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元町・山手、ノスタルジーの残像


3.西之橋から元町仲通り、高田坂、セントジョセフ跡からビヤザケ通り、妙香寺、桜道橋へ。

2.朝陽門(東門)から媽祖廟、朱雀門(南門)、関帝廟へはこちら。




西の橋交差点。




頑丈な鋼アーチ橋の西之橋。関東大震災(大正12・1923)の後、復興局によって架けられた震災復興橋梁(大正15・1926築)が現存する。

橋の下を流れる堀川は安政の開港直後の万延元年(1860)、外国人居留民を攘夷派浪士から保護する名目で開港場を隔離するために開削された。西の橋を始め居留地に通じる全ての橋には横浜道(よこはまみち)終点の吉田橋(関内駅前)と同様に関門が設けられて番所が置かれた。

開港場を隔離した掘割はそれから長い時を経た現在も、こうして一部が川として残っている。




川を覆う高速道路。

西之橋の頭上を通るのは首都高速神奈川3号狩場(かりば)線。神奈川1号横羽(よこはね)線建設計画の原案段階では、吉田橋がこのような姿になるところだった。
参考「都市ヨコハマをつくる」




西之橋から元町へ。この奥は山手の丘を貫く第二山手トンネル(旧本牧トンネル、通称麦田トンネル)。




元町通りのフェニックスアーチ。




旧横浜市電「元町停留場」付近から振り返り見る西之橋方面。

西之橋といえば思い出すのは「コクリコ坂から」の市電「西の橋停留場」。それは学園理事長との直談判のために出向いた東京新橋・徳丸書店から帰ってきた海(メル)と俊が停留場で別れ際に互いの気持ちを告白するシーンに登場する。
遅ればせながら今回のまち歩きにあたり、「いつかは見よう」と思い録画しておきながらしばらく放置していた作品の全編を鑑賞してみた。二度三度と繰り返して観ていくにつれ、その描写には色々と細かな点を丁寧に練り上げていった跡が感じられた。



西の橋停留場は市電の前身である横浜電気鉄道時代における旧称で、大正後期に市電となってからは元町停留場と改められている。
「コクリコ坂から」にはこの他にも最初の東京オリンピックの前年となる昭和38年(1963)当時に実在した根岸線開通前の桜木町旧駅舎、桜木町駅前〜杉田の市電、税関(クイーン)と県庁(キング)、山下公園、ホテルニューグランド、当時は赤白塗装だったマリンタワー、当時は緑塗装だった氷川丸が登場する。その他の横浜のシーンはほぼ全てが宮崎吾朗監督の心象風景であろうが、その多くは実在の風景をモチーフにしたと思しきものも多い。

西の橋停留場での別れのシーンは東京から桜木町駅に戻った二人が山下公園を歩いたあとに登場するが、メルの住むコクリコ荘が建つのは海を見下ろす山手の丘(近代文学館のあたり)ということになっている。
二人は過ぎゆく一日を惜しむように当時は終着駅だった桜木町駅からビジネス街の本町通りを経て山下公園へと歩き、元町商店街を抜けていったに違いない(作品内では明らかでない)。西の橋(元町)停留場から市電に乗ったメルはおそらく本牧トンネルを抜けた先の千代崎町停留場で降りて「ビヤザケ通り」を上り、山手のコクリコ荘に戻ったのだろう。俊はメルを見送った後で反対方向に乗り本町(ほんちょう。作中では「ほんまち」と呼んでいる)方面に戻ったのではないか。

コクリコ坂から 妄想MAP



上の写真と同様、山手の丘のトンネルに向かっていく市電。実在風景に忠実なこのシーンだが、市電の行先だけは全く架空の「元山下」となっている。ポールの広告に見られる「海洋博物館」は「横浜海洋科学博物館」がモデルだろう。海洋科学博物館は昭和36年(1961)1月、竣工したマリンタワーの低層部(三階)に我が国で最初の海事博物館としてオープンした。ただその規模は小さく、平成元年(1989)3月に横浜博覧会に合わせて日本丸メモリアルパークに開業した「横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)」に統合されるかたちで昭和63年(1988)に閉館した。
山手の丘の向こうは海の見える坂道と海が織りなす、現実と心象が交錯したジブリ作品らしいファンタジーの世界だ(そう感じるのはジブリにあまり馴染みがない横浜人だけかもしれないが。でも、そうでなかったらあの急坂であのスピードの自転車の荷台にあんな腰かけ方、振り落とされそうで怖くてできないよね)。


