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鎌倉・獅子舞の紅葉と、「武家の古都」その黎明期の名残り。


瑞泉寺から二階堂・永福寺跡、荏柄天神社を経て鶴岡八幡宮へ

鎌倉駅から獅子舞の紅葉、天園を経て瑞泉寺へはこちら。




瑞泉寺(ずいせんじ)の総門が左手に見える。
右手に進み、窓口で拝観料を納めて奥へ。




右手に延びる参道。




森閑とした幽谷の境内。




臨済宗円覚寺派・錦屏山(きんぺいざん)瑞泉寺。

瑞泉寺は鎌倉時代の末期、嘉暦(かりゃく)二年(1327)、夢窓疎石(むそうそせき。夢窓国師)による開山。開基は鎌倉・室町を通じての文官の家系・二階堂貞藤。
室町時代には初代鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府長官)足利基氏(もとうじ。足利尊氏の四男)により中興。歴代鎌倉公方の菩提寺として隆盛を誇った。




山深き古刹の風情を醸す参道。




山門。




瑞泉蘭若(ずいせんらんにゃ)と記された扁額。蘭若(阿蘭若)とは修行に相応しい閑寂の地といった意味。




瑞泉寺は五山十刹(ごさんじっさつ)制における関東十刹の第一位の格式を有した。




山門の築地塀(ついじべい)。五本の白い筋が入り、格式の高さを示している。




茶室。




前庭の石庭。




禅宗様の仏殿。強い反りの入った宝形造(ほうぎょうづくり。上から見ると正方形)の屋根をかける。




縦にはめられた板壁に釣鐘型の火灯窓(かとうまど)。
火灯窓は末広がりではなく縦に真っ直ぐの、ごく初期の様式。火灯窓の横には火灯口が設けられている。このようなつくりは円覚寺舎利殿などにみられ、禅宗様の様式としてはかなり古い。横浜杉田・東漸寺釈迦堂を参照。

瑞泉寺の仏殿は近年の築とされるが禅宗様の伝統的な様式を踏襲した仏堂となっている。




仏殿裏手の庭園へ。
鎌倉における鎌倉時代唯一の庭園は、夢窓疎石(夢窓国師)による作庭と伝わる。昭和45年(1970)までの発掘調査により復元された。
なお、その眼を鎌倉近郊まで広げれば、鎌倉時代の庭としては金沢・称名寺の浄土庭園もある。




庭園に面して真っ先に目を惹く、大きな岩窟。天女洞と名付けられている。そこは手前の池(貯清池)に映る月を眺める位置に座する、水月観の道場。
右手の小さな洞窟は葆光窟(ほうこうくつ)といい、こちらも座禅のための洞窟。




更に右手には滝を掛ける。日常的には水の流れない枯滝となっているよう。




滝の流れる先に連なる池は中之島などが彫り残され、平橋(ひらはし)、反橋(そりはし)を架ける。
その背後は岩壁に付けられた十八曲りの登路を経て山頂の遍界一覧亭(へんかいいちらんてい。非公開。遍は正式には行にんべん)に至る。
一覧亭から眼下に広がる幾重もの山並み、奥に霞む箱根の山々・霊峰富士、相模湾を池に見立てた借景の大庭園は、天園(六国峠)の岩場からの眺めに重なろう。

岩壁に掘られた、他には類を見ない庭園であるが、こうしてみると日本庭園の要素を一通りそろえている。




全体像。 拡大版 

中世の武家の世に発展した禅文化は、京の竜安寺石庭を代表とする洗練された枯山水の完成により一つの境地に達した。
この瑞泉寺庭園はそれらにさきがけ、大自然に分け入って身を置くことで行う禅修行の場に近いものを感じさせる。草木を払い岩肌を削り、岩窟を穿つ。素朴ながらも野趣あふれる庭園としての体を整え、池面に映す月を前に座禅を組む。これもまた、坂東における質実剛健な武家文化のありようの一つに思える。




まもなく見頃を迎えるモミジ。




地蔵堂。




瑞泉寺の建つこの谷戸(やと)は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる。紅葉の美しい場所であったことが山号(錦屏山)の由来となった。




