まちへ、森へ。

平塚八幡宮・八幡山から旧東海道平塚宿

平成28年(2016)の7月上旬、平塚八幡宮、八幡山の洋館から旧東海道平塚宿界隈を歩く。

 

平塚の市街地は相州一の大河・相模川(馬入川・ばにゅうがわ)と、大山の南面に源を発する春岳沢(はるたけさわ)から流れ下った金目川(かなめがわ。花水川・はなみずがわ)に挟まれた沖積平野である相模平野に広がっている。

 

1.平塚八幡宮・八幡山の洋館

 

 

七夕まつりの季節、七夕飾りが付けられた平塚駅。
「湘南ひらつか七夕まつり(第66回。2016.7.8〜10)」はこちらのページへ。

 

 

 

JR平塚駅北口から「紅谷(べにや)パールロード」に入ってすぐ右折、「大門通り(だいもんどおり)」へ。

 

 

 

平塚八幡宮への表参道となる、大門通り。

 

 

 

 

 

 

 

国道一号に突き当たった向こうに、八幡宮・一の鳥居。通常は横断できないので歩道橋へ迂回。

 

 

 

宮の前交差点に架かる歩道橋。

 

 

 

国道一号小田原方面。奥へと延びる国道が手前の表参道を横切っている。

 

地域の方々の尽力により、初詣には表参道をゆく参拝者が国道を横断できるように警察による交通整理がなされるそうだ。

 

 

 

平塚八幡宮は相模の「一国一社八幡宮(国府八幡宮)」。古くは「鶴峯山(つるみねやま)八幡宮」と称した。提灯には社紋の鶴。

 

奈良時代における相模国府の位置はいくつかの説があり、確定を見ていない。

 

国府とセットで設けられる国分寺は高座郡(たかくらぐん。現在の読みはこうざぐん)にあったとされ、当初は国府もその辺り(海老名市国分)にあったのではないか、という説がある。一方で足下郡(あしのしもぐん。現在の足柄下郡に相当)の下曽我遺跡(小田原市永塚)が初期の国府ではないかという説もある。
或いは国府は初めから平塚にあったという説もある。

 

いずれにしても、平安中期に編纂された事典「和名類聚抄(わみょう るいじゅしょう)二十巻本」には「相模国 国府在大住郡(おおすみぐん)」とある(現在の平塚市四之宮あたり)。
鎌倉初期の事典「伊呂波字類抄(いろはじ るいしょう)十巻本」には「余綾郡」(よろきぐん。のちに淘綾郡(ゆるぎぐん)と表記され現在は中郡に相当する)に移っている(現在の大磯町国府本郷あたり)。

 

したがって平塚、大磯に国府があったことについてはどの説においても争いはない。中世の鎌倉に武家政権が誕生する以前、相模の国で最も大きな平野に広がる平塚の地は、相模における中心地であった。

 

参考「神奈川の東海道(上)」

 

 

 

境内へ。

 

 

 

二の鳥居。

 

 

 

拝殿。

 

 

 

「夏越の祓(なごしのはらい)」の、茅の輪(ちのわ)くぐり。

 

 

 

社伝によると、平塚八幡宮の創建は仁徳天皇の御代(430前後)。相模国を大地震が襲い、仁徳天皇が応神天皇の神霊に加護を祈って社殿を造営したのが始まりという。
推古天皇の御代(592〜628)にも大地震が起こり、推古天皇は「鎮地大神(ちんじ おおかみ)」の宸筆(しんぴつ。天皇の直筆)を下し新たに社殿を造営した、とされる。

 

奈良時代には聖武天皇が法華経を奉納。鎌倉時代には源頼朝が神馬を奉納。戦国末期には徳川家康が社領を寄進した。明治以降は県社に列せられる。

 

 

 

拝殿に向かって右手には、諏訪社の諏訪大明神(東国における武門の守護神)、若宮社の仁徳天皇、神明社の天照大御神が祀られている。

 

 

 

回廊の下をくぐって、社叢林へ。

 

 

 

裏参道。

 

 

 

「かながわの美林五十選」にも選ばれた社叢林。

 