海(メル)と俊が通う港南学園のモデルは様々な推測が飛び交っているが、おそらくその立地については港(旧市街)の南部ということで県立緑ケ丘高校(旧制横浜三中)がモデルではないかと思う。
オープニングに見るように、本町に住む俊は親父さんのタグボートで新山下あたりから信号旗の揚がるコクリコ荘を見上げ、埋立前の本牧(ほんもく)沖を廻り間門(まかど)あたりで自転車と一緒に陸に上がって学校への坂道を登っていく。俊がメルに「俺たちは兄妹なんだ」と告げた学校帰りの坂道はおそらく埋立前に眼下に海が広がっていた不動坂(根岸森林公園〜白滝不動尊)がモデル。作中の風景は緑ケ丘高校の立地と不動坂をミックスした吾朗監督の心象風景。
そして物語のクライマックス。メルの母が亡きメルの父から聞かされた俊の出生事情を裏付けるキーマンである外国航路の船長に会いに行くため、学校を飛び出したメルと俊はオート三輪に便乗し、坂道(不動坂)を下っていく。そして坂を下りたあたりで渋滞につかまり、走って船着き場(間門あたり)へ。小型の通船は全速力で(本牧岬を回り込むように)突っ走り、横浜港沖に停泊する大型の貨物船に付ける。そして二人はタラップを上がっていく。時間の流れとしてもピッタリだ。

ちなみに港南学園の校舎だが、校舎に大学のような時計塔がある高校はありそうでいてそう多くはない。これは緑ケ丘高校の近所である横浜国大付属小(立野)の校地にあった(横浜大空襲で全壊した)旧制神奈川県女子師範学校の雰囲気がよく似ている。
そしてガリ版刷りの新聞「週刊カルチェラタン」やOB達の「港南新聞カルチェラタン」等に見られる、当時としては自由すぎるその校風、詰襟に蛇腹(じゃばら)が入った男子の制服は県立希望ケ丘高校(旧制横浜一中、神中・じんちゅう)がモデルではないか。

制服については神中の黒地に黒ボタン留めではなく海軍服に由来する濃紺のホック式(俊が片付けの進んだカルチェの部室内で上着を脱ぐシーンはファスナーではなくホック)なので学習院のほうがよく似ているという見方もあろうが、いずれの制服(標準服)にしても港南学園の制服にはない蛇腹の袖章が入っている。それをいうならいっそ同じ横浜市内(とりわけ旧臨海学区)にこだわるということで、伝統校をオマージュしたような制服を採用している県立氷取沢高校であってもいい。
県立の伝統校が港南学園のモデルならば女子の制服は地味な(デザイナーズ風ではない)ブレザーとなりそうだが、そこは私立の設定なのでそれこそ山手のミッションスクールをイメージしてセーラー服にしたのだろう。
さてさて、こうなってくると状況はモデルとなった学校というよりは「港南学園そっくりさん選手権」の様相を帯びてくる。そう来たら男女総合優勝校はここしかない。ずばり、私立横浜隼人高校で決定。




五丁目東信号から元町仲通りへ。

現在は様々な商店が混在する元町本通りと元町仲通り。開港直後には山下町や山手町の居留地に住む外国人の需要にこたえる形で、多くの職人が移り住んでいた。
例えば洋家具の場合、外国人が本国からもって来た家具を修理のために持ち込んでくる。西洋家具の曲線がヤスリがけで生み出されるのに対し、日本の職人は小さなカンナでより滑らかな曲線を生み出した。こうした日本の職人の手による西洋家具が「横浜家具」として次第に世に広まっていった。




元町の厳島神社。

現在地への遷座は昭和初期。関東大震災(大正12・1923)によりそれまで現在の元町プラザ(元町一丁目)辺りに建っていた増徳院境内の社殿(弁天堂)が焼失したため、当地に移転した。
震災では増徳院の本堂も焼失。薬師堂だけがその場に残り、増徳院は現在地(南区平楽)に移転している。




