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鶴見川流域、京浜臨海部のあゆみ


京浜急行生麦駅駐輪場に自転車を入れて、生麦駅を起点に旧東海道・生麦界隈、JR鶴見線国道駅〜海芝浦駅〜鶴見駅、臨済宗大本山總持寺などを巡る。一級河川の鶴見川は河口周辺に真っ平らな低地が広がるので楽なウォーキングとなった。

1.生麦駅から旧東海道・生麦〜鶴見界隈




京浜急行生麦(なまむぎ)駅前。ここからまっすぐ先、第一京浜(国道15号)を渡り旧東海道へ。




左右に交差する道が旧東海道。正面はキリンビール横浜工場。




旧道沿いに橋脚の工事が進んでいる。この橋脚は、大黒(だいこく)ふ頭方面から延びてくる首都高速横浜環状北線(よこはまかんじょうきたせん)のもの。

工場見学やビールの試飲もできる「キリンビアビレッジ」はここから旧東海道沿いに神奈川方面へ数百メートル行った先。生麦事件碑もこの先にある。




貞秀画「東海道之内 生麦」。画像出典・鶴見区史(昭和57年(1982)・鶴見区史刊行委員会発行)。

錦絵に見る旧東海道生麦・大名行列の図。
ビール工場側はすべて埋立地で、江戸から明治にかけては街道のすぐ脇が海岸線だった。江戸時代の街道は馬がすれ違えるくらいの道幅に過ぎない。




しばらく行くと、生麦事件碑。




横浜環状北線の建設工事に伴って本来の位置から仮移転している。




篤志家の方により設けられた生麦事件参考館への案内図も併設されている。




生麦事件は文久2年(1862)、勅使(ちょくし。天皇の使者)を奉じて幕政改革を要求するため江戸へ来ていた島津久光(しまづひさみつ。島津斉彬(なりあきら)の弟。当時の薩摩藩主・島津茂久(もちひさ)の父)が使命を終えて帰途についた途上で起こった。

事件に遭遇した英国商人リチャードソンはたまたま横浜(関内(かんない)。開港場)へ来ていた上海在住の商人であった。彼は横浜在住の商人マーシャル、クラーク、ボロデール夫人らとともに川崎大師を見物しようと横浜の居留地を出て東海道を北上したのだった。上海で清国人と接していたリチャードソンは東洋人の扱いにはなれている、と高を括っていた節がある。




実は久光の行列はリチャードソンらの一行とすれ違う前、アメリカ人で当時神奈川(神奈川宿界隈)の本覚寺に置かれた領事館に勤めていた書記生ヴァン・リードの馬とも遭遇している。この時リードは行列の武士たちの気配を察知し、下馬して馬を脇に寄せて脱帽し、行列をやり過ごしたのだった。

久光の行列は当初神奈川宿に宿泊する予定であったが、事件を知って殺気立った居留地の外国人達による急襲を考慮して保土ヶ谷宿まで足を延ばしている。
街道沿いの村人たちは「薩州様がとうとうやった」と、騒然となった。

事件後、イギリスと幕府の賠償交渉を経て、イギリスは交渉が不調に終わった薩摩藩と一戦を交える(薩英戦争)。

生麦事件は、洋の東西を問わず身分の上下に厳しかった近代以前、異文化との関わり合いが広く一般的に始まったばかりの頃に起きた不幸な事件であったが、のちの日本の近代史に大きな影響を残した。

この石碑は明治16年(1883)、事件の風化を憂えた当時の篤志家によってリチャードソン落命の地が購入され建てられた。




碑文の内容が案内板に記されている。
もともと碑が建っていた場所が、神奈川の外国領事館へ逃れようと馬を走らせたリチャードソンが落命した地であった。なお深手を負ったマーシャル、クラークは神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に逃れ、ボロデール夫人は横浜居留地まで馬を走らせている。

余談だが、開港(1859)して3年になるこの時期に各国の領事館が横浜(関内・開港場)ではなく神奈川(神奈川宿界隈)にあったのは、幕府と諸外国の交渉で「開港場は神奈川」とされていたのが、往来の激しい宿場界隈でのトラブルを恐れた幕府側が「横浜村も神奈川の一部だ」と強弁して横浜村をさっさと整備して開港場(関内)に仕立て上げたことに対する諸外国のささやかな抵抗とする見方もある。もっとも商人たちはそんなことはお構いなしに関内に続々と居を構えた。
今となっては横浜は次々と周辺各地を飲み込んで巨大化しており、神奈川は江戸時代の神奈川奉行所〜明治政府の神奈川府〜神奈川県というようにその名を冠するものの、まちとしては当時の神奈川宿と横浜村の主従はすっかり逆転してしまった。




