まちへ、森へ。

横浜・北の森

4.新治市民の森から三保市民の森、梅田谷戸水路橋へ

 

3.ズーラシア隣接の森から梅田谷戸、新治市民の森へはこちら。

 

 

新治市民の森、旭谷戸の最奥の谷戸田。尾根に上がり、へぼそ出口へ。

 

 

 

新治市民の森へぼそ出口から、左へ曲がると尾根伝いに三保市民の森への道。
右へ行けば、ここからJR横浜線十日市場(とおかいちば)駅はそう遠くはない。

 

左に進路をとって、三保市民の森を目指す。

 

 

 

車道に突き当たったが、森の外縁は続く。道を横切り、向こうへそのまま直進。左前方の森は横浜創英の敷地。

 

 

 

霧が丘中学校の敷地沿いあたりから、ほんの少しの車道路肩歩きを経て、東洋英和の正門わきから森へ下ってゆく。

 

 

 

大谷戸の奥。

 

 

 

谷道の舗装路を少し上り返して、散策路の入口へ。

 

 

 

三保市民の森案内図
約40ヘクタール(100m四方×40)という広さもさることながら、特筆すべきはその散策路の複雑さ。慣れないと迷ってしまいそうだが、ともかく上がるか下がるかすれば尾根道か谷道のどちらかには出られる。

 

 

 

山林の中腹を縦横に交錯する、プロムナードの道。市内に数ある市民の森の中でも、最長のトレイル(総延長約9q)を誇る。

 

 

 

 

 

 

 

三月下旬、クルリと巻いたゼンマイのような芽が伸び始めた。

 

 

 

三保市民の森のシダはその種類およそ100種。種類の豊富さは市内有数とのこと。

 

 

 

スギ・ヒノキの谷は、初夏ともなると林床(りんしょう)に透明感あるグリーンのシダがびっしりと生い茂る。

 

 

 

針葉樹主体のこの森は、森の精気(フィトンチッド)に溢れ森林浴の好適地。

 

 

 

どこまで行っても、森、森。

 

 

 

光を求めて、せめぎ合う木々。

 

 

 

 

 

 

 

シラカシなど、どっしりと根を張る広葉樹の大木にも、ときおり出会う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登ったり、降りたり。

 

 

 

ちょっとした山歩きの気分。

 

 

 

散策路は複雑なので、森林管理作業路にうっかり入ってしまわないように注意したい。

 

 

 

あたりを見渡せば、道標は割とすぐに見つかる。

 

 

 

 

 

 

 

以前の写真と比べてみる。

 

 

 

森の尾根筋には、尾根道。染井吉野が多数植樹され、公園のような趣き。ここは近隣の人々の憩いの場でもあり花見のシーズンともなると多くの人で賑わう。

 

「しじゅうからの広場」を過ぎて導水路と合流するあたりから、公園のようだった尾根道は一転して森歩きの装いとなる。

 

 

 

 

 

 

 

川井鶴ヶ峰導水路の、コンクリート水路。水路をたどると、梅田谷戸(うめだやと)水路橋の上に出る。

 

 

 

ハナモモの咲く丘に出た。

 

 

 

 

 

 

 

ソメイヨシノも。

 

 

 

梅田谷戸水路橋の解説板。

 

 

 

導水路は水路橋となって、先へ向かう。

 

 

 

一方の、谷道。

 

 

 

大谷戸沿いの、長閑(のどか)な道。

 

 

 

三保平。

 

 

 

三保市民の森は、市が展開する「市民の森」事業の中ではごく初期となる昭和47年(1972)の開園。なかでも30ヘクタールを超えるような大規模のものは三保が初めてであった。ただ、その後の道のりは決して平たんではなかった。

 

当時の行政の事業に対する認識と、私財である所有地を市民のためにと貸し出す森林所有者の認識との間の温度差は、10年経過後の最初の更新時に所有者側が更新を拒絶し森が一時閉鎖となる事態となって、表面化した。そのきっかけとなったのは当時の一部利用者のあまりに低いモラルであった。私物であるかの如く、植林されている樹木を切ったり剥いだりして傷つける、隣接する農地の農作物を荒らすなど、心無い利用者の存在は森を提供する所有者側の「市民のために」というモチベーションを著しく押し下げた。
参考・「緑区の記録2上下・みどり新聞創刊20周年記念」

 

