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八王子城跡


平成29年(2017)の四月下旬に差し掛かったころ、小田原北条氏の支城「八王子城跡」を歩く。




多摩森林科学園を後にして、JR高尾駅北口発「八王子城跡行」の西東京バスで八王子城跡に向かう。

時刻は昼の12時少し前。土日祝日は八王子城跡ガイダンス施設に隣接するバス停まで路線バスが運行する。森林科学園バス停から日中は毎時02分発。




ガイダンス棟。東京造形大の跡地に平成24年(2012)に建てられた。このあたりで標高およそ230m。

ここでガイダンス施設パンフレットと見どころ解説付きイラストマップ、八王子城縄張図(なわばりず。城郭の詳細な配置図)を入手する。




ガイダンス棟の隣りは駐車場・エントランス広場。




園路の脇。土塁・空堀のように整備されている。




エントランス広場。四阿(あずまや)の下には八王子城跡の立体模型が展示されている。




立体模型。 拡大版(文字加工はサイト管理者)。

八王子城は関東山地の末端にあたる標高460mの深沢山(ふかざわさん。ふかさわやま)に築かれた。山頂に本丸を配置、山麓には城主の居館となる御主殿(ごしゅでん)が置かれ根小屋(ねごや。城下の居住地区)が築かれた。




史跡区域を示した全体図。

これだけの山城が大がかりな開発の手を逃れて存続し得たのは、戦国末期の落城後徳川の時代には天領として、明治以降は国有林として保全されてきたのが大きい。
戦中には相当な木々が伐採され、戦後は幾つかの開発が見られるが主要な部分が改変されることは無かった。




管理棟へ。




案内板。尾根が赤く、谷が青く色づけされている。




八王子城の歴史と北条氏照。




八王子城の構造。




縄張図(なわばりず)。縄張は城の設計プラン。




滝山城イメージ図。
滝山城(八王子市丹木町)は北条氏照(ほうじょう うじてる)が八王子城を築く前に居城とした平山城。

小田原北条氏宗家第三代氏康(うじやす)の子であった氏照は、関東管領山内上杉氏(やまのうち うえすぎし)の没落後に北条氏の軍門に下った滝山城主・大石氏の婿養子となる。氏照はやがて家督を継ぎ、姓を北条に復した。永禄元年(1558)頃に滝山城は氏照により大改修され永禄2年(1559)に氏照が城主となった、とされる(滝山城の築城時期に関しては大石氏の拠点であった由井城との関連で異説がある)。

平山城であった滝山城は武田信玄による小田原遠征(永禄12・1569年)の途上、武田軍の猛攻にさらされて落城寸前まで追い込まれた(小田原遠征については三増合戦を参照)。この合戦を機に氏照はより防御力を強固にする必要性を感じ、これが八王子城を新たに築城し移転するきっかけとなった。八王子城が存在したのは、1500年代およそ100年に渡った戦国時代の最末期ということになる。




管理棟前から御主殿(ごしゅでん)跡へ向かう。




御主殿周辺(居館地区)の解説掲示。




観音堂への参道となる橋、石段は立入が制限されている。




林道を進む。こちらの道は江戸時代以降に造られたもの。




橋で対岸に渡ると、古道エリア。




河岸の中腹に道が付けられている。道は堀切(ほりきり)で切られ、木橋が架けられている。




大手門跡。案内板によれば、発掘調査により礎石が発掘され薬医門(やくいもん)の形状の門があったと推定されている。




薬医門の例(画像は三溪園・内苑入口の御門)。突き出した梁(はり)に桁(けた)を載せることで屋根がせり出した印象になる。




古道は城下から御主殿に至る大手道(おおてみち)であった。大手門跡から下流方向の城下に道が延びていた。




大手門跡まえから上流の御主殿方面を見る。




大手道を進む。




曳橋(ひきはし)。




橋は城山川を跨いで御主殿へと連絡する。御主殿の建つ曲輪(くるわ)は発掘調査により石垣が発見された。城跡整備にあたり、発見された石垣部分を元に城郭が構築されている。




