まちへ、森へ。

お大師様への道

南関東を悠然と流れる多摩川の下流域に真っ平らに広がる街、川崎市川崎区。平成27年(2015)7月下旬、旧東海道川崎宿から風鈴市の川崎大師、瀋秀園(大師公園内)を歩く。

 

1.八丁畷駅から旧東海道・川崎宿へ

 

 

 

京急・八丁畷(はっちょうなわて)駅から旧東海道へ。

 

 

 

駅から歩き始めてすぐの、松尾芭蕉の句碑。

 

 

 

元禄7年(1694)、江戸深川から郷里の伊賀へ向かう芭蕉が川崎宿にて門人との別れを惜しんで詠んだ句「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」が刻まれている。碑の建立は文政13年(1830)。碑はかつて宿場の京口(上手の土居。上方見附)に建っていたという。

 

 

 

旧街道を江戸方面へ進んでいく。

 

 

 

小土呂橋(こどろばし)の親柱。橋は江戸時代初期に開削された新川掘(しんかわぼり)用水と旧東海道の交差する位置に架けられていた。

 

川崎宿は小土呂(こどろ)・砂子(いさご)・新宿(しんしゅく)・久根崎(くねざき)の四町から成った。宿の成立は他の宿場より遅く元和9年(1623)。神奈川宿・品川宿の距離が往復で十里(約40q)にもおよび両宿の伝馬の負担が過重だったために設けられた。江戸時代後期には宿場の人口はおよそ2500人を数えた。

 

 

 

佐藤本陣(上の本陣)跡。
川崎宿にはこの京寄りの佐藤本陣と江戸寄りの田中本陣(下の本陣)の二つの本陣があった、と紹介されることが多い。もう一つ、三つ目の本陣として惣兵衛本陣(中の本陣)も存在したが、そちらは江戸時代後期に廃業してしまった。

 

江戸を出発した旅人の最初の宿泊地とされることが多かった戸塚宿(健脚の旅)あるいは神奈川宿(ゆっくりの旅)の本陣は二軒。本陣の維持はたいへん費用が掛かり経営を圧迫したという。後発の川崎宿に三つも本陣があった時代があるというのは、やはり江戸へ向かう際に川留めもありうる六郷の渡し(渡船場)の手前であったということにもよるのだろうか。

 

 

 

砂子交差点付近。現在では銀行・証券会社が立ち並ぶこのあたりから新宿あたりにかけてが川崎宿の中心地であった。

 

 

 

東海道から六郷の渡し、大師道(だいしみち)の案内板。 案内板拡大版

 

 

 

高札場跡に立つ川崎宿総合案内板。 案内板拡大版

 

 

 

惣兵衛本陣(中の本陣)跡。
このような小さな案内板が、問屋場跡、助郷会所跡など、川崎宿を通して見られる。

 

 

 

なまこ壁が目を引く、砂子の里資料館。多数の浮世絵を所蔵している。日曜祝日は休館。

 

 

 

広重画「東海道五十三次之内 川崎」(保永堂版)。川崎宿といえば、六郷の渡し。

 

 

 

東海道かわさき宿交流館。月曜休館。川崎宿の歴史を広く紹介する施設として、平成25年(2013)秋にオープンした。

 

 

 

交流館一階には江戸名所図会に描かれた万年屋(まんねんや。万年)店先の様子が再現されている。

 

東海道から大師道への分岐に立地し、宿場で随一の賑わいを見せたという茶屋・旅籠「万年屋」。
幕末開港期にはアメリカ総領事ハリスも万年屋に宿泊した。ハリスが本陣ではなく旅籠にしたのは、本陣がすでに疲弊していたためこちらに宿を変えた、ということだそう。

 

 

 

二階の展示室。

 

 

 

川崎宿の模型。

 

川崎宿は宿場の規模の割には旅籠がとても多い。それも宿場の江戸方に集中している。それはやはり、川崎大師への参詣客に負うところが大きい。

 

江戸の町衆にとっての川崎大師は厄払いのお詣りの地。江戸を出発して最初の大河である六郷川を渡り、大師道へ。大師詣での後は万年屋をはじめとした旅籠・茶屋で精進落しをして、再び江戸市中の日常へ。この地は江戸庶民にとって、日常と非日常の境だった。なお、通常では一泊の行程となる大師詣でであったが健脚な者は江戸市中から大師を日帰りで往復した、という。

 

 

 

田中本陣(下の本陣)跡。

 

 

 

案内板。  案内板拡大版

 

宝永年間(1704〜)の当主であった田中休愚(たなか きゅうぐ)は六郷の渡しを川崎宿の請負とすることに成功し宿場の財政を立て直した。

 

 

 

奥に六郷橋が見えてきた。東海道は六郷の渡し手前で大師道が分かれ、大師への参詣道が延びていく。

 

 

 

スーパーマーケットオーケー辺りの宿場案内板。 案内板拡大版

 

 

 

六郷の渡しの案内板。

 

 

 

幕府は当初、六郷川には六郷大橋を架けていた。初めの橋は慶長五年(1600)の架橋。洪水による流失の度に架け替えられた。貞享五年(1688)の洪水による流失を最後に、六郷川は渡船による渡しとなった。洪水時には二百六、七十間(数百メートル)の川幅となり「川留め(渡船禁止)」となったという。

 

 

 

このあたりでは多摩川に沿って走る、四両編成の大師線。手前の線路脇段差は旧六郷橋駅(二代目)跡。

 

 

 

上流側は川崎駅周辺。護岸で固められた川の向こう、東京側は川幅よりはるかに広い河川敷が広がっている。

 

 

 

五雲亭貞秀「東海道六郷渡風景」。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

幕末の絵師、貞秀の描いた東海道。川崎宿から大名行列が六郷を渡し船で渡っていく。川を渡った対岸、東海道は蒲田から大森へと続く。
遠景は富士山を挟んで左に大山、右に高尾山。

 

 

 

箱根駅伝のコースとなる六郷橋は、国道15号(第一京浜)が多摩川を渡る橋。明治初期に再び木橋が架けられた後も大正末期頃までは渡し船が存続していたという、六郷川(多摩川)。

 

 

 

橋の下流側のたもとには、明治天皇六郷渡御碑。

 

 

 

下流側。奥に大師橋の斜張橋主塔が小さく見える。多摩川の流れ下っていった先、河口の左岸(東京側)は羽田空港。右岸(神奈川側)は首都高湾岸線・東京湾アクアラインの浮島ジャンクションや石油化学コンビナートがある浮島。

 

 

 

大師道へ。

 

 

 

道端の案内板。

 

 

 

徳川による六郷大橋の架橋より前、戦国時代の北条氏も橋を架けていたことが文献の記述からうかがえる。

 

 

 

国道409号(現在の大師道)に出る。右手には川崎競馬場が広がり、市街地にしては空が広い。

 

 

 

港町(みなとちょう)駅から大師線に乗車、川崎大師駅へ。真夏の炎天下、無理をせず電車で行く現代の大師詣で。

 

 

 

川崎大師駅に到着。

 

 

2.川崎大師・真言宗大本山平間寺へ

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