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境川源流・草戸山から城山湖、津久井城址へ


城山湖(本沢ダム)から峯の薬師、城山(津久井城址)へ。

多摩丘陵北西端・草戸山(町田市最高峰)から城山湖(本沢ダム)へ、はこちら。




城山発電所地上部の制御所に沿った城山湖周回ハイキングコース(舗装路部分)。車止めの向こうに散策路の続き。




ハイキング道を行く。




眺望が開けた。




眼下に広がる城山湖(しろやまこ)・本沢(ほんざわ)ダム。




峯の薬師への分岐。









すぐ先には南高尾山稜への分岐。南高尾山稜方面は三沢峠に至る。




このあたりは草戸山山頂にあった案内図が分かりやすい。 拡大版 




しばらく行った先に現れる関東ふれあいの道の道標。このあたりが今回の行程の最高地点。標高およそ405m。




三井(みい)無線中継所。フェンス沿いを行く。




晩秋の尾根道歩き。




車止めフェンス。




峯の薬師奥ノ院に到着。標高およそ370m。









奥ノ院を後に、ハイキング道へ戻る。




眼下に津久井湖がちらちらと見えてきた。









峯の薬師に到着。標高およそ325m。眺望がぱっと開け、眼下に津久井湖が広がる。対岸には三角の城山(津久井城址)。




城山ダム。




大覚山東慶寺・峯の薬師。創建は室町時代後期の明応元年(1492)と伝わる。武相四大薬師(他に東京中野・新井薬師、高尾山・薬王院、大山・日向薬師)のひとつ。




境内の、津久井湖周辺散策マップ。 拡大版 

ここから山を下りて三井大橋(みいおおはし)を渡り、城山に上り返す。




紅葉が見ごろの境内。




峯の薬師に建つ歌碑「右はふじ 左は高尾 津久井湖の かなたぞのびる 相模よこやま」。




「姿三四郎決闘の場」の碑。

姿三四郎(すがた さんしろう)は実在の柔道家をモデルとした小説の主人公。必殺技「山嵐(やまあらし)」を武器に「柔よく剛を制す」三四郎は、多くの柔道家らの異名ともなった。
思い出すのは古賀稔彦(こが としひこ)の「平成の三四郎」、山口香の「女三四郎」あたり。そして、藤岡弘の「せがた三四郎」も。




峯の薬師を後に、津久井湖岸へ。時刻は12時15分。




峯の薬師から津久井湖岸へは、つづら折りの山道を下っていく。









県道に出た。標高およそ195m。




三井大橋(みいおおはし)への道標。




車道脇から、降りていく。




赤いアーチが美しい、三井大橋。




正面に城山が見える。晩秋のこの時期、民家のあちらこちらで咲き誇る皇帝ダリア。




枝を落とした跡がタコの吸盤のような、大きなケヤキ。




再び県道に出た。奥に進むと三井大橋。




三井大橋の隣りには、吊り橋の人道橋である三井そよかぜ橋が架けられた。




吊り橋を行く。赤いアーチの造形美が美しい、三井大橋。









太井(おおい)の交差点から、城山方面へ。




北根小屋(きたねごや)のバス停。




県立津久井湖城山公園の案内板。 拡大版 
津久井城址のある城山を丸ごと公園とすべく計画されており、全面開園すればおよそ98ヘクタール(100m四方×98)にもなる。
最新の案内図は津久井湖城山公園公式サイト(外部サイト)へ。

時刻は午後1時ごろ。予定時間をだいぶ超過してしまったので、津久井湖観光センター・城山ダムには寄らずに早速登り始めることにする。




目の前に見える築井(つくい)公園橋を渡り、津久井城址へ。




公園橋からは山頂の曲輪(くるわ)まで、登山道が整備されている。









江川ヒノキ林。江戸時代末期の伊豆韮山(にらやま)の代官・江川太郎左衛門による植林と伝わる。









鎖場(くさりば)が現れた。案内図にもその旨記載されている。









標高は高くはないが、変化に富んだなかなか楽しい登山道だ。









眼下に相模川、大きなアーチ橋の新小倉橋が見える。手前を横切るのは平成26年(2014)に開通したばかりの圏央道。奥に橋本(相模原市緑区)の街。




樅(モミ)の仲間、榧(カヤ)の木。




カヤは葉の先端が鋭くとがる。




板根(ばんこん)が成長している、ムクノキ(エノキ?)。




ケヤキとヒノキがぴったり密着して伸びている。




根元はほとんど一体化してしまった。




尾根伝いに曲輪(くるわ)の並ぶ山頂部まで来た。時刻は午後1時45分。飯綱曲輪(いいづなくるわ)、本城曲輪(ほんじょうくるわ)へ行く前に鷹射場(たかうちば)へ寄る。