そもそも横浜市における「市民の森」事業は、いわば窮余の策であった。
昭和20年(1945)の敗戦後、焦土と化した日本は復興への道を歩み出すが、横浜市に関しては他の大都市と異なり都市の心臓部ともいうべき旧市街地・港湾の大半が局地的にではなく広域的・継続的に占領軍に接収されてしまった。ポツリポツリと接収が解除され始めるだけでも昭和27年(1952)を待たねばならなかった。その結果、単に戦後復興のスタートが大幅に遅れただけでなく、都市機能を喪失した旧市街地から接収により土地を失った事業者・資本が次々に流出、市の財政基盤は脆弱化した。
加えて高度経済成長に沸く東京の膨張にともない昭和30年代以降、既存の鉄道沿線で郊外丘陵部の宅地開発が始まる。昭和40年ごろには田園都市線や根岸線など新線が開通、大手資本等による郊外丘陵部の宅地開発は拍車をかけていった。
森林・農地であった郊外の宅地化に伴う道路・水道・学校・その他もろもろの膨大な都市基盤整備をいわばディベロッパーから一斉に押し付けられた格好の市は、接収から還ってきた旧市街の整備・発展のための財源にも窮し、緑地(公園)を確保するための予算どころではなかった。「市民の森」事業は、そうした状況下で消滅する一方の緑地をいかに確保するか、という問題をクリアするために取られた一つの解決策であった。

 

現在はこうして市内各所で「市民の森」事業は順調に育ち、森の利用者はその恩恵にありがたく浴している。しかし、そうなるまでには行政、市民の意識をいかに改めていくかの長い道のりがあった。
「市民の森」は公園ではない。民間所有地が厚意で利用に供されているに過ぎない。散策のできる森としての拠り所は、意外と脆い。利用者のモラルが大切なのは公園と同じではあるが、「市民の森」は、森の存在自体が開発によりあっさりと失われてしまうリスクをはらんでいる。経済的利益よりも使命感を以て事業に協力されている人々の思いを、利用者としては心に留め置いておきたい。

 

 

 

三保市民の森バス停は、ここからすぐ。相鉄(そうてつ)線鶴ヶ峰駅行き、JR横浜線・市営地下鉄グリーンライン中山駅行きのバスが出ている。

 

歩きの最後に鉄道駅に出るようにしたい場合は、ズーラシア側から下りてきた後、ここまでのルートの逆をたどって三保市民の森から新治市民の森へ回ると、JR横浜線十日市場駅を利用できる。

 

 

 

三保市民の森バス停から梅田バス停の間に、春爛漫な山がある。ただハナモモは木を若返らせるためだろうか、切られている。数年後に期待。

 

 

 

2008年当時。まさに春、山笑う。

 

 

 

三保市民の森バス停から川井宿・鶴ヶ峰駅方面に少し行くと、先ほどの水路橋が見える。

 

 

 

下から見上げる梅田谷戸水路橋(うめだやとすいろきょう。全長228m。橋脚の高さ20m。昭和27年(1952)完成)。
この橋は川井浄水場と鶴ヶ峰配水池(旧浄水場)を結ぶ横浜水道川井鶴ヶ峰導水路上に、三つあるトレッスル橋(複数のやぐらで橋げたを支える橋)のひとつ。

 

あとの二つは、ここから下流側にある鶴ヶ峯中学校そばの鶴ヶ峰水路橋(全長72m)と、上流側にある、若葉台団地入口の大貫谷戸水路橋(おおぬきやとすいろきょう。かながわの橋百選。全長306m)。

 

 

こちらは若葉台団地入口に架かる大貫谷戸水路橋。

 

 

 

 

あまりにも長大なため、全体像を捉えるのに苦労する。

 

導水路が敷設された尾根をえぐる梅田谷戸の鞍部(あんぶ)は、長さが293m、深さが31mある。深さについては大貫谷戸よりも若干深い。この鞍部をまたぐように鉄橋が架けられている。

 

データは「横浜水道百年の歩み」(昭和62年(1987)横浜市水道局発行)より。

 

 

 

下から仰ぎ見たこの威容は、かつて日本一を誇るも今は失われてしまったJR山陰本線・余部鉄橋(あまるべてっきょう。兵庫県香美町(かみちょう。旧香住町))にそっくり。あちらの赤に対してこちらは緑と色こそ違えど、まるでミニチュア版のよう。香美町香住観光協会・余部鉄橋の歴史のページ(外部サイト)。

 

 

 

川井コミュニティ広場の高台から、三保市民の森側を望む。

 

 

 

この先、導水路は先ほど歩いた三保市民の森の尾根から分かれて、大貫谷戸の鞍部を大貫谷戸水路橋でまたいで川井浄水場へ向かう。

 

 

 

反対側は、ズーラシア繁殖ゾーン(非公開)。ときおり獣の声が遠く響く。導水路はその脇を抜けてズーラシアを縦断し、ふるさと尾根道から鶴ヶ峰配水池へ向かう。
導水路内の水は、ごくわずかの緩やかな傾斜を鶴ヶ峯へ向け流れ下ってゆく。

page top