錦の屏風を背後に従えた仏殿。




山門の傍らには幕末の志士・吉田松陰留跡(りゅうせき)の碑。
松陰は黒船に乗り込んで渡航を企てるも失敗、囚われの身となった。それに先立つこと数回、松陰は伯父にあたる和尚を訪ねて瑞泉寺を訪れている。獄中にて松陰は瑞泉寺を想う漢詩を残した。




古色蒼然とした石段を下りていく。踏み幅が狭いので登りに用いるほうが歩き易いかもしれない。




瑞泉寺を後に、永福寺跡に向かう。




通玄橋(つうげんばし)を渡った先が、永福寺跡。




永福寺(ようふくじ)跡。
永福寺は、奥州合戦の戦没者を慰霊するため源頼朝により建立。建久五年(1194)に三堂が整った。




中央に位置する二階堂は、二階堂という地名の語源となった。  案内図拡大版  

その堂は、頼朝が驚きを以て目の当たりにした奥州平泉・大長寿院(中尊寺の塔頭・たっちゅう)を模して造られたという。大きく翼を広げるが如きその雄大な堂宇は頼朝ゆかりの鎌倉三大寺のひとつに数えられた(他は鶴岡八幡宮寺、勝長寿院(しょうちょうじゅいん。大御堂・おおみどう)。鶴岡八幡宮は当時、神仏混淆)。

鎌倉時代には歴代将軍が、室町時代には歴代鎌倉公方がこの地をたびたび訪れる。室町幕府初代・二代将軍となる足利尊氏、足利義詮(よしあきら)も執権北条氏の滅亡後に鎌倉入りした際には滞在していた。
応永12年(1405)火災にあってからは寺勢が衰え室町時代の後期に廃絶した、とされる。




CGによる復元想像図。各種文献や同時代における建築様式の学術的考察による。




CGにて甦ったその姿は、誰もが浄土思想を体現した代表的建築・宇治の平等院鳳凰堂を思い浮かべるであろう壮麗さ。その規模は全長130mにもおよぶ。




現在、遺跡発掘事業が進んでいるが堂宇については明確な図面を欠くため、基壇や苑池などを復元し史跡公園として整備される予定。願わくば復元された堂を見てみたい。




背後の山も遊歩道として整備されている。

永福寺跡をあとにしてテニスクラブ駐車場の脇を通り、鎌倉宮へ通じる道(二階堂大路)へ。




二階堂大路は金沢街道(六浦道・むつらみち)から分岐して永福寺の前に至る道。現在のバス通りである岐れ道(鎌倉宮へのお宮通り)と並行している。




鎌倉宮(かまくらぐう。大塔宮)。バス停の名をはじめ、地域では「だいとうのみや」と呼びならわされた。

鳥居の形式はちょっと珍しい中山鳥居(なかやまとりい)。上部の横木(笠木)の形は明神鳥居(みょうじんとりい)のようだが下部の木(貫・ぬき)は神明鳥居(しんめいとりい。伊勢神宮の鳥居に似た形)と同じく柱の外側に貫通していない。




鎌倉宮は明治二年(1869)明治天皇の勅令により建立。祭神は護良親王(もりながしんのう。後醍醐天皇の皇子)。

護良親王は仏門に入り「大塔宮(おおとうのみや)」と称されたが還俗。鎌倉幕府の滅亡(1333)後は建武の新政で征夷大将軍となる。
しかし足利尊氏との対立を経て鎌倉に流され、足利直義(ただよし。尊氏の弟)により東光寺に幽閉。建武二年(1335)北条時行(ときゆき。北条最後の得宗当主・高時の子)が鎌倉奪還のために挙兵(中先代の乱)、敗れた直義が鎌倉から逃れる際に護良親王は殺害されてしまった。




