まちへ、森へ。

早渕川流域〜太古から現代へ、開発のあゆみ

5.「ささぶねのみち」鴨池公園から茅ヶ崎公園「せきれいのみち」へ

 

4.「やさきのみち」中川八幡山公園から都筑中央公園・茅ヶ崎杉山神社へはこちら。

 

 

都筑(つづき)中央公園・蛍見橋まで戻った。

 

 

 

「ささぶねのみち」へ。

 

 

 

案内図。

 

 

 

渋沢橋をくぐる。

 

 

 

鉄骨アーチ橋の人道橋は若水橋。緑道にはいろいろなタイプの橋が架かっている。

 

 

 

傍らを段々の水路が流れる緑道を、緩やかに上っていく。

 

 

 

ささぶね橋を渡る。

 

 

 

鴨池公園に到着。

 

鴨池公園の開園は昭和62年(1987)。広さ8.8ヘクタール(100m四方×8.8)。港北ニュータウンの公園ではごく初期の開園となる。まだ地下鉄(新横浜〜あざみ野)が建設中だった頃、街区の開発は南側から先行して始まった。

 

 

 

案内図。

 

 

 

奥の池へ向かう。

 

 

 

まんまる広場。

 

 

 

鴨池公園橋を渡る。

 

 

 

 

 

 

 

鴨池。

 

 

 

 

 

 

 

池の汀(みぎわ)の州浜(すはま)のように敷き詰められた石。日本庭園にやすらぎを覚える日本人の美的感覚は、現代の公園にもさりげなく反映している。

 

 

 

 

 

 

 

「ささぶねのみち」へ戻る。

 

 

 

葛ケ谷(くずがやと)公園。奥に資源循環局都筑工場の青白煙突が大きく見える。

 

 

 

巨大な石器のようなオブジェが並んでいる。
港北ニュータウンの中では開園が昭和61年(1986)と、かなり早いこの公園。ニュータウンの造成前にいくつも発掘された先土器時代の遺跡を偲ぶメモリアルということだろうか。

 

 

 

「ささぶねのみち」。

 

 

 

大原みねみち公園。平成7年(1995)開園。広さ2.4ヘクタール(100m四方×2.4)。

 

グリーンマトリックスは基本的には支流の小さな谷戸を利用しているが、このあたりは昔の空中写真(国土地理院ウェブサイト)によると元は大熊川支流の最奥あたりの谷戸を縁取る尾根だったようだ。

 

 

 

長い池が造られている。

 

 

 

 

 

 

 

面白い構造の橋。反り橋のようだがアンカーで引っ張られたケーブルが張られている。でも吊り橋のようにケーブルで橋を吊っているわけでもなさそう。

 

 

 

みねみち公園からいったん車道沿いの歩道へ。

 

 

 

萌黄橋を渡る。

 

 

 

ブルーラインの高架下をくぐる。

 

 

 

案内図。

 

 

 

茅ケ崎公園に到着。左は旧あらいそ川源流庭園。源流庭園奥の自然生態園西門は閉鎖されている。右は公園プール、ドイツ学園、自然生態園正門。

 

茅ケ崎公園は平成7年(1995)の開園。広さ9.5ヘクタール(100m四方×9.5)。里山風情からレジャー施設まで様々な顔をもち、区内では都筑中央公園に次ぐ広さを誇る。

 

 

 

源流へ。

 

 

 

茅ケ崎公園の梅ヶ谷戸・源流庭園。このあたりは早渕川の支流・荒磯川の源流だった。

 

 

 

 

 

 

 

源流庭園の先は自然生態園。こちら側の西門は閉鎖されており、ここからは入れない。

 

 

 

4月〜9月の開園日時の掲示。

 

 

 

上に上がって公園プール、ドイツ学園方面へ。

 

 

 

園路を行く。

 

 

 

 

 

 

 

茅ケ崎公園の主たる入口はここか。

 

 

 

茅ケ崎公園プール。魚か鯨のような形の巨大なオブジェが風に揺らいでいる。

 

 

 

公園に隣接する東京横浜独逸学園。現在地の校地は平成3年(1991)より供用開始。

 

学園のルーツは明治37年(1904)横浜山手にて開校した東アジア初の在外ドイツ学校に遡る。関東大震災(大正12・1923)ののち東京大森(山王)に移転。横浜市域の現在地に再度移転するまではそちらで授業が行われていた。

 

学園があることから学齢期の子どもを持つドイツ語圏の人々にとっては教育環境が良く、都筑区は横浜市内におけるドイツ人居住者数が突出して多い。

 

 

 

フリーマーケットの告知。ドイツのイベントといえば、秋のオクトーバーフェスト、冬のクリスマスマーケットはこの地域でも盛大に開催されている。

 

 

 

公園散策路の案内図。

 