かつての増徳院の弁天堂は江戸前期の元禄年間、横浜村の砂洲に建っていた洲干弁天社の祭神を別当(社務を管理する寺)となった増徳院の境内に分祀、奉安するために建てられたもの。本社の洲干弁天(清水弁天、横浜弁天)に対して増徳院弁天堂は杉山弁天と呼ばれていたが、明治の神仏分離により増徳院より分離されて厳島神社と称するようになった。
というわけで旧横浜村の住人ははからずも幕末の開港により御公儀の命によって、いわば村の鎮守の弁天様を追っかけるようにこの地に移住させられた、ということになる。

なお洲干弁天社は横浜開港後も幕末期までは開港場の入口付近にそのまま存続していたが、開港場の拡張整備に伴い明治前期には現在地(中区羽衣町)に移転している(羽衣町の厳島神社)。




拝殿。

仲通りに戻り、先へ進む。




汐汲坂(しおくみざか)。




坂の途中にはミッション系ではない私立の女学校として明治32年(1899)に創立された横浜高等女学校(現在は横浜学園として磯子区岡村に移転)があった。

横浜高女は小津安二郎監督の映画作品で有名な女優・原節子が在籍していたことでも知られる。

原節子は県立高女(のち県立横浜第一高女。現平沼高校)を目指していたのだが試験当日の発熱により失敗、私学の横浜高女に通った。もしも原節子が体調万全で県立高女に進んでいたら平沼の同窓会には岸恵子や草笛光子といったキラ星の如きOGに加えて原節子もその名を連ねていたことになる。とはいえ県立高女であればひょっとしたら女優にはなっていなかったかもしれない。




再び仲通り。FUKUZOの裏手を過ぎる。




百段通りの角あたりから見る元町百段跡の崖地。 




前田橋・百段通りから見た大正初期の元町百段。この画は高田坂を登った先の元町百段公園に展示されている。

石段は関東大震災(大正12・1923)で崩壊してしまった。石段を登った上には浅間社(元町厳島神社末社)の祠があった。




霧笛楼。

元町土産の大人なチョコレート菓子と云えば喜久家の「ラムボール」、そしてここ霧笛楼の濃厚チョコレートケーキ「横濱煉瓦」。




代官坂へ。

代官坂は昭和初期頃の地図(Webでは日文研データベースで昭和3・1928年のものが閲覧できる)にはまだ「箕輪坂(みのわざか)」と記されている。箕輪坂の名の由来ははっきりしない。
横浜中区史によるとキリン園公園の裏手、千代崎町一、二丁目の関東財務局千代崎住宅(現在は再開発マンションとなった)が旧箕輪邸跡地となっている。箕輪氏は地区の旧家となろうから、代官坂のいわれと同様この辺りに坂の名の由来を求めることができるかもしれない。




代官坂から分岐する、高田坂への階段。




代官坂下を見下ろす。オレンジの日除けの店が丸栄商店。




ここは現代における元町百段といったところ。




階段を登り切って少し行くと、元町百段公園。




元町百段公園。




昔は港が一望できたという、百段公園の眺め。今ではビルが眼下を埋め尽くす。ランドマークタワーの左下が桜木町駅(初代横浜駅)。

今はない「百段」がもし残っていれば、その先は百段通りから前田橋、朱雀門、南門シルクロードへと続く。黄色い屋根が見える横浜大世界の先あたりには昔なら大さん橋が見えていたはず。




西を見る。




伊勢佐木町ワシントンホテルの左上に丹沢の最高峰・蛭ヶ岳(ひるがたけ。1673m)が見える。そして稜線を左にたどっていくと表丹沢の雄峰・塔ノ岳(とうのだけ。1491m)あたりまでが見えている。となると、大山や富士山は石川町駅前の大型マンションの影に隠れる。

先に見たように百段公園あたりには、かつて浅間社があった。それは富士浅間信仰の霊峰・富士がここから見えていたからこそ、ともいえる。石川町駅前の大型マンションが建ったのは平成13年(2001)。この地が富士山の眺めを失ってから、かなりの年月が流れていった。