拝殿。奥に本殿。




鎌倉宮を後に、荏柄天神社へ。

鳥居をくぐってお宮通りを進み、最初の角を右折。




すぐに荏柄天神の参道に出る。




こちらの参道も金沢街道(六浦道)から分かれて延びてきており、岐れ道(お宮通り)や二階堂大路と斜めに交差している。




鳥居前には、交差して植えられた大きな柏槙(ビャクシン。ヒノキの仲間)。




神門の傍にそびえる大イチョウ。創建当時のものといわれ、鶴岡八幡宮の大イチョウが失われた現在では鎌倉随一のイチョウの大木となった。









荏柄(えがら)天神社。太宰府天満宮、京都の北野天満宮とあわせて日本三天神に数えられることもある。




社伝によると、創建は鎌倉幕府開府(1192)に先立つことおよそ90年、長治元年(1104)。祭神は学問の神・菅原道真。

治承四年(1180)源頼朝が大倉幕府(大倉御所)を造営するにあたり、鬼門を鎮守する社として崇敬された。
以降、鎌倉幕府の歴代将軍、室町時代の歴代鎌倉公方により崇められた。戦国時代には小田原北条氏第三代当主・北条氏康が社殿再興のために通行税を徴税した記録が残る。
天正18年(1590)小田原入りした豊臣秀吉は鎌倉を訪れこの天神に参拝。徳川家康に命じて社殿を造営させた。以後、歴代の徳川将軍家も修理や寄進を行い崇めている。




権現造(ごんげんづくり)の社殿。左手に拝殿、間を幣殿(へいでん)でつなぎその奥に本殿。本殿は社殿の中で最も古い。江戸時代初期の寛永元年(1624)、鶴岡八幡宮の大改修により八幡宮下宮の元の建物(正和五・1316築)をこの地に移築したと考えられている。




奥に祠の祀られた岩窟。熊野権現を祀る。




天神社を後に、頼朝の墓へ。




ビャクシンをくぐったすぐのところを右折、案内の通りにまっすぐに進む。




しばらく進むと右手に墓所への参道。




石段の前には頼朝公顕彰碑。向かって左手には白旗神社。
石段を登っていく。









頼朝の墓は、五重の層塔。

江戸時代後期の安永八年(1779)、頼朝の子孫にあたる薩摩藩主島津重豪(しげひで)が供養塔として移転、整備した。

石塔は元は大御堂(おおみどう)跡にあったという。大御堂とは勝長寿院(しょうちょうじゅいん)。頼朝の創建による鎌倉三大寺のひとつ(あとの二つは鶴岡八幡宮寺、永福寺)で、頼朝が父義朝を弔うために建立した。




この平場には、元は頼朝が生前に建てた持仏堂(じぶつどう。家の位牌を祀る堂)が建っていた。持仏堂が後に法華堂と呼ばれるようになった。
江戸時代には法華堂は石段の下、現在の白旗神社の位置に移っている。白旗神社となったのは明治期の神仏分離の後。




この平場から少し離れた別の平場に、北条義時の法華堂跡がある。そちらは後で見に行く。




背後の崖地に、山道の登路が付けられている。









たどった山道の先には、三基のやぐら。




中央のやぐらは大江広元(おおえのひろもと。1148〜1225)の墓。

大江広元は平安末期〜鎌倉初期の貴族。元は朝廷の文官。京より頼朝の側近として鎌倉に迎えられ、草創期の幕府を支える重臣となった。
広元は公文書管理など政務を司る公文所(くもんじょ。のちに政所(まんどころ)に統合・整備)の別当(長官)を務め、守護・地頭の設置などに政治手腕を発揮した。幕府内では頼朝に次いで高い官位を有し、数々の記述からは頼朝亡き後も多くの有力御家人から頼られる存在であったことがうかがえる。

向かって左隣りは毛利季光(すえみつ。毛利氏の祖。大江広元の四男)の墓。幕府の御家人であった季光は相模国毛利荘(現在の厚木市)を基盤とし毛利氏を名乗る。季光の末裔が戦国大名・毛利氏となった。
広元の墓、季光の墓ともに江戸時代後期の文政六年(1823)に長州藩主毛利氏が元からの横穴墳墓を整備。その際に五輪塔が設置された。

右手には島津忠久(ただひさ。島津氏の祖とされる)の墓。忠久は一説には頼朝の側室の子といわれる。こちらも江戸時代後期に薩摩藩主島津重豪(しげひで)が整備した。広元、季光の墓とは石段が途中から別々に分かれている。




