まちへ、森へ。

京鎌倉往還から鎌倉入り、鎌倉大仏から大仏坂へ

5.大仏前から大仏切通、上の道古道を経て湘南深沢駅へ

 

4.極楽寺駅から極楽寺切通、長谷寺、鎌倉大仏へはこちら。

 

 

大仏前から、大仏坂・大仏切通(だいぶつ きりどおし)へ向かう。

 

 

 

現在の大仏坂は切通ではなくトンネルが刳り貫かれている。

 

 

 

トンネル手前の階段を登り、大仏切通の古道へ。

 

 

 

最初の分岐はハイキングコースの道へと進む。案内のない道は極楽寺方面へ抜ける道となっている。

 

 

 

 

 

 

 

次の分岐でハイキングコースから分岐する大仏切通への案内が現れた。

 

 

 

木段を上がっていく。

 

 

 

史跡の標柱が現れた。

 

 

 

大仏切通は新道の「火ノ見下(バス停)」まで続いている。

 

 

 

 

 

 

 

切り立った岩壁が現れた。

 

 

 

大仏切通は、鎌倉七口のなかでもひときわ謎めいている。いつごろ造られ、どこへ通じたのか。

 

どこへ通じた道かといえば、おそらく、「大仏坂」を経て梶原の所領だったあたりで、「化粧坂(けわいざか)」を起点とした「鎌倉街道上の道(かみのみち)」へと合流していく道であろう、とされる。深沢口(大仏切通の外側出口)の押さえとして北条政村(ほうじょうまさむら。第七代執権)の常盤亭が配置されていた、といわれる。

切通しが造られた時期は明らかではないが、おそらく大仏造立の頃には切り開かれていたのではないか、とされている。江戸時代の地誌には、古くは「深沢切通」と称した、との記述もあるという。むろん古代(平安時代)の頃からも、道の先に開発された深沢郷や大庭(おおば)郷などと、先ほど歩いてきた長谷寺あるいは御霊神社(権五郎神社)のあたりを結ぶ連絡路として、山道はあったのだろう。

 

さきほどまで歩いてきた大仏の界隈は現在では長谷であるが、古くは深沢地域の一部であった。「吾妻鏡」にも大仏造立について「深沢の里にて」と記されている。
深沢地域は明治以降、それまでの小村が合併して深沢村となった。 深沢村の南部は手広、笛田、常盤、梶原。北部は元の洲崎郷にあたり、寺分、上町屋、山崎を含む。鎌倉市に編入されたのは戦後の昭和23年(1948)。

 

 

 

切り立った崖の、幅の狭い切通しが続いていく。新道トンネルの開通に伴いその辺りの旧道は無くなってしまったが、残っている部分だけでいえば、この切通しは朝夷奈(あさいな)や名越(なごえ)の切通しをも凌ぐのではないかと思えるほど、古色蒼然とした状態が残されている。

 

 

 

江戸時代には鎌倉から藤沢宿への道として利用された。江戸からの旅人が金沢八景から鎌倉入りして大仏見物をしたのち、極楽寺坂からの腰越、江の島方面を見物せずに東海道に戻る道筋として利用しうる。明治初期には切り下げ(道の掘り下げ)がなされたというから、江戸時代の道は今よりもっと急勾配の、きつい道だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木段の先には小さな平場。

 

 

 

 

 

 

 

崖に「やぐら」(中世鎌倉の横穴式墓所)が見られる。

 

 

 

大仏切通の解説板。道が付け替えられたため古い状態が良く残った、とある。

 

 

 

手作りの案内地図。ここからは鎌倉駅西口に出るもモノレール湘南深沢駅へ出るも歩いて30分ほど。

 

 

 

火ノ見下バス停。この反対車線が大船駅(京急)・藤沢駅南口(江ノ電)方面となるが、大船駅方面の便数は少ない。

 

このあたりから、あるいはこの先の八雲神社前信号から右へ入ってしばらくいくと、北条政村の常盤亭跡がある。常盤亭の先は長谷の谷戸の最奥を経て鎌倉駅西口へ至る。

 

 

 

聖ミカエル学院幼稚園のあたりから右の旧道に入っていく。そちらが「大仏切通」から「上の道(かみのみち)」へ通じていく古道の道筋とされる。

 

