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材木座から小坪へ、海の鎌倉


好天に恵まれた平成29年(2017)の大型連休後半。鎌倉・材木座(ざいもくざ)界隈の古刹をめぐりながら浄土宗大本山光明寺、古都鎌倉の湊・和賀江津(わかえのつ)、小坪(こつぼ。逗子市)界隈を歩く。

1.由比若宮(元八幡)と材木座界隈の社寺




朝の10時過ぎ、鎌倉駅東口。




若宮大路(わかみやおおじ)を「下馬(げば)」へ。




下馬のスクランブル交差点から鶴岡八幡宮方面を見る。ここは若宮大路と大町大路(おおまちおおじ)とが交差する四つ辻(よつつじ。四ツ角、十字路)。明治22年(1889)に横須賀線が開通するまで、若宮大路の段葛(だんかずら)はこの下馬四ツ角まで続いていたという。

鎌倉時代、鶴岡八幡宮に参詣する者はいかに身分の高い武士であってもここで馬を下りた。また若宮大路を横切るときも馬を下りて八幡宮に礼拝しなければならなかった。
江戸時代にはこのあたりに駒止の柵が設けられ、八幡宮への馬の乗り入れは禁じられていた。それだけ、鶴岡八幡宮は鎌倉における聖域であった。
幕末の元治元年(1864)イギリス人士官が浪人に殺傷された事件(鎌倉事件)はこのあたりで起こっている。襲った犯人は捕えられて横浜・戸部の刑場で処刑された




大町大路を大町四ツ角に向かうと、すぐに滑川(なめりかわ)を渡る橋。




橋を渡った右手に建つ、浄土宗帰命山延命寺(きみょうざん えんめいじ)。鎌倉幕府第五代執権北条時頼(ほうじょう ときより)の夫人が建立したと伝わる。
このお堂は屋根の妻壁(つまかべ)の側を正面として向拝(こうはい。せり出した屋根)が付けられており、お寺としてはちょっと変わった造り。




大町大路を進む。




大町四ツ角。ここで右折して「元八幡(由比若宮)」へ向かう。




踏切を渡り最初に交差する小道。ここを右に入っていく。




途中に「石清水(いわしみず)の井戸」。




奥に朱の鳥居が建つ。




「由比若宮(ゆい わかみや。元八幡)」。平安時代、由比ヶ浜は内陸のこの近くまで入り込んでいたとされる。




流造(ながれづくり)の拝殿はそれほど大きくはない。

ここは鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)の起源となる社。平安時代の康平6年(1063)、前九年の役(ぜんくねんのえき。1051〜1062)に勝利した源頼義(みなもとのよりよし)が山城国(現京都府)石清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)の祭神を勧請して社を造った。先の「石清水の井戸」は石清水八幡宮とのつながりを思い起こさせる。

元八幡が創建されるまで、鎌倉は平直方(たいらのなおかた)の支配地であった。

平直方は桓武平氏の嫡流。関東で勢力を張っていた傍流の平忠常(たいらのただつね。坂東平氏)が朝廷に対して反乱を起こし、直方はその追討のために派遣された。直方は鎌倉を拠点として鎮圧に乗り出すものの、三年掛けてもこれに成功することが出来ずにその役目を解かれた。
代わって派遣された源頼信(みなもとのよりのぶ)に対し、戦乱で疲弊していた忠常は降伏。後に直方は頼信の嫡男頼義を娘婿に迎え、その嫡男義家(よしいえ。八幡太郎)に鎌倉の地を譲り渡したのである。

それまで坂東平氏の流れを汲む一族が各地を支配していた関東で、この地は源氏が関東に足掛りを得た最初の場所となった。

義家以降、摂関政治から白河法皇の院政に時代が移るなかで源氏はその勢力を削がれ、東国での覇権を失っていく。その勢力挽回に成功したのは東国に根を下ろした源義朝(みなもとのよしとも。頼朝の父)であった。しかし、平治の乱(1159)で源義朝が平清盛(たいらのきよもり)に敗れると鎌倉における源氏の力は再び衰えてしまった。それを再興したのが源頼朝(みなもとのよりとも)となる。

治承4年(1180)には頼朝が社殿を現在の鶴岡八幡宮・若宮のあたりに移した。その社殿は建久2年(1191)に火災で焼け、現在の上宮(かみのみや)の位置に新たな社殿が建てられた。それは鶴岡八幡宮を平安京の内裏に、若宮大路を朱雀大路に見立てた頼朝による武家の都づくりの一環であった。