曲輪とは、城や砦に造られた平らな区画。









鷹射場への細い尾根は、堀切(ほりきり)と呼ばれる縦の堀で更にえぐられている。これにより城の防御機能が高まる。









鷹射場(たかうちば)に到着。




鷹射場(たかうちば)からの市街地。橋本のタワー群。




横浜方面。




彼方にランドマークタワーがうっすらと見える。

鷹射場から尾根を引き返して飯綱曲輪(いいづなくるわ)へ。




登山道分岐のすぐそばにある、宝ヶ池(たからがいけ)。枯れることのない溜井は籠城するときに貴重な水源となった。




案内板。 拡大版 




宝ヶ池から大杉へ。




御神木の大杉。樹齢900年ともいわれた大杉は、平成25年(2013)の落雷で幹を焼失してしまった。




焼け焦げて炭になった幹が横たわっている。




900年の歴史が、自然界の掟とはいえこのようなかたちで閉じるとは。太枝は生きながらえてくれるだろうか。

宝ヶ池に戻り、先へ進む。




飯綱曲輪に隣接する、烽火台(のろしだい)あるいは鐘撞堂(かねつきどう)。城と城との間での情報伝達を担った。

拡大版 




烽火台の先、「みはらし」と呼ばれる曲輪からの眺め。




ここからもランドマークタワーが見える。




丹沢方面の眺めも良い。




飯綱曲輪(いいづなくるわ。天狗山)に到着。山頂部には飯綱権現を祀る飯綱神社。




覆屋で囲われた拝殿。

飯綱権現(飯縄権現)は武門の信仰が篤かった軍神。信州・飯綱山を発祥とし関東では高尾山薬王院をはじめ各地で祀られている。後北条氏も高尾山を篤く庇護した。









飯綱曲輪を後に、本城曲輪へ。




途中に太鼓曲輪。




太鼓曲輪の先、本城曲輪の手前側にも堀切が切られている。




案内図。 拡大版 




もうひと登り。




津久井城の中心、本城曲輪(ほんじょうくるわ)に到着。標高375m。時刻は午後2時40分。




津久井城の縄張(なわばり)を示す、案内板。 拡大版 
関東ふれあいの道(パークセンター駐車場前から無料庵バス停まで)の赤文字・線はサイト管理者による加工。

縄張とは城における曲輪や堀などの配置。いわば城づくりのプラン。


津久井城は戦国時代(1500年代)における後北条氏(小田原北条氏)の本拠地小田原城の支城となった山城(やまじろ)。

戦国時代に先立つこと300余年、津久井城の築城は三浦半島一帯に勢力を有する鎌倉時代の有力御家人・三浦氏の一族である津久井氏(築井氏)とされるも、この見解は伝承の域を出ない。
鎌倉時代中期以降には津久井の地は執権北条氏の直接支配下に、室町時代前期には足利将軍家の直轄領となっていた。
京都の室町幕府将軍家足利氏と鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府の長官)足利氏の対立、鎌倉公方の鎌倉からの逃亡(以後は古河公方)を経て、相模・武蔵など鎌倉を中心とした東国は関東管領上杉家が覇権を握る。
やがて戦国の世に至ると、小田原を奪取した伊勢宗瑞(いせそうずい。後の北条早雲)とそれまでの関東の覇者であった関東管領上杉家との間に抗争が繰り広げられる。
そうした時代の中、津久井城は早雲に味方して上杉家に反抗した重臣らによる戦の場となり、いよいよ文献に現れるようになった。

戦国時代、関東一円に後北条氏の覇権が確立していく過程で、津久井城は小田原城の支城となる。
津久井城は後北条氏の家臣団である衆(しゅう)組織を擁する重要な支城のひとつであった。

衆組織は本城直属の小田原衆のほか、各支城に属する家臣団としては以下のものがあった(永禄二年・1559「小田原衆所領役帳」編纂時点。のち北条氏の勢力拡大に従って変遷していく)。各支城もまたその配下に支城をもった。

玉縄(たまなわ)衆(玉縄城。現横浜市南部、相模東部)。玉縄城主は小田原北条氏の最も重要な分家である、玉縄北条氏が代々つとめた。玉縄城についてはこちら。
小机(こづくえ)衆(小机城。現横浜市北部・川崎市)。小机城についてはこちら。
津久井衆(津久井城。相模北部)
江戸衆(江戸城。武蔵中部)
松山衆(武蔵松山城。現埼玉県比企郡。武蔵北部)
伊豆衆(韮山(にらやま)城。伊豆)など。

