まちへ、森へ。

三溪園の四季

三溪園〜秋

 

三溪園秋の恒例行事・菊花展を見に行く。同時期に三溪記念艦で開催された今村紫紅(いまむらしこう)展「横浜のいろ」も観覧。横浜美術館で開催された横山大観展、下村観山展も併せて、三溪と美術との関わり合いについても多少触れてみたい。

 

 

秋晴れの正門。

 

 

 

澄み渡る秋空、大池周辺の緑も色づき始める。

 

 

 

鶴翔閣(かくしょうかく。旧原邸)。

 

 

 

恒例の菊花展は、小菊盆栽芸術協会長生会、横浜菊花会との共催で行われた。
まずは正門そばの小菊盆栽から。

 

 

 

箱庭のようにあしらわれた小菊盆栽。
臨春閣第三屋。

 

 

 

旧燈明寺三重塔。

 

 

 

寺家ふるさと村の社は、熊野神社。

 

 

 

兼六園の雪吊り。

 

 

 

三陸海岸。

 

 

 

白川郷。

 

 

 

枝が崖から垂れ下がったような、懸崖の盆栽。

 

 

 

柳の枝のような、柳仕立ても。

 

 

 

岩付けの盆栽。

 

 

 

 

 

 

 

続いて、三重塔下の大菊へ。

 

 

 

厚物(あつもの)の、巴錦(ともえにしき)。紅と黄の、鮮やかな取り合わせ。

 

 

 

信州小布施(おぶせ)で盛んに栽培される、巴錦。葛飾北斎の肉筆画「菊図」に描かれた、とある。

 

 

 

豪華な小菊の懸崖作り。

 

 

 

流れるような懸崖作りも。

 

 

 

こんもりした厚物(あつもの)と、ほっそり繊細な管物(くだもの)。豪華な七本仕立て。

 

 

 

珍しい形をした大菊。広物(ひろもの)というそうだ。これまた七本仕立て。
中でも一重(ひとえ)のものは一文字と呼ばれる。実はこの種の菊が皇室の紋章となったことから御紋章菊ともいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さまざまな太さの、管物七本仕立て。

 

 

 

 

 

 

 

ずらりと並ぶ厚物の三本仕立ては、最もポピュラー。やはり菊花といえばこれが思い浮かぶ。

 

 

 

日本の秋、日本の花だ。

 

 

 

こちらは背の低い鉢。そのずんぐりした姿から福助作りというそうだ。

 

 

 

背後には、古典菊。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸菊。

 

 

 

伊勢菊。

 

 

 

嵯峨菊。

 

 

 

肥後菊。解説文が、ありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

西洋菊の、スプレー菊など。

 

 

 

こちらは競技用切花。花を豪華にすることに特化して育てられたそうだ。

 

 

 

三花組。

 

 

 

こちらも。

 

 

 

 

 

 

 

暖かい日向で、くつろぎタイム。

 

 

 

菊花展の後は今村紫紅展を観覧しに、三溪記念館へ。

 

 

 

館内からの庭。

 

 

 

 

 

 

 

茶席「望塔亭」。

 

 

 

正門そばに掲示されていた、今村紫紅展の案内。

 

平成25年(2013)の横浜の秋冬はここ三溪園と横浜美術館(みなとみらい)で近代日本画の展覧会が目白押しであった。

 

原三溪(1868〜1939)と近代日本画家たちとのかかわりは岡倉天心(おかくらてんしん。1863〜1913)を通じてのものが大きい。

 

古美術の蒐集(しゅうしゅう)家でもあった三溪は、天心と知り合い日本画家の作家たちの支援に取り組むようになる。

初期には世代が近い下村観山(しもむらかんざん。1873〜1930)や横山大観(よこやまたいかん。1868〜1958)、あるいはもう少し若い小林古径(こばやしこけい。1883〜1957)や安田靫彦(やすだゆきひこ。1884〜1978)、前田青邨(まえだせいそん。1885〜1977)や今村紫紅(いまむらしこう。1880〜1916)ら。
そして息子善一郎(1892〜1937)の世代では速水御舟(はやみぎょしゅう。1894〜1935)さらには洋画にも明るかった善一郎との縁で洋画家の岸田劉生(きしだりゅうせい。1891〜1929)といった次世代の作家たちが三溪の支援を受けた。

 