城跡整備にあたり、見学者のための立派な木橋が造られた。戦国時代当時は、敵勢の進入を防ぐために簡単に壊すことのできる簡易な橋であったと推測される。




橋を渡った左手の石垣。発掘調査を経て、復元された。




この石垣は往時のものがよく残っていた。石の積み方は自然の石をそのまま積み上げる野面積み(のづらづみ)。

戦国時代の城は土塁(どるい)と空堀(からぼり)の曲輪で構成された土の城が大半となる。小田原北条氏の支配地域であった関東各地の城もまた同様であった。西日本では織田信長が天正4年(1576)に総石垣の安土城を築く。それと時をほぼ同じくして戦国末期に築かれた八王子城もまた、石垣が築かれた城のごく初期のものとなろう。




虎口(こぐち)へ。




虎口は曲輪の出入り口。幅を狭め屈折した進入路は防御の観点からそのような形状となった。














虎口を上がったところには、往時の姿を想定した冠木門(かぶきもん)が建てられている。




広々とした曲輪の御主殿跡。標高266m。




案内板。

御主殿跡は城主北条氏照の居館があった曲輪。ここでは政務の儀式が執り行われた「主殿」、儀式後の宴が催された「会所」といった大型建物の跡が発掘された。




ガイダンス施設で配布されているリーフレット(この裏面には禁転載の詳細な縄張図が載っている)。

中央にガイダンスシアター「八王子城物語」にみる御主殿・会所の想像図が描かれている。検出された建物基礎を元に同時代の建築を考証して想像された、立派な御殿。


戦国時代の城は政庁であるとともに実用的な軍事拠点であり、殊に山城(やまじろ)の山頂に築かれた本丸は有事における籠城戦の拠点となった。平時は山裾の居館が政庁の中心と位置づけられる。八王子城と同じく小田原城の支城であった山城の津久井城も、縄張の構成としては八王子城に似ている。
これに対して平山城(ひらやまじろ)である小田原城の場合は総構(そうがまえ)構築以前からその城郭が群を抜いて巨大であり、軍事拠点たる本丸も山稜部ではなく平地近くに築かれ居館も本丸に置かれた。そうだとしても居館は籠城戦における拠点として申し分なかった。

一方、山城でありながら山頂の本丸に城主の居館として壮大な天守を築いた信長の安土城は、そもそも軍事拠点というよりは政庁としての色が濃く、戦国時代の城としては例外的といえる。

また近世以降、平城・山城を問わず本丸に天守が築かれることが一般的となった時代においても、城主の居館は本丸御殿や二の丸御殿であり天守は権力の象徴的存在にすぎない。




出土品の解説。

鮮やかな舶載磁器の五彩皿、ベネチア製レースガラス器。こうした渡来の品々からは戦国北条氏一門の強大な勢力を窺い知ることが出来る。




茶道具、青花(せいか)皿。




金箔かわらけ。

かわらけは素焼きの陶器。日常使いではなく儀式のおりに使用され、その都度処分された。
関東においては鎌倉時代に京より取り寄せられた白かわらけ、室町時代初期の鎌倉公方、関東管領らの拠点で出土したかわらけ、小田原北条氏のかわらけなどが各地で出土。
室町時代前期の扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)の拠点のひとつであった茅ヶ崎城址(横浜市都筑区)では「うずまきかわらけ」なるかわらけが出土している。




主殿跡。




池を中心とした庭園遺構の解説板。池は全容が不明のため埋め戻されている、とある。




会所跡。同時代の建築を参考として床が再現されている。




御主殿跡から御主殿の滝へ。




城山川に掛ける、御主殿の滝。




豊臣秀吉と小田原北条が対決した天正18年(1590)の小田原合戦。八王子の氏照ら北条一門は小田原城に集結、城主の留守を家臣が預かった八王子城は搦手(からめて)の上杉景勝・大手(おおて)の前田利家の北国軍勢によって猛攻に晒された。