明治中期の生麦事件碑。
画像出典・鶴見区史(昭和57年(1982)・鶴見区史刊行委員会発行)。




旧東海道を、鶴見方面へ。




産業道路を横切り、先へ行く。

なお、ここを右折すれば大黒(だいこく)ふ頭への道。途中の大黒大橋からは天気の良い冬の朝であれば、富士山とみなとみらいの素晴らしい遠景が得られる。
バスを利用するならば右方向へ進んだ先のバス停「鶴見大橋口」から市営17系統「鶴見駅前行」・市営181系統「横浜さとうのふるさと行」で「大黒大橋」下車。所要時間は10分足らず。大黒大橋から戻るときは「鶴見大橋口」まで戻るか、あるいはそのまま「国道駅前」まで行くこともできる。

残念ながらこの日は薄曇りだったので、パスして先へ。




旧東海道の続き。左に案内板が掲げられている。




この地が生麦事件の発生現場。
切り付けられた一行はここから馬で神奈川方面へ走り、難を逃れようとしたのだった。




道を進んだ先にある、道念(どうねん)稲荷神社。



















木鼻(きばな)は獅子鼻、象鼻。




傍らに建つ、「蛇も蚊も(じゃもかも)」祭り発祥の碑。




生麦に伝わる伝統の祭りは、毎年6月第一日曜日に行われる。




昭和42年(1967)の祭り。
画像出典・市民グラフヨコハマ93号「こどもたちのいる風景」平成7年(1995)発行。




真言宗南海山正泉寺。寛永元年(1624)創建。














生麦魚河岸(うおがし)通り。平日の午前中からお昼まえまで、通りは活気にあふれる。

この日は土曜日だったので、午前中ではあるが割と静か。それでも何軒もの店が開いている。あちこち歩き回る予定なので鮮魚を求めるわけにもいかず、ここは眺めるだけ。




生麦は江戸の昔、農村であり漁村(生麦浦)でもあった。専業漁師たちは江戸城に御肴献上をする苦労の見返りに、江戸湾での漁を制約なく行う特権が認められた。
明治以降はノリやアサリなどの養殖漁業も行われたが、大正の頃からは埋め立てによる工業化が沿岸で進み、そうした漁業は次第に細っていく。戦後の高度経済成長期を経て昭和46年(1971)に至り、埋め立てに伴う漁業補償が締結され生麦のそれまでの漁業は終焉を迎えた。
一方で明治期の魚卸問屋あたりからはじまる魚介類商業のまちとして、生麦魚河岸は旧漁師町としての生麦の心意気を示し続けている。




浄土宗入蔵山慶岸寺。天正9年(1581)創建。









JR鶴見線・国道(こくどう)駅のガードが見えてきた。




ガード下が駅になっている。




大黒大橋に寄らなかった分、海芝浦(うみしばうら)駅行の電車が来るまでかなり時間があったので先に鶴見名物「よねまんじゅう」を買いに行く。




第一京浜(国道15号)を渡る。前方にJR鶴見駅前のタワーマンションが見える。




旧東海道の続き。




古来からの旧道も今では京急鶴見(けいきゅうつるみ)駅前の繁華街。




京急鶴見駅の高架が見える。




高架下で交差する道を右折し、すぐに向かい側へ渡る。




和菓子店の「清月(せいげつ)」。定休は日曜・祝日。




鶴見名物「よねまんじゅう」。ニューっと柔らかくて薄い羽二重餅(はぶたえもち)が餡を包み込む。中の餡はこしあん、白あん、梅あんの三種類がある。




同店のしおり(リーフレット)。
東海道・鶴見橋界隈の名物として知られたよねまんじゅうは明治5年(1872)の鉄道開通により一度は姿を消したが、昭和後期に至り現代風に姿を変えて復活した。




来た道を戻り、JR鶴見線国道駅へ。




国道駅に到着。


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