平成26年(2014)の7月下旬、箱根登山鉄道「箱根湯本(はこねゆもと)駅」を起点に江戸時代の東海道「箱根旧街道」東坂を登り、芦ノ湖畔のバス停まで歩く。後半はバスで移動、箱根峠の南に広がる函南(かんなみ)原生林を訪れる。
「天下の険(てんかのけん)」とうたわれた「箱根八里(はこねはちり)」は小田原宿から箱根峠(当時)までが四里の道のり(東坂)。箱根峠から三島(みしま)宿までが四里(西坂)。江戸時代の旅人が越えていった古道は標高差が800mを優に超え、東海道随一の難所であった。
1.箱根湯本駅から須雲川・箱根旧街道を畑宿一里塚へ
箱根八里・東坂を登る、箱根旧街道歩き。スタートは箱根湯本駅。最初は路線バスで須雲川バス停まで移動する。渓谷沿いの須雲川自然探勝歩道から石畳の道(割石坂、大沢坂)へと進んでいき、畑宿へ。
朝7時10分ごろ、早朝の箱根湯本駅。駅前の標高はおよそ97m。奥湯本方面へ延びる旧街道は湯本からしばらくは車道歩きになるので、箱根登山バス「上畑宿(かみはたじゅく)」行を利用して「須雲川(すくもがわ)」バス停まで登って行く。
江戸時代に整備された旧東海道は、現在は県道となっている。中世までの尾根伝いの街道(湯坂路。ゆさかみち)とは異なり、須雲川(早川の支流)の谷沿いのルートが徳川の治世に整備された。
広重「東海道五十三次之内箱根 湖水図(保永堂版)」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション
これは畑宿から先を描いた図、ということになろうか。石畳を行く旅人が二人見える。
これに対し、箱根湯本駅からやや小田原寄りの三枚橋(さんまいばし)で分岐する現在の東海道(国道一号。箱根駅伝のコースで有名)は、江戸時代の頃は「七湯道(ななゆみち)」であった。
これは江戸初期から、あるいはもっと以前から湯治場として栄えた「箱根七湯」(はこねななゆ。湯本・塔之沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯)へ向かう、早川の渓谷沿いの道。
三枚橋〜七湯道〜元箱根(関所より手前となる)〜旧東海道〜三枚橋は、江戸後期には七湯廻(ななゆめぐり)と称され江戸庶民の物見遊山の道でもあった。
広重「七湯方角略図」 拡大版
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション
手前の三枚橋を渡って進む道が旧東海道。山懐の畑宿集落の先、箱根山を越えて関所に至る。
一方、三枚橋を渡らずに進んでいくと箱根湯本。その先に塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下と七湯道が延びていく。
なお、古代の東海道(ヤマトタケルの伝承の道)は箱根山を御殿場方面へ迂回する「足柄峠」を経由。東国の民が防人(さきもり)として西へ向かう道でもあった。
中世に入ると京・鎌倉の東西政治都市を結ぶ街道として東海道は整備される。この時代には足柄峠に加えて、箱根峠から芦ノ湖・芦之湯を経て尾根伝いに湯本へ下る「湯坂路」が整備された。
バスのりばの眼前には早川の渓流が流れる。早川は芦ノ湖に源を発し、箱根のカルデラ内を縫う様に流れ下って相模湾へ注ぐ。
4番のりばから箱根登山バス「上畑宿」行に乗って山道をひたすら上りおよそ15分、「須雲川」バス停へ。
須雲川集落の、須雲川バス停。標高約250mまで登ってきた。時刻は7時40分ごろ。
バス停から少し登っていくと、臨済宗鎖雲寺(さうんじ)の石碑と小さな滝が見られる。
鎖雲寺には仇討ちの物語にまつわる勝五郎(かつごろう)と初花(はつはな)の墓がある。
先へ進むと、須雲川自然探勝歩道の入口。
須雲川自然探勝歩道(すくもがわ しぜんたんしょう ほどう)は、富士箱根伊豆国立公園の箱根地区に神奈川県が整備した自然探勝歩道のひとつ。部分的に旧東海道と重なっている。