参考 「鎌倉歴史散歩」奥富敬之著。




義家旗立ての松。空洞の切株が残る。
義家は社殿を修築し、源氏の氏神として八幡神を崇敬した。

通りへ戻り、先へ。




水道路の交差点を過ぎてしばらく進むと、妙長寺(みょうちょうじ)。日蓮の像が立っている。




日蓮宗海潮山妙長寺(かいちょうざん みょうちょうじ)。

当初は材木座の沼ヶ浦という地に建てられていた。そこは伊豆に流される日蓮を乗せた船が出たとされるところ。
現在地は天和元年(1681)の大津波からの再建にあたり移転してきた場所となる。




妙長寺を過ぎたすぐ先に「乱橋(みだればし)」が架かる。橋といってもほとんど道路と一体化しており見落としてしまいそう。橋のたもとに案内碑が建っている。




乱橋の名は、鎌倉時代末期の新田義貞(にったよしさだ)による鎌倉攻めの際に幕府方の守りがこのあたりで崩れ乱れたという伝承による。




乱橋を過ぎて二つ目の角を左に入る。




奥の突き当りに建つ、日蓮宗弘延山実相寺(こうえんざん じっそうじ)。




実相寺の境内は鎌倉時代の初期に「曽我の仇討ち」で曽我兄弟に討たれた工藤祐経(くどうすけつね)の屋敷跡とされる。工藤祐経の孫にあたる日昭(にっしょう)が法華堂を立てたのがその起こり。




実相寺の門前。この道は山の際(きわ)を通る古道。この古道は若宮大路と平行に近いかたちで通っている。




実相寺から内陸の方向へ少し行くと、五所神社。




奥行きのある参道。




五所神社は明治末期、町内の五つの神社を合わせて祀ったのが起こり。




境内に建てられた板碑(いたび)。




板碑には仏さま(ここのものは不動明王)を表す種子(しゅじ。梵字)が刻まれ、弘長二年(1262)の銘が確認されている。すぐ近くの観応寺が廃寺となった際に移設された。




五所神社からさらに先へと進むと、時宗随我山来迎寺(ずいがざん らいこうじ)。




来迎寺は初め真言宗の能蔵寺といい、後に時宗に改められた。

能蔵寺は源頼朝が三浦義明(みうらよしあき)の霊を弔うために建てた。三浦義明は平安末期、源頼朝につき従った武将。

坂東平氏の流れを汲む三浦氏は相模国三崎荘(三浦市)を拠点とする大武士団。その嫡流は代々荘園を管理する在地の長として「三浦介(みうらのすけ)」と称し、義明は自らを「大介(おおすけ)」と名乗った。治承4年(1180)に頼朝が挙兵するとこれに呼応。当時はまだ平氏方にあった畠山重忠の軍勢と戦い、三浦半島の衣笠城(きぬがさじょう。横須賀市)で討死した。時に義明八十九歳。




三浦義明の墓と伝わる五輪塔の供養塔。

隣りの多々良三郎重春は義明の孫。衣笠城の決戦に先立つ由比ヶ浜の合戦で討死した。




来た道を戻ってその先へと進む。




実相寺、五所神社、来迎寺の背後に連なる山。




根元に地域稲荷の祀られたタブノキのところで右折、バス通りに戻る。




海側に向かって進む。




丁字路の角が九品寺の敷地。山門、本堂が見える。




浄土宗内裏山九品寺(だいりさん くほんじ)。




九品寺は新田義貞(にった よしさだ)による創建と伝わる。新田義貞は鎌倉攻めの際にここに本陣を構えたとされ、北条氏が滅亡した後に北条方の霊を弔うために九品寺を建てた。




本堂。鎌倉で新田義貞が建立したとされる寺は九品寺が唯一。




初夏のころ、咲き乱れる一重の白薔薇。




枝振りのよいクロマツ。




九品寺から先へ進むと、海が見えてきた。道は左手にカーブする。




カーブした先すぐの左手の道を奥に進むと補陀落寺。




真言宗南向山補陀落寺(なんこうざん ふだらくじ)。源頼朝により養和元年(1181)に建てられた。往時は七堂伽藍の大寺であったという。

この寺には壇ノ浦の合戦で平宗盛(たいらのむねもり)が最後まで所持していた「平家の赤旗」が頼朝により奉納されたといい、寺宝として伝わっているそうだ(非公開)。




バス通りに戻り光明寺へ向かう。




大本山光明寺の総門が見えてきた。


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