったのは昭和58年(1983)、静岡県韮山(にらやま)の「江川文庫」(韮山代官の古文書)で幕末の関所解体修理報告書「相州箱根御関所御修復出来形帳」が発見されたため。資料の解読、発掘調査を経て復元が実現した。

参考・「箱根関所通行手形(関所パンフレット)」「神奈川の東海道(上)」「改訂新版 箱根を歩く」

 

 

 

京口御門(きょうぐち ごもん)。

 

 

 

山裾と芦ノ湖に挟まれた関所。尾根に向かって柵が延び、上には遠見番所(とおみばんしょ)が造られている。

 

遠見番所は湖を見下ろす絶景ポイント。このときは足も疲れ、どんよりした空模様で雨もぱらつき始めていたので登らず。

箱根山を超える街道は東海道の他にも古代からの足柄路(あしがらみち)など幾つかの脇街道があった。そして、それぞれに脇関所が置かれていた。
海側には根府川(ねぶかわ。小田原市)。箱根北部には仙石原(せんごくはら)、矢倉沢(やぐらさわ。南足柄市)。そして北麓には川村(かわむら。山北町)、谷ケ(やが。山北町)。こうして面的な監視体制が敷かれた。

参考「神奈川の東海道(上)」

 

 

 

足軽番所(あしがる ばんしょ)。

 

 

 

足軽番所には関所に勤める足軽が詰めていた。

 

 

 

足軽番所の建物内にある獄屋(牢屋)。スタッフの方が「中に入って記念撮影してくださいねー」と観光客に声掛けをしている。

 

 

 

大番所・上番休息所(おおばんしょ・かみばんきゅうそくじょ)。女の旅人の髪を改める人見女(ひとみおんな)がちらりと見える。

 

 

 

上の間(かみのま)。上級の役人が執務する空間。弓、鉄砲がずらりと並ぶ。

 

 

 

江戸時代の関所は江戸への「入鉄砲(いりでっぽう)」、江戸からの「出女(でおんな)」を厳しく取り締まったとされるが、箱根では「鉄砲改め」はなく「出女」を厳しく取り締まった。

確かに「公共の安寧」を脅かすほどの大量の武器を、わざわざ厳しい山道の箱根路を越えて江戸に持ち込もうというのは合理的ではないように思える。街道各地に設けられた陸の関所ごとに役割分担はあっただろうが、「鉄砲改め」はむしろ積荷のチェックとして「廻船改め」を行った浦賀番所(浦賀湊。横須賀市)のような「海の関所」の仕事ではなかろうか、とも感じる。

「出女」については、江戸時代初期であれば人質にとった大名の奥方が国元に帰ろうとするのを厳しく取り締まることに意味があった。しかし幕府権力が安定した時代になっても「出女」の取り締まりは相変わらず厳しかった。封建的な世の中、たとえ庶民であっても女性にとって関所を越えて旅をすることは大変な時代だった。

 

 

 

史跡としての制約を受けていた時代を経て、本来の芦ノ湖側に甦った大番所。

 

 

 

京口御門を入ってすぐのところに建つ、厩(うまや)。

 

 

 

 

 

 

 

大番所の裏手となる台所。役人の身の回りの世話をしたり馬の世話をする「中間(ちゅうげん)」が詰めていた。

 

 

 

江戸口千人溜(えどぐち せんにんだまり)から江戸口御門(えどぐち ごもん)を見る。

 

 

 

関所の江戸方面、「恩賜(おんし)箱根公園」駐車場の側には「箱根旧街道・新屋(新谷)町地区の杉並木」が残っている。

 

 

 

杉並木の芦ノ湖側を抜け、箱根関所資料館へ。

 

 

 

資料館。見学は午後5時まで。

 

背後に並ぶ、杉並木。

 

 

 

江戸から見て関所の手前となる新屋町地区には、茶屋が十五軒ほどあった。茶屋では関所通行の作法を旅人に手引きし、手形の不備は茶屋の主人にチップをはずむと関所の役人に掛け合って通してもらえたという。

 

参考「改訂新版 箱根を歩く」「神奈川の東海道(上)」

 

 

 

京口から宿場町へ戻り、バス停へ。

 

 

 

伊豆箱根バス「箱根関所跡」バス停。双胴船「箱根関所跡港」のりば前のバスターミナルにある。
小田急系のフリーパス(箱根登山バスに乗車できる)を利用していなければこちらに乗車してもいい。

 

土曜日のこの日、乗ったのはノンストップで山を下る「バイパス経由小田原駅行」の最終バス(午後5時17分。2017年7月現在)。しかも伊豆箱根バスの最終バスはバイパスを山崎で降りたあと湯本駅に寄らない。というわけで、一本前(午後5時発)の「小涌園経由小田原駅行」を飛ばしても、バイパス経由の方が小田原到着は早い。

 

乗車前にここが始発となる小涌園経由小田原駅行の乗務員さんと話をしたが、意外なことにこの便で湯本から小田原の間で渋滞につかまることはお祭りでもない限りまず無いので、湯本駅で電車に乗り換える必要はないとのこと。週末は年中混んでいるような印象がある湯本〜小田原間だが、そうでもないらしい。
むしろ時間が読めないのは小涌谷あたりで渋滞につかまってしまう場合。電車への乗り換えを考えなければならないのはそちらの場合ということだそうだ。

 

 

 

小田急・小田原駅からはロマンスカーに乗車。ロマンスカーを代表する車両「VSE」に乗車できたのは初めて。乗ったのはタイミングよく海老名駅停車の電車。

 

今回はおよそ3万歩、18qの旅。リクライニングを倒して足をマッサージしながら、途中ノンストップの快適な帰路となった。

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