なお、箱根一帯は平成24年(2012)には日本ジオパーク委員会によって「箱根ジオパーク」に認定された。
自然探勝歩道に入っていく。このあたりは旧東海道沿いとは異なる道すじ。
清々しい、朝の須雲川渓谷。気温は27、8度。
道はよく整備されている。
東電の畑宿(はたじゅく)発電所辺りで、渓流を丸木橋で渡る。
なお、増水時には奥に見える吊り橋を利用するよう注意書きが掲げられている。
がっしりとした造りではあるが、180sという重量制限のある吊り橋。
ワイヤーでつながれた丸木橋。
上流側には発電所の施設。運用開始は昭和16年(1941)。
このあたりは畑宿発電所であると同時に、下流の三枚橋発電所(大正7年・1918運用開始)に通じる水圧管の水を供給するための取水口でもある。
丸木橋は渓流を渡るというより渓流沿いの向きになってしまっている。増水時に押し流されてしまったようだ。
下流側はゴロゴロした、須雲川の渓流。
須雲川の北岸(左岸。下流に向かって左)は、箱根火山の中央火口丘に由来する噴出物でできている。一方、南岸(右岸)は外輪山に由来する噴出物による。ちょうど須雲川を境として左右で堆積物の由来が異なっている。
数十万年前の箱根火山は2700m級の美しい円錐形であったと推定されているが、大噴火により中央が陥没し外輪山を形成した。のちにカルデラ内での噴火により中央火口丘が形成される。
ということは外輪山側の方が地質的には古いことになる。
対岸となる左岸側に、道の続きが付けられている。
舗装路に上がり、道標に従っていく。
県道へ。
「発電所前」バス停そばには、稲荷大権現の鳥居。
少し登った先で、旧街道に入る。
ここからいよいよ今回の山歩き(須雲川バス停スタート)では最初となる石畳の道が始まる。
まずは割石坂(わりいしざか)。曽我の仇討ちにまつわる伝承がある。
明治以降の補修の手も加わっているが、江戸時代の石畳が保存されている区間もある。
江戸時代の区間は登りからも下りからもわかりやすい道標が掲げられている。
眼下には県道。
須雲川自然探勝歩道の解説板。石畳の整備についての記述。
再び江戸時代の石畳。
途切れるところも石畳風に舗装されている。
箱根路の移り変わりを記した、解説板。
現在の東海道(国道一号)は、江戸時代には街道というよりは湯治場への周遊道であった。
右から左へ、急斜面が落ちる。
水圧管。この落差を利用して畑宿発電所のタービンを回転させ発電がおこなわれる。
再び県道へ。
かつて割石坂のこの付近に存在した接待茶屋のことが記されている。
歩道をしばらく行く。
歩道から、再び石畳へ。
どんどん下っていく。
岩のゴロゴロした山道。
大沢川を渡る木橋。
沢の流れは、清らか。
大沢坂(おおさわざか)の石畳を登っていく。古色蒼然とした雰囲気が、いい。
案内板にも「当時の石畳の道が一番よく残っている坂」と記されている。
石畳の構造を記した、解説板。
いにしえの旅人気分。
江戸時代のすぐれた土木技術の一つ、斜めの排水路の解説板。石畳といえども無造作に敷き詰めては大雨で崩壊してしまう。そこで記述の技術が用いられた。
畑宿集落へ到着。時刻は9時15分。立ち止まっては引き返しカメラを構え、を繰り返しているうちに須雲川バス停から標準コースタイム50分のところ90分以上かかってしまった。
本陣跡のバス停。
畑宿(はたじゅく)は小田原宿と箱根宿の間に位置する。ここは東海道五十三次の正式な宿場ではないが、街道を往来する人々の増加により間(あい)の宿としてにぎわった。
箱根旧街道の大きな案内板。
なお、記載の畑宿から甘酒茶屋までのコースタイムは下りのもの。登りは90〜100分見ておいた方がいい。
この地は寄木細工の里としても知られる。この日も大型の観光バスが数台上がってきていた。
トイレの前の道案内。
案内に従い、一里塚へ。
畑宿一里塚。
解説板。江戸時代の姿が復元された。
塚は対になっている。
このサイトは(株)ACES WEB 「シリウス2」により作成しております。