百段公園を後にして、山手本通りへ。




山手本通りに出たら左折、セントジョセフ・インターナショナルスクール跡へ向かう。




代官坂上。




代官坂を見下ろす。




雙葉小学校入口。




雙葉学園の正門脇に立つ、サンモール・インターナショナルスクールへの案内板。
下の説明には「コ・エデュケーション プレ・キンダーガーテン トゥ グレード12」とあり「男女共学 幼稚園就園前から高三まで」といった感じ。

サンモールと雙葉学園は設立母体が同一(幼きイエス会。旧サンモール修道会)で、いわゆる姉妹校にあたる。設立は1872年(明治5年)というから、かなり古い(横浜開港は1859・安政6年)。元は居留民の女子教育の場として設けられたという(男子は本国に帰して寮のある学校に通わせたようだ)。




元町公園前まで来たら、正面の狭い道へ。横断歩道の先、かつて校地だった小さな一角が元町公園の一部として整備されており「元町セントジョセフ公園」と呼ばれている。




セントジョセフ公園内のメモリアル。同窓会によって設けられた模様。




カレッジ時代(1901〜50、51〜83)の校章、インター時代(1984〜2000)の校章が見られる。

男子修道会のマリア会を設立母体とし(他には東京・暁星学園など)、多数の著名人を輩出したセントジョセフ(明治34・1901年創立)は平成12年(2000)に廃校。跡地が大型マンションになって久しい。




在りし日のセントジョセフ。画像出典「都市の記憶 横浜の近代建築(U)」

校舎は震災直前の大正12年(1923)のものと昭和3年(1928)、昭和9年(1934)のものがあった。山手文教地区のシンボルの一つだった建物は失われてしまったが、渡辺美里の「My Revolution」に乗って流れるTVドラマ「セーラー服通り」のオープニング映像だか本編だかで写っていたはずの正門アーチは、「あぁ、あれ」と記憶の片隅から甦ってくる人もいるだろう。




右手に旧校地を見ながら坂を下っていく。




セントジョセフ跡のブラフ積(ブラフづみ)擁壁。長く切った石の長手(ながて。長辺)と小口(こぐち。短辺)を交互に積む。レンガのフランス積に似たこの積み方は、山手界隈に多く残る。ここのブラフ積は大規模。

校地売却後のマンション建設に際しても壊されてコンクリート擁壁に置き換えられてしまうことなく、往時のままに残されたのは精一杯の誠意か。




ブラフ積を眺めつつ、北方(きたがた)小学校前まで下りてきた。




小学校前信号で交差するのが「ビヤザケ通り」。左折して港の見える丘方面に少し進むと、ビール井戸。




校地の一角に煉瓦造りの井戸が見える。




小口積(こぐちづみ。レンガの小口(短辺)を表面に見せる積み方)で造られた井戸。

江戸時代後期のこの地は久良岐(くらき)郡北方村小名天沼(あまぬま)。
生麦事件を契機に造成された外国人遊歩道の道筋にあたるこの辺りは新道の開通により外国人の往来が盛んになり、次第に街並みが整っていく。

明治二年(1869)、灌漑用の池の一部を残して造成された地にアメリカ人醸造技師のウィリアム・コープランドがビール会社「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を設立した。居留地の外国人向けに醸造された新鮮なビールは評判を呼び、事業は軌道に乗る。




ビール井戸から本牧通り方面へ引き返して、キリン園公園に向かう。









サンモール・インターナショナルスクール。




左手の小さな公園が「キリン園公園」。公園内に麒麟麦酒開源記念碑(昭和12・1937建立)が建つ。




明治18年(1885)、コープランドの事業を継承する形で外国人・日本人の共同経営による「ジャパン・ブルワリー」が設立され、製品は「麒麟ビール」と命名された。
この頃のビールはもっぱら外国人向けであり、一般が飲用する(しかも滋養飲料水として薬屋で売られた)ようになるのは日清戦争(1894〜5)のころといわれる。とはいえハイカラ好きの一部日本人に「ビヤザケ」として飲まれていたほか、工場周辺地域の人々はこのころから普通にビールを手に入れ「旨え旨え」とやっていたらしい。

明治40年(1907)、それまでにも株式会社への組織変更と度重なる増資を経て成長を続けたビール会社は「麒麟麦酒株式会社」と名称変更。明治末期に敷設された横浜電気鉄道により輸送力は増強され、一帯は寄席や芝居小屋に映画館、料亭に芸妓置屋や検番が建ち並ぶ企業城下町の如き活況を呈していった。