 

 

変電所に沿って先へ進む。

 

 

 

常盤山緑地の山すそが旧道のすぐそばに迫っている。

 

 

 

さらに進むと梶原のバス通りと交差する。梶原の地は「化粧坂」から延びてきた「上の道」に連絡する地。「大仏切通」から来た道はここから先は「上の道」と重なる。

 

 

 

右に延びる梶原のバス通り。この道筋が、方角的には「上の道」古道と重なり「化粧坂」へと通じている。鎌倉時代には南向き斜面に梶原一族の屋敷があった、とされている。

 

バス通りを横切り、その先は「上の道」古道となる道筋をゆく。

 

 

 

少し進んでいくと、不整形の四つ辻。正面左奥が古道の続き。

 

 

 

道が緩くS字状にうねるところが、古道然としていて、いい。

 

 

 

二又の分岐を右に、深沢中の方へ。

 

 

 

深沢中学校の敷地角の信号。直進していくとすぐ、深沢小学校。

 

 

 

深沢小の敷地に突き当たったところが、梶原地区の御霊神社への参道。

 

 

 

御霊神社。こちらは「ごりょうじんじゃ」ではなく「ごれいじんじゃ」と読む。

 

平安後期から鎌倉時代にかけての関東の大武士団・鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政(かまくら ごんごろう かげまさ)を祀る。
創建に関しては説が錯綜しており、明確ではない。

ここ深沢の地に領地を得た梶原氏は、源頼朝に従い御家人として活躍の場を得た梶原景時が最も著名であり、史実もかなり明確である。
しかし梶原景時の先祖数代、そして梶原氏の祖である鎌倉氏、さらには鎌倉氏の祖である坂東平氏(桓武平氏の流れをくむ平良文を祖とする)となると、遡るにつれて系譜は錯綜し、現時点で数種類の系図が確認されているという。

 

昔は年齢が親子ほど離れた兄弟はざらであり「若いいとこと思ったら実は叔父さん」であったとか、あるいは一族の養子縁組も盛んに行われた。系譜・続柄と歴史上の出来事とが時代を前後して錯綜するのはやむを得ない。年代が新しい系図であれば縁組などの修正が施されていると推定されるが逆に血縁の前後関係が不明瞭になろう。

 

 

 

由緒を記した当地の碑によると、梶原の御霊神社の創建は梶原景時、時は建久元年(1190)とされる。梶原の領地を得た梶原氏の祖は景通(かげみち)とされている。

他方で、御霊神社は景長(かげなが。景時の父)が創建したのであり、ここ梶原の領地を得た梶原の祖は景長である、という見解もある。

 

そして鎌倉景政との関係では、景長は景政の傍系(景長は景通の孫。景通は景政のおじ、あるいは景通と景政は兄弟)であることをもとにした記述があれば、景長は景政の孫であるとする系譜をもとにした記述もある。

 

鎌倉景政については生没年不詳であるが後三年の役(永保三・1083〜寛治元・1087)で若くして源義家に従い活躍した、とするのが通説とされている。
他方でこの由緒のように前九年の役(永承六・1051〜康平五・1062)で源頼義・義家親子に従って活躍した、とする社伝も少なからず見られる。

 

同時代の史実と丹念に整合していきながら研究を進めた結果の通説であろうが、社伝や縁起の類は伝承にすぎないと軽んじてしまうほど明瞭でないのがまた、古代史でもある。

天喜元年(1052)村岡に初めて景政の御霊を祀った、というのは柏尾川(かしおがわ。境川支流)の対岸に位置する村岡城址(藤沢市村岡東。玉縄城址の南)から近い、御霊神社(藤沢市宮前)のこと。
村岡城は平(村岡五郎)良文・平(村岡)忠光・平(村岡あるいは固館)忠通・鎌倉景成・鎌倉景政の五代にわたる居城と伝わる。
宮前の御霊神社は平良文が天慶(てんぎょう)三年(940)、崇道天皇を祀る京都の御霊神社を勧請したのが起こりとされる。後に鎌倉景政が合祀され、相模における御霊神社の本社とされる。

 

参考・「鎌倉の史跡めぐり(上)」清水銀造著、「かまくら子ども風土記(中)」、「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」神谷道倫著、「かながわの神社ガイドブック」。