石段を下りていく。




下りた先の平場。




三つのやぐらが近世に整備されるよりもはるか昔、この地には鎌倉幕府第二代執権・北条義時の法華堂が建っていた。
平成17年(2005)に行われた平場の発掘調査によって吾妻鏡(あづまかがみ。鎌倉幕府編纂の歴史書)の記述が裏付けられた、とある。




石段を下りた先へ進むと、頼朝の墓を訪れる際に通過したところに戻ってきた。奥に見えるのが石段。

ここから頼朝の墓を訪れた時のように清泉小学校の敷地沿いに八幡宮方面に進み、小学校の角を左折。




小学校敷地の角に建つ、大倉幕府(大倉御所)旧跡の碑。

大倉御所は、鎌倉入りした頼朝が治承四年(1180)に造営した、鎌倉幕府の政庁にして「鎌倉殿(かまくらどの)」頼朝の御所。寝殿造の屋敷をはじめ、侍所(さむらいどころ)や公文所(くもんじょ。のちの政所・まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)といった幕府諸機関の役所を整えた。
清泉小学校敷地のおよそ4倍の広さとなる大倉幕府敷地は、ちょうどこの碑の辺りがほぼ中央となる。




新編相模国風土記稿(巻之八十三鎌倉郡巻之十五山之内庄)にみる、頼朝屋敷図。 拡大版 
画像出典 国立国会図書館近代デジタルライブラリー 


この地は源氏将軍三代、そして「尼将軍」政子の頃まで幕政の中心となった。

その後嘉禄元年(1225)に広元・政子が相次いで亡くなると、幕府(御所)は四代将軍となる藤原頼経(摂家将軍)の元服・将軍宣下に合わせるように、三代執権北条泰時により幕政一新の名のもと同年中に宇津宮辻子(うつのみやずし)御所へ、嘉禎二年(1236)には若宮大路御所へと移転する(両御所は幕府敷地の区画としては同一区画内)。若宮大路御所は幕府の滅亡(元弘三年・1333)まで続いた。

そして室町時代に入ると鎌倉府・鎌倉公方足利氏の御所(金沢街道・浄明寺のあたり)、鎌倉府の消滅後は関東管領山内(やまのうち)上杉氏の邸宅が権力者の居所となる。戦国時代に入ると鎌倉中心部から離れた後北条氏の支城・玉縄城(たまなわじょう)が鎌倉地域の統治の中心となり、家康の江戸入府後は鎌倉自体が政治権力の表舞台から遠ざかっていく。

「武家の古都」の核心ともいうべき大倉幕府・大倉御所が形のある史跡として現代に伝わるには、あまりにも膨大な空白の時が流れ過ぎてしまった。


ここから八幡宮の方向へ進み、国大付属小・中学校の敷地沿いに東の鳥居へ。




八幡宮・東の鳥居前に建つ、畠山重忠(はたけやましげただ。1164〜1205)邸址の碑。

畠山重忠は平安末期〜鎌倉初期の武将。畠山氏は秩父平氏の一族。武蔵国畠山荘(現在の埼玉県深谷市)を基盤とした。
鶴岡八幡宮、大倉幕府に近いこの地に鎌倉における屋敷を構えていたことが、重忠に対する頼朝の信任の篤かったことを物語る。

当初平家方であった重忠は、頼朝が安房にて体勢を立て直したのちに頼朝に従い、有力御家人となる。重忠といえばこれをおいて他にはない、一の谷の合戦・鵯越(ひよどりごえ)の逆落としの伝説が後々の世に広く語り継がれた。数々の武功はもとより、その清廉潔白な人となりは坂東武士の鑑と称えられた。

頼朝が重忠に寄せる信頼は絶大であり、頼朝はその亡き後を重忠に託す。が、娘婿を介して権力を恣にしようと企てた北条時政の後妻・牧の方の謀略により、重忠は居所・菅谷(すがや)館より鎌倉に誘き出され武蔵国二俣川(ふたまたがわ。現在の横浜鶴ヶ峰)にて壮絶な最期を遂げた




八幡宮境内の源平池(源氏池)。此度はこれまでにして、JR鎌倉駅へ向かう。


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