 

 

園路を下りて左折、自然生態園へ。

 

 

 

自然生態園の正門方面。

 

 

 

木道へ。

 

 

 

 

 

 

 

正門前。

 

 

 

自然生態園は土日祝日の9〜16時まで開園(4〜9月。冬季は15時まで)。柵で囲われ東門、西門は閉鎖。保護の下で活用されている。

 

 

 

御手洗(みたらい)池。この池は公園開園にあわせて造られたのではなく、里山の谷戸田があったころから農業用のため池として使われていた。

 

 

 

池の奥には田んぼ。

 

 

 

 

 

 

 

奥への道は、舗装されていない里山の道。

 

 

 

溜まり。

 

 

 

カエル池。動物除けのネットが張られている。

 

 

 

田んぼの奥へ。

 

 

 

 

 

 

 

田んぼの脇を登っていく東山の園路。この山道は小規模ながら里山の原風景を色濃く残している。

 

 

 

 

 

 

 

これはホウチャクソウだろうか。ナルコユリとかアマドコロとか、そっくりな山野草との区別はいまだに自信がない。

 

 

 

 

 

 

 

民話にでも出てきそうな雰囲気の、御手洗池。

 

 

 

キツネノボタン。セリに葉っぱが良く似ているが、キンポウゲの仲間で有毒。金平糖みたいな実が付いている。

 

 

茅ケ崎公園を後にし、自然生態園分岐まで戻る。

 

 

 

センター南駅方面への歩行者自転車専用道を左に分け、「せきれいのみち」から関家住宅前まで行く。
このまま駅へ戻るならば左折したほうがずっと近い。

 

 

 

12月初頭、紅葉の季節。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せきれいのみち」をしばらく行くと緑道を跨ぐ橋が見える。道路に上がり、関家住宅前へ。

 

 

 

茅ケ崎中学入口信号まで行ったら左折。

 

 

 

中原街道沿いにしばらく行く。

 

 

 

関家(せきけ)住宅前。奥に長屋門の屋根がちらりと見える。

 

 

 

関家住宅には1600年代前半の築とされる主屋を始め、書院や長屋門などが建っている。江戸時代前期の築となる主屋は関東はおろか東日本でも最古級の住宅建築とされる。

関家は小田原北条氏配下の地侍であったという。天正18年(1590)の小田原合戦による北条の滅亡後、その家臣は居村に戻り名主を務めた者が多い。関家も江戸時代には世襲名主を務めた。通常は交代制であった名主の地位が世襲されていたのは、その家格によるところが大きいといわれる。
また関家は江戸時代後期には代官も兼務しており、この屋敷は名主屋敷であると同時に代官屋敷でもある。

 

1700年代前半の築とされる書院は、格調高い立派な書院造。江戸時代中期築の名主の屋敷でありながら畳床(たたみどこ)を設け、違い棚の床脇(とこわき)や付書院(つけしょいん)まで配されている。国指定文化財等データベース(文化庁)を参照。

明治期以降の古民家ならまだしも、江戸時代の古民家でこれほど立派な書院造は近在の古民家ではちょっと見たことがない。そう考えると、三溪園に移築されている飛騨の豪農・旧矢箆原家(やのはらけ)住宅は、本当にすごいものを見せてもらっているということを改めて実感する。
ここ中原街道は徳川将軍が鷹狩で馬の遠乗りを頻繁に行っており、関家の書院も公方(くぼう)様の休息所として建てられたのではなかろうかといわれる。上座に公方様を迎えるのであれば、その立派さにも合点がいく。

 

 

 

現在も当主の方が居住しているため、見学は特別公開時のみ(要申込)。例年11月ごろ、広報よこはま都筑区版にお知らせが掲載される。

 

 

 

書院(画面手前)、主屋(画面右奥)。
画像出典「国指定重要文化財 関家住宅」パンフレット(横浜市歴史博物館編集)

 

パンフレットは平成30年(2018)の見学会に参加した際に頂く。その年は茅葺屋根の葺替工事がおこなわれた関係で屋内見学は主屋土間のみであった。その代わり茅葺職人による解説を交えての見学会という、例年にはない企画となった。

 

 

 

関家住宅前から「せきれいのみち」へ戻る。

 

 

 

 

 

 

 

緑道の終わる少し手前、車止めのある歩行者自転車専用道へ入り、茅ケ崎東小学校・茅ヶ崎城址方面へ。

 

 

 

 

 

 

 

茅ケ崎東小学校の横を通る。

 

 

 

茅ヶ崎城址を右手に見る。山すそには中世(室町〜戦国)のころ、城主や家臣の居館があった(根小屋・ねごや)。

 

 

 

茅ヶ崎城址のすぐ横を通り過ぎていく。

 

 

 

センター南駅へ。

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