まちへ、森へ。

チャイナタウンの陰陽五行

2.朝陽門(東門)から媽祖廟、朱雀門(南門)、関帝廟へ

 

1.JR石川町駅から延平門(西門)、善隣門、玄武門(北門)、朝陽門(東門)へはこちら。

 

 

朝陽門(ちょうようもん。東門)。平成15年(2003)築。この門は横浜高速鉄道みなとみらい線・元町中華街駅からの来街者を迎える門となる。

 

 

 

朝陽門から山下町交番前を左に折れて、物販店が軒を連ねる南門シルクロード(なんもんシルクロード)へ。

 

 

 

妻壁(つまかべ)に描かれたエスニックなネパール風「ブッダの知恵の目」が目立つ、「チャイハネPart1」。

 

 

 

関帝廟通り(かんていびょうどおり)への入口に建つ、天長門(てんちょうもん)。

 

 

 

関帝廟通りは中華街大通りに次ぐ賑い。

 

 

 

関帝廟通りに入った側から見る天長門。背後にそびえるのは屋内型アミューズメント施設「横浜大世界」。

 

 

 

媽祖廟(まそびょう)。訪れた時はちょうど修繕工事のため、足場の囲いで覆われていた。

 

 

 

媽祖廟(Maso-byo shrine、Maso-byo temple)は平成18年(2006)の建立。

 

媽祖廟の祭神は宋代に実在したとされる女性。生前より神通力を有し、死後は「天后」「天上聖母」あるいは「媽祖」として祀られた。家内安全を始め、その力により航海の安全を司る女神としても信仰を集めている。

 

 

 

媽祖廟の建立は中華街の人々にはもちろんであろうが、部外者に過ぎない一市民にとっても感慨深いものがある。

 

かつてこの地にはマンション建設計画が持ち上がったことがあった。繁華街に隣接するマンションが立地として相応しいかについては様々に論があろう。しかし一市民としては、それまでにも近隣に新築されたマンションの入居者が春節(旧正月)や国慶節、双十節などで盛大に鳴らされる爆竹音に対して苦情を持ち込んだという報道を目にするにつけ「だったらなぜわざわざそこを選んだのか」と違和感を感じたものであった。まして媽祖廟の建つ位置は中華街でも最もにぎやかなエリアの一つでもある。
そこで中華街発展会協同組合等とマンション事業者が交渉を重ね、土地を買い取る合意に漕ぎ着けた。その先には建物建築と併せた莫大な費用の調達と数十年に渡る償還が待っている。個々の事業者ではどうにもならなかったであろう案件を、町全体で結束して対処したのである。こうした経緯を経て、中華街の人々にとって永年の念願だった媽祖廟は誕生した。

 

 

媽祖廟に限らずとも多数の壮麗な牌楼や関帝廟が異国情緒を醸し出すことで来街者の目を楽しませる現在の中華街の姿は、街の発展を願う人々の永年に渡るたゆまぬ努力の積み重ねの上にある。

 

 

 

「We are ChinaTown.YOKOHAMA」のロゴマーク。横浜中華街発展会協同組合の加盟店であることを示す。

 

 

 

南門シルクロードをさらに進んでいくと、朱雀門(すざくもん。南門)。

 

 

 

東南西北の牌楼(ぱいろう)の中では比較的小振りなこの門は平成7年(1995)築。先代は昭和51年(1976)に建てられた。

 

 

 

門柱は朱塗り。時間は昼、季節は夏に対応する。南方の守護神は朱雀。古代日本の都にも大陸の都に倣って朱雀門が造られたので、その名は馴染み深い。

 

 

 

門柱頂部の朱雀。

 

 

 

門の先は堀川に架かる前田橋。前田橋の先は元町通りのほぼ中央を交差する「百段通り」に通じ、中華街と元町を結ぶ。

 

 

 

朱雀門から太平道を進み、山下町公園・會芳亭へ。

 

 

 

太平道に入ってすぐの角から狭い路地へ入っていく。

 

 

 

山下町公園。

 

山下町公園周辺は古くは清国、中華民国領事館が建っていた地。画面右手は媽祖廟の敷地に接している。

 

 

 

あずまやの會芳亭(かいほうてい)。

 

會芳亭は開港初期にあった會芳樓という劇場・料理店を記念して造られた。この公園の辺りは風水の観点から見ても良い気がながれているそうで、中華街において大切な場所となっている。

 

 

 

會芳亭の天井部。

 

 

 

公園に接する関帝廟通り。

 

近年、山下町公園まえの家庭ごみ集積所における事業系ゴミ問題が深刻化しているため集積所を廃止するという社会実験が行われているとの報道を目にした。商売のために新たにこの街にやって来たのにゴミのルールすら守れない人々というのは、街を愛し街全体の発展のために尽力してきた事業者には考えられない。
ここ十数年来、幾つかの老舗が消えて中華街の事業者も流動化している。もちろん全てがそうとは言わないが、すでに出来上がっている綺麗な街にやってきて、なかには己の利だけにしか興味を示そうとしない事業者もいるのであろう。これは如何なものか、というあまりに安易な食べ物が中華街の評判を落としているという事実もある。