津久井城の城主は内藤氏。内藤氏は後北条氏譜代の家臣ではなく元から地域を治めていた国人衆(こくじんしゅう)であった。通説としては以下の五代が城主とされる。

内藤大和入道(やまとにゅうどう) 
内藤朝行(ともゆき) 
内藤康行(やすゆき) 
内藤綱秀(つなひで。左近将監・さこんのしょうげん) 
内藤直行(なおゆき) 

津久井の領域は武田氏の甲斐と接するため、北条氏のみならず武田氏の影響も強かった。

北丹沢・黍殻山(きびがらやま)山麓の道志川(どうしがわ)沿いに位置する青根(あおね)集落あたりから藤野(ふじの)を経て陣馬山(じんばさん)山麓へ至るあたりにかけては「半敵地(はんてきち)」「敵知行半所務(てきちぎょう はんしょむ)」などと呼ばれ、双方の家臣の影響力が領内で入り組んでいた。実際、甲相(こうそう)国境尾根の南側にあたる西丹沢(奥三保・おくさんぼう)にも相模国内でありながら信玄にまつわる伝承が思いのほか多い。

豊臣秀吉の小田原攻め(天正18・1590)では津久井城は徳川家康の家臣・本多忠勝らの大軍に包囲され落城。徳川の治世に至り廃城となった。




本城曲輪を取り巻く土塁(どるい)の上に建つ、築井(つくい)古城記碑。江戸時代後期の文化13年(1816)頃に建てられたとされる。傍らに築井古城記の詳細な解説板が併設されている。

津久井城が置かれていた城山はその昔「宝ヶ峰(たからがみね)」と呼ばれた。
また城主内藤氏の系譜について、築井古城記には現在の通説とは異なり「内藤景定(かげさだ)」「内藤景豊(かげとよ)」の名が記されている。




土塁の上から見下ろす本城曲輪。




本城曲輪を囲む土塁。築井古城記碑が見える。




解説板。 拡大版 




本城曲輪から見下ろす津久井湖。戦国時代の当時は深い渓谷。




圏央道と相模川、新小倉橋。その奥に橋本の街。




本城曲輪土塁の外側・米曲輪からは丹沢山塊が一望できる。城山山頂は丹沢を広範囲に見渡すことのできる、好展望地。 拡大版 

東丹沢前衛の山・仏果山(ぶっかさん)、高取山(たかとりやま)。奥には丹沢山塊。




拡大版 

三ノ塔(さんのとう)から塔ノ岳(とうのだけ)まで表尾根(おもておね)、塔ノ岳から蛭ヶ岳(ひるがたけ)にかけては丹沢主脈。途中丹沢山(たんざわさん)から手前側の宮ヶ瀬へ至るのが丹沢三峰(みつみね)の稜線。

塔ノ岳の向こうには鍋割山(なべわりやま)へ続く鍋割山稜が延び、蛭ヶ岳の向こうには檜洞丸(ひのきぼらまる)から鞍部の犬越路(いぬごえじ)を経て大室山(おおむろやま)、甲相(こうそう)国境尾根へと続く丹沢主稜が延びていく。
それらの尾根に囲まれた玄倉川(くろくらがわ)の峡谷が丹沢の核心部・ユーシン渓谷をつくっている。

「半敵地」のところで触れた奥三保あたりの信玄にまつわる伝承は、犬越路が軍犬の先導で越えた峠として、中川温泉が信玄公かくし湯として、それぞれ伝わっている。



丹沢山塊の主脈稜線、不動ノ峰(ふどうのみね)と鬼ヶ岩ノ頭(おにがいわのあたま)の中間あたりから西を見る。右の山が蛭ヶ岳。眼下の谷が玄倉川の峡谷。
檜洞丸から下って大室山へ上り返す鞍部が犬越路。 拡大版 



檜洞丸から犬越路へ下っていく途中の稜線から南西を見る。右下から左上にかけての谷が丹沢湖の上流・中川沿いの奥三保。 拡大版 
平成12年(2000)8月の山行記録より。




拡大版 

蛭ヶ岳から姫次(ひめつぎ)、黍殻山(きびがらやま)、焼山(やけやま)へと続く丹沢主脈。奥には西丹沢の雄峰・大室山(おおむろやま)。

黍殻山の向こう側に下りると青根(あおね)集落・東野(ひがしの)バス停(津久井神奈交バス・三ヶ木(みかげ)〜月夜野(つきよの)。便数極少)からの北丹沢(裏丹沢)の登山口(標高398m)となる。その辺りから藤野(ふじの)〜陣馬山(じんばさん)山麓にかけてが武田氏の影響力が強い「半敵地」と呼ばれた。