観山ら第一、第二世代の作家たちはほぼ同時期に鶴翔閣の客間に長期逗留して制作に励み、また三溪所蔵の古美術を題材に夜を徹して談義するなど有形無形の支援を受けた。
こうしたことから、三溪園は近代日本画壇の一大拠点として少なからぬ役割を果たし、いわば日本近代美術の史跡としての一面も持ち合わせている。

 

三溪自身、「美術品は共有性の物なるを以て決して自他の別あるを許さず」「極めて率直に各自の意見を披歴して毫(わずか)も忌憚(きたん)する処なきは美術界の信条にして又決して他に求むべからざる自由の別天地たり」という言葉を残している。美術は皆で共有するものであって個人の所有物ではない、皆で美術品にふれあい大いに研鑽し合おうという、三溪という人の思いを垣間見ることができる。

 

三溪の旧蔵品は三溪の跡取りとして期待の高かった善一郎が三溪より先に亡くなってしまったことや三溪園が横浜大空襲で大きく被災したこともあり危機的状況にあったが、三溪と親交の深かった美術史家・矢代幸雄(やしろゆきお。1890〜1975)らの尽力により奈良や東京の美術館に移され散逸を免れた。

 

 

 

 

 

横山大観展「良き師、良き友」(横浜美術館。平成25(2013)年10月5日〜11月24日)のチラシ。

 

大観と三溪とのかかわりは他の作家ほど多くはないが、大観は鶴翔閣に滞在し屏風「柳蔭」を制作している。
三溪からは本牧住まいを持ちかけられたが「お金持ちにそうしてもらうことをあまりかんばしくないと思って」お断りしたという、豪放磊落な大観らしいエピソードがある。

三溪は大観の作品を多数買い上げるという形で支援した。また大観もラビンドラナート・タゴール(インドの詩人・思想家。アジア人初のノーベル賞受賞者でもある)が来日のおり三溪園に逗留した際には、三溪園スケッチを描き得意の英語力を生かして案内役を担ったという。その際のスケッチも上記展覧会で展示された。

 

 

 

 

今村紫紅展「横浜のいろ」(三溪園。平成25(2013)年11月2日〜12月8日)のチラシ。

 

紫紅は横浜生まれの日本画家。多くの人物画・風景画のほか、三溪の支援を元にインドを取材旅行し南国風の斬新な作品を残した。その際の作品「熱国之巻(ねっこくのまき)」は大観展「良き師、良き友」で展示された。紫紅展「横浜のいろ」ではその習作が展示された。

 

精力的に活動した紫紅だったが、わずか35歳で夭折(ようせつ)してしまったことが惜しまれる。

 

 

 

 

下村観山展「観山展」(横浜美術館。平成25(2013)年12月7日〜平成26(2014)年2月11日)のチラシ。

 

観山は三溪との関わりが最も深い。天心の紹介によって三溪との縁をもった観山は、本牧和田山に住まい生涯を本牧で終えた。
大震災で消失し今はない初代松風閣の障壁画を制作したほか、上記展覧会で展示(12月20日迄)された観山の代表作の一つ「弱法師(よろぼし)」は外苑の臥竜梅(がりょうばい)に着想を得ている。

なお、弱法師は先述のタゴールが作品を所望し、やはり同時期に三溪に支援を受けていた日本画家の荒井寛方(あらいかんぽう。1878〜1945)が模写したものが贈られた。のちに寛方はタゴールの招待でインドに渡り、その滞在中にはアジャンターの壁画の模写も行った。

 

 

 

展覧会の後、臨春閣へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

園路の先に見えるのは、旧天瑞寺(てんずいじ)寿塔(じゅとう)覆堂(おおいどう)。

 

 

 

三溪園内は街路樹の環境と違い日陰も多いので、まだまだイチョウも色づいていない。

 

 

 

欄干が修復された亭しゃ(木へんに射)。

 

 

 

第二屋を見る。

 

 

 

第三屋。

 

 

 

臨春閣の裏へ。

 

 

 

 

 

 

 

手水鉢。

 

 

 

身代わり灯籠。

 

 

 

モミジの古木。赤く色づくのはまだまだ先。

 

 

 

 

 

 

 

月華殿・天授院への道。ツワブキの黄色い花の向こう、モミジがうっすらと色づき始めている。

 

 

 

右奥に月華殿。

 

 

 

聴秋閣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蓮華院への道。まだまだ青い、イチョウの葉。

 

 

 

大池のほとりの藤棚から、観心橋・函花亭を見る。

 

 

三溪園〜晩秋へ

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