この状況が一変したのが大正12年(1923)の関東大震災。キリンビールの大工場は壊滅し生麦(横浜市鶴見区)に移転、会社も街の盛大な賑わいも文字通り泡のように消えてしまった。
参考「横浜中区史」




案内板に見る「ジャパン・ブルワリー」。




同じく「キリンビール」。




案内板の土台のレンガは工場跡から発掘されたもの。




公園に残る「麒麟園」と刻まれた門柱は開源記念碑建立当時のものか。




キリン園公園を後にして、すっかり緩くなった坂を妙香寺へ向かう。




本牧通りに出る手前でキリン園公園入口信号を右折。




妙香寺前信号を通過。




日蓮宗・本牧山妙香寺。




寺前に「国歌君が代由緒地」の碑(昭和12・1937建立)が建つ。




参道階段へ。




山門に掛かる山号「本牧山」の額。




銅板葺の本堂。




境内に建つ「日本吹奏楽発祥の地」碑。題字は島津忠秀(1912〜1996。島津家第31代)の書。

明治二年(1869)、妙香寺に駐屯していた英国軍隊のもとに薩摩藩は30名余りの若い藩士を派遣、軍楽隊伝習を受けさせた。明治三年(1870)、猛特訓を受けた薩摩藩士たちは洋装に身を固め、開園したての山手公園(もとは妙香寺境内地の一部)でお披露目の演奏をする。日本における軍楽隊、ひいては吹奏楽の始まりであった。

このとき薩摩藩士を指導したのが軍楽隊の指揮者であったフェントン少尉。フェントンは薩英戦争のおりイギリス兵の水葬で演奏された儀礼曲を指揮。感銘を受けた薩摩が軍楽隊の設立を目指し、その伝習を依頼したのが薩摩とフェントンの関係の第一歩となる。




その隣に建つ「国家君ヶ代発祥之地」の碑。

その後フェントンは日本側の依頼を受け、西洋の旋律で初代「君が代」を作曲。アイルランド出身でスコットランドにもルーツを持つフェントンの旋律はどこかスコットランド民謡を思わせる優しさがあり、皇統の悠久の流れを感じさせる壮大さも感じられる。とはいえ、旋律に歌詞がうまく乗っていないのは否めない。

明治九年(1876)にはフェントンから指導を受けたひとりである中村祐庸(初代海軍軍楽隊長)から楽譜の改定を求める上申書が提出され、明治13年(1880)に現在の「君が代」が新たに作曲された。

参考「横浜中区史」「ヨコハマ公園物語」




日本吹奏楽発祥記念演奏会(日本吹奏楽指導者協会主催)のポスター。この年は百四十九年記念。




妙香寺から本牧通りに出て、山手駅入口へ。




山手駅入口の先で一直線に延びる、大和町(やまとちょう)商店街。最奥がJR根岸線・山手(やまて)駅前となる。

この真っ直ぐな道路は、幕末の開港期に山手に駐屯したイギリス軍隊の鉄砲場跡。英国公使から老中に対して「ライフル試射場を定めて欲しい」と申し出があり、この地がイギリスに貸し付けられた。鉄砲場はイギリス軍やフランス軍の訓練に使われ、駐屯軍が縮小された明治四年(1871)ごろからは日本軍も使うようになった。

一帯が県に移管されたのち払い下げられて道路や街並みが整い始めるのは明治40年代(1907〜)に入るころから。




鉄砲場。傍らを千代崎川の小川が流れていた。
画像出典「横浜中区史」




千代崎川は一部が残り、暗渠(あんきょ)になっている。









元町方面へ進んでいくと、二つのトンネルが口を開けている。




左のトンネルの手前に架かる、桜道橋(さくらみちはし)。
関東大震災(大正12・1923)後の昭和三年(1928)、復興局により震災復興事業の一環として築造された。

桜道の名は幕末期の外国人遊歩道建設に際し、桜を植えた並木としたことに由来する。山手公園のすそを通っていた桜道は地蔵坂上、山元町(やまもとちょう)を経由し根岸競馬場(現在の根岸森林公園)へと向かう。