八王子城落城の際、籠城していた将兵や女性、こどもは滝の上で次々と自刃。城山川は三日三晩、血で赤く染まったという悲劇の言い伝えが残る。




供養碑。




城山川に沿った林道より曳橋を見上げる。発掘調査では橋の橋台石垣が検出された。




悲劇の舞台となった往年の城山川は、今は清く静かな流れ。




管理棟まで戻り、本丸をめざす。




本丸への登り口。本丸付近に祀られた八王子神社の「一の鳥居」となろうか。




見学者は新道へ。




二の鳥居。




立入制限区域に建つ、観音堂。
ここは廃寺となった福善寺の跡。昭和の初めには境内に福善寺大悲閣が建立されている。

この観音堂は江戸時代後期編纂の地誌「新編武蔵風土記稿巻之104多摩郡之16由井領元八王子村寺院」宗関寺の項に記されている観音堂の流れを汲むものだろうか。
現在は根小屋地区に建つ曹洞宗朝遊山宗関寺は、明治25年(1892)になって現在地に移転した。
風土記稿によれば、宗関寺は元は八王子神社の創建でも知られる華厳菩薩妙行(みょうこう)の開創による牛頭山(ごずさん)神護寺。天正年間に北条氏照が牛頭山宗関寺として復興、天正18年(1590)の落城後再興し朝遊山と号した、とある。そして観音堂は風土記稿編纂時の境内惣門道より左の方の山上にあり、本尊は北条氏照妻室の守本尊と記されている。




本丸への道のりは、結構きつい山道となる。




この尾根はひな段状に造成されている。




金子丸(かねこまる。金子曲輪・かねこくるわ)に到着。小田原合戦の際には金子三郎右衛門家重(かねこ さぶろうえもん いえしげ)が守備していたとされる。




先へと進む。




最初の展望地。
東にスカイツリー、その手前に新宿副都心。南東には横浜みなとみらい・ランドマークタワー。




石のゴロゴロした登山道。




柵門跡(さくもんあと)に到着。




柵門跡の少し手前、登山道からは石垣の石積みを観ることが出来る。




身を乗り出してみると、崖に石が積まれている。




崩壊が進んでいるため、周辺は立入禁止。




石段を登り、先へと進む。




石碑が置かれている。




高丸(たかまる)への分岐に到着。道標には「この先危険」と書かれている。




道標の向こう。




九合目の道標。




山頂へ。




空が開ける。




大展望地に到着。眼下に武蔵国が大きく広がっている。

手前の八王子城跡の森の向こう側、高尾台住宅を挟んだ先に横に広がる森が、先ほど歩いてきた多摩森林科学園の森




東京スカイツリー(634m・ムサシ)に、都庁舎(243m)を始めとした新宿副都心。




武蔵最南部、横浜ランドマークタワー(296m)。




城下の根小屋(ねごや)地区を見下ろす。




まもなく八王子神社。




八王子神社に到着。




本丸周辺の曲輪案内図。




参道石段。




八王子社本殿の覆殿。




隣りには横地社の祠。山頂(本丸)の案内板によると、落城寸前に奥多摩に落ち延びた重臣の横地監物(よこち けんもつ)を祀る。元は奥多摩町にあったが、ダムの湖底に沈む前にここに移された。




神楽殿。




覆殿の中の、本殿。

八王子神社の起こりは「新編武蔵風土記稿巻之104多摩郡之16由井領元八王子村八王子権現社」によると次のように記されている。
平安時代前期の延喜13年(913)、華厳菩薩妙行(みょうこう)が山中での滝行中に出現した牛頭天王(ごずてんのう)と御付の八人の王子のお告げにより、延喜16年(916)に八王子権現を祀り神護寺と号した。
神護寺とは先に観音堂で見たように曹洞宗宗関寺の前身であり、神仏習合の時代に八王子神社と宗関寺は一体だった。
氏照は天正6年(1578)に城の守護神として八王子権現を祀り、この城を八王子城と呼んだ。この名が八王子という地名の由来となったゆえ、町名は八王子城のあたりが「元八王子町」となる。




大天狗の石像。
戦国時代、武将たちは不動明王を本地仏とする飯縄権現(いづな ごんげん)を信仰した。関東では北条氏が飯縄権現を祀る高尾山を篤く庇護。飯縄権現は烏天狗(からすてんぐ。小天狗)の姿をし、大天狗とともに信仰された。




石段下から小宮曲輪へ。









小宮曲輪(こみやくるわ。三の丸とも)。狛犬の奥、お社は朽ちた廃屋になってしまっている。

小宮曲輪は一庵曲輪とも呼ばれた。小田原合戦時には狩野一庵(かのう いちあん)が守備したが、搦手(からめて)の上杉景勝に奇襲されて落とされた。
なお地理院地形図に記されている城山の標高点446mはこちらになる。




東の展望が開けている。




本丸へ。




石の祠。









本丸に到着。




標高460mの城山(しろやま。八王子城山)山頂となる本丸は、さして広くはない。小田原合戦時には留守を預かった城代の横地監物吉信(よこち けんもつ よしのぶ)が守備したとされる。