 

街の発展のために歩んできた事業者を尻目に事象の表層をなぞり「料理の質が悪くなった」とか「ブランドイメージは低下した」など、そこにまつわる大多数の人々の思いをよそに自分がリードしたい様に委細構わず論評する言論人、そしてそれを鵜呑みにして憚らない風潮。なんとも、やり切れない気分にさせられる。

 

 

 

関帝廟通り側の市場通り門。

 

 

 

市場通りに入った側から見る額には「五福臨門 人寿年豊」の文字。五つの福が訪れますように、健やかで豊かな年でありますように、との願いを込めているようだ。

 

 

 

関帝廟(Kantei-byo shrine、Kantei-byo temple)。

 

 

 

現在の建物は平成2年(1990)築の四代目。先代の関帝廟は火災で焼失した。二代目は昭和20年(1945)の大空襲、初代は大正12年(1923)の関東大震災で失われている。

 

 

 

黄色い瑠璃瓦(るりがわら)が目を引く。先の四色(青赤白黒)に黄を加えた五色が古代中国の五行思想における基本色といい、黄は中心に位置する高貴な色とされる。黄色い瓦は皇帝にしか使えなかった。

 

関帝廟の祭神は関羽。関羽は後漢(25〜220)から三国時代(魏、呉、蜀)のころにおける蜀(蜀漢)の武将。理財にも長け、簿記法を発明したともいわれる。その死後、後世の人々により武財神「関聖帝君」として神格化された。
英雄が死後に神として祀られるあたりは、日本でいえばさしずめ関羽神社といったところ。関羽は死して祭神となり帝君となったので、黄色の瓦が用いられることは由緒に適っている。

 

 

年間一千万単位の観光客が訪れる横浜有数の観光地、中華街。しかしこの街は単なる観光地ではなく幕末の開港以来、近代化の黎明期に日本人と西洋人の橋渡しをした人々が根を下ろし生業を営んできた生活感の濃い街でもある。ある人は日本国籍を取り、またある人は代々華僑として、日清戦争や関東大震災そして横浜大空襲といった幾多の試練を乗り越えてきた。戦後の復興期以降も中国の分裂に伴うイデオロギーの対立を乗り越え、周辺地域と共に着実に歩んできた。

 

人々の信心の拠り所である関帝廟、媽祖廟は永年の念願だった壮麗な建築が落成した。横浜中華街発展会協同組合の元理事長である林兼正氏はその著書の中で、ゆくゆくは孔子廟の建立も実現したいと語っている。まだまだ遠い道のりではあろうが、中華街はこれから先どのような姿を見せてくれるであろうか。

 

 

 

関帝廟の隣りは学校法人横濱中華学院。前身となる「中西(ちゅうせい)学校」は辛亥革命を指導した中華民国の「国父」孫文が日本へ亡命していたさなかに横浜の華僑から寄付を募り設立した。

 

 

 

地久門(ちきゅうもん)。

 

 

 

地久門の傍らに建つ中華学院の建物の周囲でも足場が組まれていた。昨今は中華街のあちらこちらで改修工事が進められている。

 

 

 

地久門からは長安道を西之橋へ。

 

 

 

レイトンハウス横浜。バブル景気華やかなりし1989年(平成元)に竣工した高級マンション。この地にはかつて震災復興建築として京浜地区に建てられた同潤会アパートがあった。

 

 

 

同潤会アパート。画像出典「横浜中区史」

 

 

 

中土木事務所の角にある、煉瓦造り下水道管。

 

幕末の急造都市として内海の埋立により誕生した開港場は当初衛生状態が劣悪で、外国人居留地(山下町。日本大通りより東側)には西洋式の下水道が廻らされた。まずは明治初期に開港場の街づくりをプロデュースしたR.H.ブラントンが陶管の下水道を巡らせる。
その後人口が急増。より大規模にするために明治14年(1881)から二年がかりで煉瓦造卵形管を用いた下水道網が敷かれていった(なお日本大通りより西側の日本人街にもこれと同じ頃に石造りの下水道が整備されている)。

 

 

洗手亭のあたりから加賀町署(旧居留地警察署)、華銀、善隣門、中華学院、下水道管遺構、同潤会アパート跡と、長安道は中華街の開港以来の歴史に思いを馳せる道でもある。

 

 

 

「恵びす温泉」を過ぎると西之橋。

 

 

 

 

 

 

 

西の橋交差点。

 

 

3.西之橋から元町仲通り、高田坂、セントジョセフ跡からビヤザケ通り、妙香寺、桜道橋へ
中華街・旧正月(春節)のランタン

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