山手トンネル。
桜道橋と同時期に復興局により自動車道路用トンネルとして造られた。




右のトンネルは第二山手トンネル(旧本牧トンネル)。山手トンネルと併せて「麦田トンネル」と呼ばれている。




こちらは明治末期開通の路面電車専用のトンネルだった。市電の廃止(本牧線は昭和45・1970頃)後、改修を経て一方通行(元町から本牧方面)の自動車トンネルとなった。




横浜電気鉄道(のちに横浜市電)の専用軌道時代。
画像出典「横浜中区史」

この路面電車の開通は実業家・原三溪(富太郎)によるところが大きい。
義祖父の善三郎から本牧の別荘を受け継いでいた富太郎はその広大な敷地を明治39年(1906)に三溪園として整備、開園。原合名会社に不動産部(後の原地所)を立ち上げ、本牧の高級住宅地開発に着手する。その一環で横浜電気鉄道の株主となり、明治44年(1911)に同電鉄の本牧線が元町の西の橋から本牧原まで開通した。
これは関西の小林一三が箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線)沿線開発(明治43・1910)に際して採ったのと同様の手法である。関東では東急の五島慶太による田園調布開発に先駆けて原財閥がそれを手掛けた、ということになる。
これにより明治30年代までは田園の広がる漁村だった本牧一帯が本格的に開発され、政財界人・文化人で賑わう三溪園とともに発展していくこととなった。

そうした本牧であったが昭和20年(1945)の戦争終結後、一大転機を迎える。米軍の長期にわたる接収と同時に雪崩を打ってアメリカの50s、60s文化が日本中の何処よりも早く上陸、戦後日本におけるポップカルチャー発信源となった「本牧ベース」の時代である。




桜道橋へ上がる。




桜道橋。




桜道橋からの山手トンネルの眺め。

「コクリコ坂から」における海(メル)の通学路は謎が多い。
先に見たように港南学園が不動坂+緑ケ丘高校だったとして、通学の途中に路面電車を利用していたならば山手のコクリコ荘からビヤザケ通りを北方小学校入口(本牧通り)に下りて千代崎町停留場から市電に乗り、間門(まかど)あたりで降りてから坂を登っていく設定が有り得そうだ。
しかし登校時に歩いている道には市電のトンネルを見下ろす橋が見られる。これはまさしくここ、車道の山手トンネルを見下ろす桜道橋の陸橋と、市電廃止までは軌道専用だった旧本牧トンネル(現在は第二山手トンネル)をミックスして通学路の一部としてはめ込んだ、吾朗監督の心象風景となろう。



また、俊から「自分たちは兄妹だ」と聞かされて呆然となった雨の帰り道、トンネルではなく切通(きりどおし)を通る市電のシーンのモデルは桜道橋を地蔵坂上方面へ進んだ先、市電山元町線の打越橋あたりとなろう。ただし作中の橋は赤のアーチ橋ではない。しかも行先は六角橋(神大(じんだい)がある神奈川区の街)ならぬ三角橋だ(笑)。なお実際の六角橋行は山元町線ではなくメルがおそらく通学で利用していたはずの本牧方面からの路線。とすると、こちらも両路線をミックスしたイメージのはめ込みということになる。



ここで気付くのは、心象風景の市電はいずれも旧塗装。一方で現実風景の元町停留場(作中では旧称の西の橋停留場)では市電が廃止される前に採用された最終期の塗装(こちらは色合いが市営バスに受け継がれている)。こうした使い分けがあるからこそ、メルが市電に乗って冒頭で触れたような帰路をたどる設定だったのはほぼ決まりではないか、とも思える。

他にも作品内には大正末期に震災で崩壊した元町百段と元町厳島神社をミックスしたような風景も出てくる。横浜が舞台のドラマでよくある、距離の離れた目玉スポットてんこ盛りという王道パターンだ。



オリジナルサウンドトラックに収録されている「朝の通学路」はクラーベ風のリズムに乗ってバンドネオンがメロディーを奏でる。そこから感じられるのは長かった戦争の時代から解放されルンバ、タンゴ、チャチャといったラテンのリズムが巷にあふれていた、どこまでも明るく前向きな未来を予感させる時代。