主脈稜線上の姫次は丹沢山塊の大展望地。そこは北丹沢(裏丹沢)の山深さを実感できる場所。左手には広大なカラマツ林が広がる。姫次は東海自然歩道の最高地点でもある(1433m)。
蛭ヶ岳から檜洞丸、大室山へと続いていく丹沢主稜は、蛭ヶ岳〜檜洞丸が標高差300m・檜洞丸〜大室山が標高差500mと起伏の大きい、丹沢屈指の稜線。途中には長い鎖場もある。 拡大版 



落葉針葉樹のカラマツ。黄金色に輝く、美しい黄葉。
平成12年(2000)11月上旬の山行記録より。




本城曲輪を後に、山を下りる。




等高線に沿った女坂はなだらかな巻道。




くるま坂(男坂)に合流。根本登山道からパークセンターへ下りる。




根本登山道の途中に建つ、築井城址の碑。
「横浜貿易新報社」「県下名勝史蹟四十五佳選当選記念」と刻まれており、昭和10年(1935)の建立。




舗装路へ。




根小屋(ねごや)地区の案内板。

根小屋とは城下の集落を指すことば。城主や家臣の屋敷が置かれていた。




桟橋の公園園路をゆく。
津久井湖城山公園は車いすでも利用できる「公園園路」、なだらかなハイキングコースの「らくらくコース」、鎖場もある登山道の「ちょっと険しいコース」など、年齢体力を問わず幅広く楽しめる整備がなされている。









根小屋周遊園路の案内板。 拡大版 




パークセンターに到着。時刻は午後3時30分。

当初の予定では根小屋の「御屋敷」地区、名木の大杉が立つ根小屋諏訪神社も巡る予定であったが午後4時過ぎに日没を迎える晩秋のこの時期、最後に地酒「相模灘」の蔵元「久保田酒造」に立ち寄りたかったのでそれらの地区を巡るのは諦めて津久井城址を後にする。




登り始めの、津久井湖側の案内板。 拡大版 

蔵元はバス停「無料庵(むりょうあん)」のすぐそば。当初はパークセンターから散策路を荒句(あらく)バス停に下山してひとつぶん歩いて戻る予定であったが、そちらは圏央道関連の道路工事の関係か途中通行止めになっている。
そこでパークセンター駐車場前から関東ふれあいの道(車道)を利用して無料庵バス停に直接出ることにする。




パークセンター駐車場前から無料庵バス停までの道筋。赤文字・線はサイト管理者。 拡大版 




途中、要所要所に道標が設けられている。雨乞山・韮尾根(にろうね)方面に進んでいく。




バス停0.3qの表示。無料庵バス停はもうすぐ。









県道に出た。時刻は午後4時少し前。




無料庵バス停。三ヶ木(みかげ)発橋本駅行のバス路線が通る。
当初の予定ではここから(旧)小倉橋まで歩き、美しい四連アーチ橋を川岸から見物してから橋本行のバスに乗るつもりだったが日の短いこの時期、さすがに欲張りすぎた。
歩いていたら間違いなく暗くなってしまうので橋はバスで渡るだけにして、帰りはここからバスに乗ることにする。




蔵元への大きな看板が出ている。









串川を渡った先に、久保田酒造。堂々たる古建築は周囲を山に囲まれ、抜群のロケーション。




そびえ立つ煙突は酒蔵のシンボル。まもなく12月、酒蔵から蒸気も立ちのぼるといよいよ新酒の季節となる。




今回の山土産は「相模灘(さがみなだ)」特別本醸造、純米吟醸。

特別本醸造は「これで本醸造か?」と驚かされる味わい。ほんのり甘く、さっぱりとしたフレッシュ感のある飲み口。仕込みは吟造り、磨きも充分なので大手なら吟醸として売り出しそうだ。小さな酒蔵の矜持を感じさせる酒。
純米吟醸は今から15年ほど前、初めて口にしたころと比べると飲み口の印象がずいぶん変わったような気がする。かつては「クーッ」とくるようなやや強めの味わいの印象があった。現在はソフトな口当たりに感じる。日本酒度はプラスの低目で酸度もそれほど高くないかな、といった印象。

ここの蔵元は現在では新たな杜氏を招聘せずに若い跡取の方が社内杜氏として酒造りに取り組んでいるとのこと。数少なくなってきた相州の酒蔵として末永く続いてほしい。


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