2.旧東海道平塚宿
旧東海道平塚宿を歩く。平塚宿は宿泊者の多かった小田原と戸塚の間に挟まれており、宿場の規模としてはそう大きくはなかった。宿場の西はずれには平塚の名のもとになった高貴な都人の塚がある。
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平塚八幡宮・八幡山から旧東海道平塚宿

平成28年(2016)の7月上旬、平塚八幡宮、八幡山の洋館から旧東海道平塚宿界隈を歩く。


平塚の市街地は相州一の大河・相模川(馬入川・ばにゅうがわ)と、大山の南面に源を発する春岳沢(はるたけさわ)から流れ下った金目川(かなめがわ。花水川・はなみずがわ)に挟まれた沖積平野である相模平野に広がっている。


2.旧東海道平塚宿


旧東海道平塚宿を歩く。平塚宿は宿泊者の多かった小田原と戸塚の間に挟まれており、宿場の規模としてはそう大きくはなかった。宿場の西はずれには平塚の名のもとになった高貴な都人の塚がある。


1.平塚八幡宮・八幡山の洋館はこちら。



八幡山(はちまんやま)公園を後にして、旧東海道平塚宿界隈へ。




八幡宮前交差点で国道1号を横断、旧東海道へと向かう。




前方タワーの角を交差する通りが旧東海道。たなばた祭り真っ只中の旧東海道(湘南スターモール)へ。




祭りの期間中は歩行者天国の、市民プラザ前交差点。奥には高麗山(こまやま)が見える。




市民センターまで進むと、その手前が旧東海道平塚宿の江戸方見附。




平塚宿の絵地図。このあたりからが旧東海道平塚宿の宿場町となる。


平塚宿は慶長六年(1601)に成立。江戸方より十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町の五町から成った。




江戸方見附。




解説板。
平塚宿の東側(相模川寄り)には平塚新宿(ひらつかしんしゅく)があった。


新宿は慶安四年(1651)、八幡村(やわたむら)を割いて平塚宿の加宿としたもので当初は八幡新宿(やわたしんしゅく)と呼んだ。江戸時代後期には平塚宿、新宿を合わせておよそ2,000人の人口があった。


現在のスターモールはその昔、松並木だった。そして、街道の北側、南側には広大な「御林(おはやし)」が広がっていた。御林は奉行により厳重に管理され、御用木として幕府の様々な普請に利用された。その広大な敷地が明治以降、工業用地として活用されることとなる。




歩道橋に上がってみる。




大磯・小田原方面には高麗山(こまやま)が大きく見える。




通りの北側に建つ和洋折衷の木造建築。下見板張り(したみいたばり)の洋館に堂々たる入母屋(いりもや)屋根を載せている。


この建物は平塚市の「崇善(そうぜん)公民館」。戦後間もない昭和25年(1950)に建てられ、昭和39年(1964)ごろまで平塚市議事堂として利用されていたという。


その姿は、昭和初期の公的建築に多く用いられた帝冠様式(ていかんようしき)と呼ばれるスタイルを踏襲したような印象。あるいは「再改横浜風景」に描かれた、幕末の横浜開港場に建っていた初期の異人館である英一番館「ジャーディン・マセソン商会」にも雰囲気が似ている。終戦直後の物資も厳しい時代に、平塚の誇りをかけて建築されたのだろう。




軒は平行垂木(へいこうたるき)がきっちり組まれている。


平塚市内に残る近代建築として出色とも思えるこの建物であるが、老朽化が著しく近い将来解体されるそうだ。市のウェブサイト掲載資料によると、改修も検討されたものの実施せずに記録保存するにとどめるという。


訪れた時には壁のペンキが下から少しずつ、白く塗り直されていた。窓枠も下から綺麗に塗り直されている。「今までありがとう」と最後の化粧を施しているようで、地域の人々の心情に思いを致すとあまりにも切ない。




公民館の前にそびえる楠(クスノキ。樟)の大木。




この木は明治28年(1895)、当時平塚小学校の校地であったこの地に蒔かれた種から育ったとあり、地域の記憶とともに歩んできた。




再び旧東海道へ。




脇本陣跡。




反対車線側の、東組問屋場(ひがしぐみ といやば)跡。




本陣旧跡。


平塚宿の本陣は一軒。平塚宿は宿泊者の多かった小田原宿と戸塚宿の間に位置しており、宿泊よりは休憩に立ち寄られることが多かった。




右手に旧道を分ける。




問屋場跡。




広重の「東海道五十三次之内 平塚 縄手道(保永堂版)」。
傍示杭(ぼうじぐい)の立つ宿場の西端から高麗山を望む。




歩道橋より見る高麗山。



ここで、平塚の名の由来となった塚を見に行く。




旧道に入って最初の角を右折。




平塚の塚へ。




奥に平塚の塚。




由来。


平塚の名の起こりは古い。この地で逝去した高貴な人の葬られた塚が、やがて平らになったことから「平塚」と呼ばれたと伝わる。




塚は神社のように玉垣(たまがき)で囲われ、立派なクロマツが立っている。



平塚の塚から、平塚宿の鎮守であった春日神社へ向かう。




平塚の塚のすぐ近くに建つ、春日神社。


社伝によれば、建久二年(1191)源頼朝が馬入川(相模川)橋供養のため当社を勧請したとされ、古くは黒部宮と称した。現在地に遷座した際に春日神社と改称されたがその時期は不明とされる。




春日神社は平塚宿の鎮守。


奈良の春日大社を本社とする全国各地の春日神社は藤原氏の氏神を祀る。幟には「下がり藤」の紋。




蟇股(かえるまた)の彫刻。弓を携えた人物と、扇を持った人物が彫られている。


弓と扇というと源平合戦の「屋島」を連想するが、これはどのような故事にちなんでいるのだろう。




縁側の脇障子(わきしょうじ)には、春日大社において神の使いとされる鹿の彫刻。




春日龍宮社(厳島神社)。四脚の控柱を持つ両部鳥居(りょうぶ とりい)。




春日稲荷神社。こちらは幾つもの鳥居が並ぶ。


龍宮社、稲荷神社はいずれも春日造(かすがづくり)で建てられている。春日造は、反りの入った切妻の屋根を架け、妻壁の側を正面として向拝(こうはい。せり出した庇)が付いている様式。




春日天満宮。こちらの幟は天神様の「梅鉢」の紋。




毘沙門堂。




春日神社から旧道へ戻る。




国道一号に合流。大磯・小田原方面へ。




古花水橋(ふるはなみずばし)信号。横断歩道を渡ったところに上方見附がある。




上方見附(かみがたみつけ。京方見附)。




案内板。




高麗山を前に、旧東海道は大磯町(おおいそまち)へと続く。


平塚宿と大磯宿との距離は県内における宿場間では最も短く、一里(三十六町)にも満たない二十七町(およそ3q)という近さであった。

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