平成28年(2016)の桜の季節、早渕川(はやぶちがわ。鶴見川水系)流域に広がる港北ニュータウン(横浜市都筑区・港北区)センター地区の緑道(グリーンマトリックス)を一周するまち歩き。昭和中期〜平成期に計画的に開発された美しい街並みが誕生するよりもはるか昔、弥生時代〜室町時代、江戸時代に渡るまちづくりの営みを感じながら歩く。
4.「やさきのみち」中川八幡山公園から都筑中央公園・茅ヶ崎杉山神社へ
「グリーンマトリックス(緑道)」歩きの続き。山崎公園から「やさきのみち」〜中川八幡山公園〜「やさきのみち」〜都筑中央公園・茅ヶ崎杉山神社〜「ささぶねのみち」と歩く。
3.「ふじやとのみち」徳生公園から「くさぶえのみち」牛久保公園・山崎公園へはこちら。
公園出口から「やさきのみち」(歩行者自転車専用道)、中川八幡山公園へ。
案内図。
「やさき」の名は伝承に由来する。戦国時代、荏田城(えだじょう)から射られた矢の先が落ちたところが「矢先」「矢崎」、羽が落ちたところが「矢羽根」となったという。
広域図(やさきのみち・しらさぎのみち)。
「やさきのみち」は住宅地内に通された歩行者自転車専用道。
しばらく歩くと竹林が見える。突き当りを右へ行けば矢先橋(やさきばし)へと通じる。左折すると中川八幡山公園への登り。
小山を登っていく。
中川八幡山公園。平成11年(1999)開園。広さ3.2ヘクタール(100m四方×3.2)。
昭和52年(1977)、東善寺裏の台地で弥生中期の遺跡が発掘された。小規模集落であったそれは、大塚遺跡のような環濠は確認されなかった。
調査された区画の西隣にあたる台地の小山は調査されず未来の考古学への遺産としてそのまま保存され、中川八幡山公園となった。
参考・港北区史 都筑区水と緑の散策マップ
石柱に貫(ぬき)を通して桁(けた)を乗せた、原始の建築物遺跡を思わせるようなオブジェ。
山崎公園の丘、中川駅そばの高層住宅棟の眺め。
やや不明瞭な園路を下りて「やさきのみち」の続きへ戻る。
「やさきのみち」に戻ってきた。
矢先橋で早渕川を渡り、川沿いに下流へ少し進む。
「やさきのみち」緑道へ。
このせせらぎのあたりも、元々は早渕川の支流の小川(おそらく渋沢川)が流れていた。谷戸の最奥は「ささぶねのみち」葛ケ谷(くずがやと)公園あたりとなる。
都筑(つづき)中央公園の角あたりまできた。
広域図。
緑道が続く。このあたりからは「ささぶねのみち」。
そろそろ公園の入口。
蛍見橋の架かるところが都筑中央公園の渋沢口。
案内図。
都筑中央公園は平成10年(1998)開園。広さ19.6ヘクタール(100m四方×19.6)は都筑区で最大の面積。
幾つもの小さな谷戸が往時の呼び名のまま公園内に残されている。里山の森が保全されており「市民の森」のような趣があるが、公園として園路はよく舗装されており歩きやすい。
ばじょうじ谷戸へ下りる。
池。
ばじょうじ谷戸休憩所。手前には畦を石積みにした棚田の谷戸田がある。
炭焼窯の脇を抜けていく。
ステージ広場。
宮谷戸(みやと)へ下る。
下っていくと宮谷戸の炭焼窯。
宮谷戸(みやと)の大池。
この池は古くからの谷戸田の灌漑用ため池のような雰囲気があるが、昔の空中写真(国土地理院ウェブサイト・地理院地図ページの追加情報)には見あたらないので公園整備に際して造成されたもののようだ。
茅ヶ崎杉山神社へ。
茅ヶ崎杉山神社。
杉山神社は鶴見川・帷子川(かたびらがわ)流域とその周辺に多く分布しており、全国的に見ても他地域にはほとんど見られない。
分からないことも多い杉山神社であるが、現在までの研究ではおおむね次のようにまとまっている。参考文献・「港北区史」「わがまち港北」
1.古くは「続日本後記」(しょくにほんこうき。九世紀編纂)に武蔵国都筑郡杉山神社の記述がみられる。
2.「延喜式」(えんぎしき。十世紀編纂の律令施行細則)の「神名帳」(じんみょうちょう)には、官社に認定されている神社の一つとして記載されている(式内社・しきないしゃ)。
3.新編武蔵風土記稿(江戸時代後期編纂)には橘樹(たちばな)郡・都筑(つづき)郡・久良岐(くらき)郡・南多摩郡で計73社の杉山神社が記載されている。
いずれも流域に定着した土豪がお祀りする氏神が一族の勢力の拡大に従って新たに、あるいは他氏族を従える過程で氏神が統一されて広がっていったと考えられている。
そのうちいずれが本社たる式内社杉山神社かについては諸説(四説ないし五説)があるが、決定的な決め手はない。
茅ヶ崎杉山神社は「式内社」杉山神社の候補四社の一つ。そのなかでも茅ヶ崎の杉山神社は、茅ヶ崎の旧家やその親族の系図さらには杉山神社創設に関連する記述の見られる安房(あわ)神社および下立松原神社(ともに安房国・現千葉県)に伝わる系図の研究成果により、有力な式内社候補であるとされる。
安房国とは唐突な気もするが、律令時代の古東海道は横須賀・走水から海を渡って上総・安房へと通じていた。時代が下って源頼朝は石橋山の合戦で敗れたものの安房で再起を果たし、その後の建久二年(1191)に現在の神奈川区青木町に安房神社の分霊を勧請して洲崎大神を創建している。古代から中世にかけて、相模・武蔵南部と安房のつながりは思いのほか見られる。
いずれにせよ、律令国家の時代(大化の改新から奈良、平安前期まで)に律令制度の下で式内社を祀っていた豪族は地域における相当に有力な一族であろう。中央から派遣される国司の下にある都筑郡の郡司あるいはそれに匹敵する役人との関係も深かったと考えられる。
一方で、古代における東国は都からの距離があまりにも遠い。そうしたなかで都との結びつきの強い勢力とそれに対立する勢力などが群雄割拠することとなった。
地域の豪族は開発した領地を荘園として中央の貴族や伊勢神宮などに寄進、在地の荘官として都(朝廷)の支配を排除するようになり律令体制は崩壊していく。やがて坂東平氏などの有力な豪族は平安後期に有力な武士団へと成長していった。
そうした古代史のなかで、数ある杉山神社それぞれの位置づけは不明瞭になってしまった。
「御神木舊(旧)地」の碑。杉の大木はこの小山にいつまで立っていたのだろうか。大きな切株が残る。
都筑中央公園を後にし、先へと進む。
レストハウス側の園路から渋沢口へ戻り、「ささぶねのみち」へ。
里山から一変、都会の公園路。
昭和大学横浜市北部病院の前を通過。
蛍見橋まで戻った。
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