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お大師様への道


2.川崎大師・平間寺

1.八丁畷駅から旧東海道・川崎宿へはこちら




京急大師線・川崎大師駅ホーム。




大師への参道はホーム階段を下りて地下道をくぐった先の南口側。造りの古いこの駅では、バリアフリーの動線は北口を出て踏切を渡っていくということになる。




川崎大師駅。赤く塗られた柱、菱格子欄間が大師参詣の最寄駅にふさわしい雰囲気を醸している。

同じく京急沿線の旧宿場町・神奈川駅のような箱棟付き寄棟造の屋根でもかければ、より一層大師門前町の駅としての風情も豊かになろう。が、大師線は将来に向けて連続立体交差事業(地下化)の大工事を控えている。




京急発祥の碑。
前身の大師電気鉄道は明治32年(1899)の開業。大師参詣の足として六郷橋駅と大師駅を結び、関東では初の電車による営業線となった。のちに六郷橋駅は廃止されたため、川崎大師駅は京急で最も古い歴史を持つ駅ということになる。

全国的に見ても大師電鉄は京都電気鉄道、名古屋電気鉄道(いずれも路面電車)に次いで三番目の電車営業路線。営業路線としては日本初の標準軌路線でもあった。




川崎大師周辺の、案内図。 案内図拡大版




表参道へ。駅前に建つ厄除門。




「南天堂」。外国人や和風好きの観光客に喜ばれそうな民芸雑貨の店。




大師の敷地沿いに、表参道が延びていく。




「住吉屋総本店」。帰り際、川崎大師名物の久寿餅(くずもち)をこちらで購入。




画像は二枚入り。
川崎大師界隈の久寿餅で一番の有名どころはここからのれん分けした「住吉」だが、ここ「住吉屋総本店」では「住吉」よりも小ぶりなものを一枚から販売している。小人数であったり、初めての人がお試しで購入するにはちょうどいい。




久寿餅は、葛餅(くずもち)とはちがう。材料は葛粉ではなく小麦澱粉。これを発酵させて作る。
その食感はくずきりのようなツルッとした感触ではなく、餅といえどもニューっと柔らかでもない。ブルンとした弾力があり素材そのものに甘味はない。

子どもの頃、大師への初詣のみやげといえば大叔母お薦めの「住吉」の久寿餅だった。その当時、子ども心に特別おいしいと思った記憶はない。甘い下味が付いているわけではなく、確かに子ども向けではないかもしれない。
独特の風味の餅に黒蜜ときな粉を絡めて食するその味は、年齢を重ねた今だからこそわかる美味さだ。




表参道には「恵の本(えのもと)」や「住吉」といった、くずもちの有名どころが続く。




仲見世への目印となる門。まっすぐに行けば東門前(ひがしもんぜん)駅に至る通りと交わる。この門の建つ角を右に入る。




少し進むと、仲見世の門。参道のせき止め飴の店からは、トントコ、トントコと小気味よい庖丁の音が軽やかに響く。




仲見世の奥に、山門が見える。




山門の右手にひときわ目立つ、「住吉」の仲見世店。表参道店とは中で繋がっているとのこと。




大山門(遍照門)。往時の伽藍は第二次大戦の空襲で焼失し、現在の堂宇は大半が鉄筋コンクリート造。




かつての山門。
画像出典・市制記念川崎誌(大正14・1925年発行。国立国会図書館デジタルコレクション)。




山門の像は戦前までは仁王像であったというが、現在は四天王の鋳像が四体。この像は多聞天(毘沙門天)。




真言宗智山派大本山・金剛山金乗院平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)。縁起によれば創建は平安時代後期の大治三年(1128)と伝わる。

開基は付近に在住の漁夫・平間兼乗(ひらまかねのり)。海中から出現した弘法大師像を祀ったのが起こり、という。兼乗の父は源義家の家臣であり前九年の役・後三年の役の武勲により尾張に所領を得るも冤罪を被って武州に流れ着いた、とされている。
開山は高野山の僧・尊賢。

社寺の創建は空海や行基といった高僧による創建の伝承が多く見聞きされるものではあるが、御本体が海中より現れ土地の人が堂を建てたのが起こり、という例も案外見られる。川崎・横浜・鎌倉あたりであれば根岸の根岸八幡神社や長谷の長谷寺などに御本体が海から現れたという伝承がある。