本丸から松木曲輪へ。




大きな碑が数基建つ。松木曲輪に建つ八王子城址碑は大正8年(1919)に氏照の弟である氏規(うじのり。相模三崎城主)の末裔が建てたという。




松木曲輪(まつきくるわ。二の丸、中の丸とも)。ここは中山勘解由家範(なかやま かげゆ いえのり)が守備したとされる。この近くには籠城戦に必須の井戸があった。
前田利家は奮戦した家範の武勇を惜しみ、その遺児は後に水戸徳川家に仕えることとなった。




ここからは高尾山(599m)を望むことが出来る。




こちらはケーブルカー高尾山駅の駅前から眺めた八王子城跡。
右の台形の山が城山。尾根を左にたどり、左の三角が富士見台。




トイレ付近から詰城(つめのしろ)に向かう。




本丸周辺から詰城への道は、より一層傾斜のきつい登山道となる。ここはトレッキングシューズを着用した登山の格好で歩きたいところ。

画像にはザイルが張られているが、これは消防庁の隊員によるもの。




このとき、足首を怪我して動けなくなったハイカーを担架で救助するため消防庁の隊員が登山道に入っていた。

任務の遂行中、通りかかった登山者は要請を受けて登山道でしばらく待機。




城山の標高は高くはないとはいえ、足場は良くない。殊に本丸から詰城への道はスニーカーなどでは滑りやすく、躓きやすい。登山が趣味の人にとっては「思いついたらサッと出かける山」ではあるが、山慣れない人にとっては決して易しい道ではない。
辛い思いを残さぬよう、ときには無理をせずに引き返すくらいの気持ちで歩いて欲しい。




高度を下げていく。









「馬(こま)冷し(駒冷し)」と呼ばれる堀切(ほりきり)に到着。標高400m。

「馬冷す」とは火照った馬脚の熱を冷ましてやること。ここは水辺ではないが、下から上がってくる道が風の抜ける切通しになっていることからそう呼ばれるのだろうか。切通しの幅は広いので、登山道の「金冷し」のように馬もまた肝を冷やすような道、というわけではなさそう。

道標の辺りから登り返す。









防火水槽の辺り。




再び登り。このあたりは石塁の跡か。




詰城に到着。標高478mは本丸よりも高い。




「史跡八王子城天守閣跡」の碑が建つ。

八王子城縄張図のリーフレットによると、ここは八王子城域の西端であり「伝大天守部分」とされる。詰城の西は大堀切で尾根がえぐられ、U字型の尾根伝いには石塁が築かれている。

ここは本丸が落とされた時に撤退していく最後の砦となったのだろう。




この先、山道は富士見台(556m)へと続く。そこから先、北高尾山稜は三角点のある杉沢ノ頭(547.6m)を経て奥高尾縦走路の堂所山(どうどころやま。731m)へと合流していく。

そちらへは向かわずにここで引き返し、山を下りることにする。




日の長くなりつつある季節ではあるが、そろそろ西日も傾いてきた。帰りはガイダンス施設隣りからのバスには乗らず、北条氏照の墓へ参る。




ガイダンス施設から下り始めてすぐを左折してもよいし、もう少し下にはこのように下から登ってきた人のための案内が出ている。









案内板の先、長い登り。




氏照と家臣の墓。

小田原合戦の後、氏照は兄の宗家第4代氏政(うじまさ。御隠居様)とともに小田原城下で切腹。この供養塔は水戸藩家老となっていた中山勘解由の孫・信治が氏照の百回忌の供養のために建立した。その両脇は勘解由と信治自身の墓とされる。

なお小田原駅前の繁華街「おしゃれ横丁」には氏政・氏照の墓所がある




奥には石仏・石塔。新編武蔵風土記稿によると、合戦で命を落とした狩野一庵らが祀られている。




立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)。誰のものだろうか。

墓所から通りへ戻る。




パンフレットに掲載されているものと同じ散策マップ。こちらには「この地図は散策路の概要を示したものであり、登山地図ではありません」と書かれている。
縄張図に見る通り、八王子城跡は山。特に要害地区は登山道しかない。




先へ進むと宗関寺。




曹洞宗朝遊山宗関寺。
その由緒は新編武蔵風土記稿の記述を元に、八王子城跡の観音堂や八王子神社のところで触れてきた。




鐘楼。屋根の露盤(ろばん)に北条の家紋「三つ鱗」が見える。


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