 

 

 

はじめに拝殿。神社にしては珍しい、瓦葺。

 

 

 

拝殿裏の石段を上がった奥に本殿が建つ。がらんとした拝殿で参拝するというより、石段を上がって本殿の前で直接参拝するようなつくり。
このような社殿の並び方が、近在のひそやかなお社ではちょっと珍しい。

 

 

 

本殿。拝殿と本殿が一体化した社殿。

 

 

 

 

 

 

 

本殿の基壇は整形された石積みではなく、背後の山の岩盤を削りそのまま基壇として利用している。山の上に大きな平場を設けて石を積み社殿を築くのではなく、山に抱かれたようなお社だ。現在では開発の進んだ深沢・梶原の地が、いにしえには丘陵のうねる山深い地であったことを思わせる。

 

そしてこのあたりは、柏尾川の支流沿いに梶原一族の屋敷が連なる谷戸の、ちょうど入口のあたりだったということになる。

 

 

 

下の拝殿は向拝(こうはい。せり出した屋根)の周りが整えられてはいるが、中ががらんとしていて神楽殿か何かのよう。そのように見立てればこのお社の並び方はどこか、下拝殿(舞殿)、石段、本宮(上宮)と並ぶ鶴岡八幡宮、すなわち頼朝が再建した当時(建久二年・1191本宮造営、建久四年・1193下拝殿造営)の八幡宮社殿配置のようでもある。

もしも、これが現在の建物が建つ以前からこのような配置であったのを踏襲しているということなら、このお社は頼朝の代での再建による鶴岡八幡宮の社殿配置を景時がのちのちに倣ったのだ、とも想像できる。そうでなくとも現社殿の再建時に社伝の伝承を尊重し、景時ならこうしたであろうと想像して造営された様にも感じられる。

 

打倒平家を掲げて旗揚げした頼朝が手痛い敗北を喫した、石橋山の合戦。合戦における「鵐の窟(しとどのいわや)」での一件以来、頼朝に重用されてきた梶原景時。頼朝に心酔し、命を懸けて頼朝に仕えてきたようにも感じられる景時だからこそ、鎌倉党一族の中で出世頭となったとも思える。

 

半面、北条や三浦一族、秩父一族などほかの武士団の御家人からは必ずしも快く思われていなかったとされる景時。吾妻鏡においても後世でも、策を弄するばかりであるかの如く、あまりよくない描かれ方をされることの方が多い。が、坂東武士の鑑・畠山重忠とはまた違った意味で純粋な御家人であったのかもしれない。

 

こんな風に想像を膨らませていくのも、まち歩きの楽しみ。

 

 

 

境内の崖地には「やぐら(中世の横穴式墓所)」が見られる。石碑も幾つも立っている。

 

 

 

御霊神社から深沢小の敷地沿いに回り込み、新川(しんかわ)に沿ってモノレール「湘南深沢駅」へ。

 

 

 

新川の由来。この地が深沢村であった当時、灌漑用水路として昭和15年(1940)に開削された歴史が記されている。

 

 

 

モノレールが見えてきた。

 

 

 

湘南モノレール「湘南深沢駅」に到着。湘南モノレールでも平成30年(2018)4月よりSuica、PASMOといった交通系ICカードが利用できるようになった。

 

モノレール深沢駅の北側は、旧洲崎郷(寺分・町屋・山崎)。駅から少し行った先は、鎌倉時代末期の元弘三年(1333)「上の道」を南下してきた新田義貞の鎌倉攻めの軍勢が、迎え撃った北条勢と激戦を繰り広げた古戦場の跡となる。

一方、「上の道」は深沢駅の向こうへと続き、やがて境川沿いに北上し府中(武蔵国府)・秩父方面へと延びていく。その手前、柏尾川(境川支流)を渡るところに古館橋という橋が架かる。その辺りは固館忠通の館があった辺りとされる。固館忠通とは平良文の孫にして鎌倉景政の祖父。 固館忠通の館は通説では村岡城址であるが、一説には古館橋のあたりにあったともされている。
参考「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」「鎌倉の史跡めぐり(上)」

 

帰りはモノレールでJR大船駅へ。

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