山の神仏、海からの神仏。自然界における八百万の神々と仏教の融合。日本人の道徳心・信仰心はだてに長きにわたって育まれてきたものではない。




大山門をくぐり、境内へ。


縁起によると尊賢は後に京に上り、美福門院の乳母であった姪のつてで鳥羽上皇に謁見。皇嗣(後に近衛天皇となった皇子)を求める祈願が成就し、永治元年(1141)崇徳天皇より勅願寺の宣旨を賜った、とされる。
参考文献 市制記念川崎誌(大正14・1925年発行)、川崎市民読本(昭和16・1941年川崎市教育会発行)。

余談であるが、鳥羽上皇と崇徳天皇との間のどろどろとした怨念めいた確執は下手な怪談話よりもぞくっとくるものがある。日本の古代史末期における、凄まじい権力闘争の幕開けである。

江戸時代には江戸庶民の厄払い参詣が隆盛を極めた川崎大師。先に訪れた東海道かわさき宿交流館の展示ビデオではこんな逸話が上映されていた。
文化十年(1813)、徳川11代将軍家斉(いえなり)が厄除祈願のため大師に参詣することとなった。平間寺山主の隆円(りゅうえん)はその準備に奔走。ところが、あろうことか家斉公到着のその日に過労で倒れ亡くなってしまった。
家斉が隆円の顔を知らないこともあり、大師側は喪を隠して代役を立て祈願は無事に執り行われたが、そのことが江戸市中の噂となって広まってしまった。されど江戸庶民は「隆円さまが公方様(くぼうさま)の厄を一身に引き受けられた」と好意的にうけとり「川崎大師は厄除の御利益著しい」と更なる参拝者で一層賑わった、という。

幕末の開港期、横浜居留地の外国人が自由に出歩くことのできた遊歩区域の東海道における西限は小田原の酒匂川、北限は六郷川までであった。文久二年(1862)の生麦事件で落命した上海在住の英国人商人リチャードソンは、横浜在住の商人仲間とともに北限にあたる川崎大師の見物に出かけようとして生麦で事件に遭遇した、と考えられている。




聖徳太子堂。




清瀧権現堂(せいりょうごんげんどう)。小さなお堂は、木造建築。




大本堂。




平間寺の寺紋は「丸に三つ柏」であるが、勅願寺である平間寺は屋根の棟に皇室の御紋である五七の桐・菊の御紋を戴いている。




かつての大本堂。
画像出典・川崎市民読本(昭和16・1941年発行。国立国会図書館デジタルコレクション)。




本堂では護摩行が行われていた。









入母屋造の大屋根の妻壁側、鬼瓦の下には「丸に三つ柏」の紋。こちらが寺紋。




本堂から見る大山門。夏休みに入ったばかりの、海の日(7月20日)。




大山門をくぐってすぐの境内で例年夏休みの始まるころに行われる、風鈴市。









この市には全四十七都道府県の風鈴が集まっている。














素材も様々に、涼しげな風鈴の音がそこかしこに響く。




大本堂から奥へすすむと、中書院。二つの茶室が設けられている。




六字名号塔(ろくじみょうごうとう)。「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれたこのような塔は、造立者の所願成就の記念として建てられた。
この石塔は江戸時代初期、寛永五年(1628)の造立。江戸・京橋の商人によるもの。




覆屋に覆われており、石塔そのものは見えない。




八角五重塔。中興塔として戦後の伽藍再整備の過程で新たに建てられた。




八角五重塔の周辺は風鈴市の期間、屋台で大変な賑いとなっている。

仏教における八の数字には様々な意義が込められており、八角の堂は円に近い理想的な形として各地で見られる。ただ、八角の塔は我が国ではほとんど見られない。




その優美な姿は、鉄筋コンクリート造とはいえ木造の塔にひけを取らない。




不動堂。




大本坊。




第二次大戦の空襲で焼失した旧本堂の礎石が置かれている。




「従是(これより)弘法大師江之道」の道標。寛文三年(1663)造立のこの道標は、かつて旧東海道・六郷の渡しあたりに大師道への道しるべとして置かれていた。

空襲で堂宇をあらかた焼失した川崎大師であるが、江戸時代初期の幾つかの石造物がこうして往時をしのばせる。




庭園の池に架かる、やすらぎ橋。




鶴の池と呼ばれるこの池は、昭和初期の頃までは今より大きな池であったという。




インドの寺院を思わせる薬師殿。




川崎大師・境内案内図。

ここから案内図左下の駐車場を抜けて、大師公園・瀋秀園(中国式庭園)に向かう。


3.瀋秀園(大師公園内)へ。  まち歩きトップへ戻る。