 

 

クロマツ。

 

 

 

アカマツ。

 

 

 

クスノキ。

 

 

 

八幡山公園(はちまんやま こうえん)にそびえる、平和慰霊塔。明治以来の戦災死没者を追悼するため昭和40年(1965)に建てられた。

 

 

 

八幡山公園は広さ1.6ヘクタール(100m四方×1.6)。八幡山の一角に昭和31年(1956)に開設された。

 

 

 

「八幡山の洋館」。こちらは建物の裏手。入口となる管理棟はこちら側につながっている。

 

 

 

この洋館は、旧横浜ゴム平塚製造所記念館。もとは横浜ゴム(株)平塚製造所の敷地内に建っていた。

 

その始まりは明治38〜40(1905〜7)年ごろ。日英合弁による会社である日本爆発物製造株式会社のイギリス人技師が利用する建物として建築された。明治末期に火災により焼失したものの、再築される。

 

大正8年(1919)、火薬会社は旧海軍により買収され一帯は海軍火薬廠となった。関東大震災(大正12・1923)では建物の各部に損傷を受けたものの、倒壊は免れた。戦時中は火薬廠が平塚空襲の主たる標的となったが、それでも記念館は生き残った。敗戦後の昭和20年(1945)占領軍により火薬廠は接収される。

 

昭和25年(1950)の接収解除後、一帯は横浜ゴム(株)に払い下げられた。平成16年(2004)、洋館は横浜ゴムより平塚市へ無償譲渡される。その後現在地へ移築され、平成21年(2009)より一般公開されるようになった。

 

 

 

建物にはベランダがめぐらされている。ベランダを設けたスタイルはコロニアル様式と呼ばれる。アジアに進出してきた西洋列強が暑い夏を快適に過ごすために用いた様式。

 

 

 

ベランダ付きの明治洋館は、横浜山手の界隈においては大正12年(1923)の関東大震災により壊滅してしまった。そもそもコロニアル様式は日本の気候風土にはそぐわなかったため、それ以降には見られなくなった。大正末期から昭和初期にかけての山手の洋館には、寒い冬でも快適に過ごせるガラス張りのサンルームが設けられているものがある。

 

 

 

平塚の街は沖積平野の軟弱地盤のはずだが、この建物は関東大震災に耐え抜いた。さらには第二次大戦の戦災もくぐり抜けてきた。

 

明治期に見られたクラシックな様式を残す洋館としては、神奈川県下では数少ない貴重な建築。

 

 

 

円形の庇を設けた、アーチ窓。窓は上げ下げ窓になっている。壁の下見板張り(したみいたばり)は、板の下辺を下の板の上辺に重ねるイギリス下見ではなく、目地のような隙間ができるドイツ下見。

 

 

 

基礎部分は、移築前の「イギリス積(イギリスづみ。レンガの長手(長辺)を並べた段と小口(短辺)を並べた段を交互に積む)」が表面に再現されている。換気口には凝った花模様が見られる。

 

 

 

傍らには移築前の基礎の遺構が一部残されている。

 

 

 

ベイウィンドウ(張り出し窓)。
中世から英国で用いられたというこのスタイルはヴィクトリア女王の時代(1837〜1901)に広く人気を博し、ヴィクトリアン様式の好事例とされる。

 

 

 

古典主義様式の塔屋。このあたりも、明治期の建物らしいクラシックな印象。

 

 

 

館内へ。

 

普段は会議室等に利用が入っており見学できないこともあるが、「七夕まつり」のこの期間は休憩所として開放されていた。

 

 

 

第2会議室。ベランダに面した部屋。

 

 

 

応接室。アーチ窓の部屋。

 

 

 

応接室の暖炉は関東大震災で損壊、撤去されていたものが再現された(煙突は再現されていない)。

 

 

 

第1会議室。ベイウィンドウの部屋。

 

 

 

このシャンデリアは関東大震災後に復旧した当時のもの。

 

 

 

 

 

 

 

八幡山公園を後にして、旧東海道平塚宿へ。

 

 

2.旧東海道平塚宿へ

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