一つ分かりにくいのは、メルがコクリコ荘を出ていく北斗女史との別れを惜しんでいた朝の通学風景。谷戸(やと)の農村風景が広がるこのシーンを挿入した意図はやや図りかねるが、これは港南学園(緑ケ丘高校)の内陸側にあたる本牧緑ケ丘、本牧満坂から本牧町あたりの昔の姿をイメージしたのだろう。中区史によると路面電車の通る本牧通りから外れたこの地区は大正後期から昭和初期にかけても農村風景が広がるままだったという。ただこちらから登校するとなると、現実世界に重ねたときに海側の坂道に出ることなく内陸側からの通学になってしまう。それでも敢えて差し込んだ心象風景のインパクトとしては、上で触れたシーンと比べるとちょっと弱い。



なお通学路と仮定した本牧通り沿いで昭和30年代とくれば、忘れることができないのは先にも触れた在日米軍の「本牧ベース」。フェンスの向こうはアメリカ、という時代は昭和50年代まで続いた。
本牧ベースは作中には全く出てこない。作中では終戦後もなお引きずる戦争の影として、メルの父が朝鮮戦争に従軍した際に乗艦したLST(戦車揚陸艦)が描かれているくらい。作品内に占める時間的なウエイトは大きくはないが、サウンドトラックに収録された「夢」のメロディーに歌詞を付けた「赤い水底」(「歌集」に収録)は、ずっしりと重いメルの父に対する想いが聴き手にホロリと涙を誘う。赤やオレンジのコクリコ(ポピー)の花には「慰め」「いたわり」といった意味があるそうだ。
ともあれ、当時の横浜の街には至るところに在日アメリカ軍の存在感が色濃く出ていた。その象徴的なシーンは映画のラスト近く、メルの母と俊の養父が待ち合わせた関内あたり(ドア越しに見る店の外に石造風の建物が見える)の喫茶店のシーン。そこでは店の前に米軍関係者が使用する「Eナンバー」車が停まっている。県内では現在でも横須賀あたりを歩くと同じく米軍関係者の車両である「Yナンバー」の車を普通に見かける。



ナンバープレートには「4755」。これが1947年(昭和22)〜1955年(昭和30)を暗示しているとしたら、そこにはどのような意味が込められているのだろうか。


通学路はこんな感じで行くとして、メルが下校時にコクリコ荘のまかないの食材を買って帰るのなら、本牧通りの本郷や麦田の商店街あたりで肉や魚、野菜を買って帰りそうだ。
作中では食材が足りなくなったメルが山手コクリコ荘の門前で鉢合わせた俊の自転車に乗せてもらって(俊が学校帰りに走って来た道を引き返してくれる)坂を下り肉屋へ買い物に行くシーン(帰りにコロッケを歩き食いするシーン)があるが、日々のまかないに用いる食材といった生活感のある買い物の場は巷で言われる元町よりはむしろ本牧通りの商店街ではないか、という気がする。そして港南学園から不動坂、本牧通り、ビヤザケ通り、コクリコ荘、谷戸坂という位置関係からすれば肉屋はまさしく本牧通りにある店ということになる。
作中の店舗は元町・代官坂下の丸英商店がモデルといわれるが、麦田町商店街の古写真を眺めてみると商店街の雰囲気そのものは元町というよりは市電の通る本牧通りの方がしっくりくる。実際のビヤザケ通りは作中のそれと違って主題歌「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」よろしく「ゆるい坂」ではあるが、それはビヤザケ通りに代官坂の風景をミックスした心象風景だろうから問題ない。
第一、もし学校が山手のどこかで肉屋が坂を下りてすぐの元町だったら、「おうちはどこ?」という問いかけに「本町」と答えた俊に対して、小学生ならともかく高校生のメルが「わぁ、遠いのね」とは言わないだろう。

なお作中では道幅の狭い、おそらく一方通行の商店街を市電ではなくボンネットバスが走っている。この商店街の雰囲気は、先に見てきた大和町(やまとちょう)の商店街が実によく似ている。



戦前の路線図には大和町商店街から本牧通りの上野町、そして元街小学校前を通り代官坂トンネルを抜け元町を横切るバス路線があった。それなら確かに丸英商店あたりをかすめている。しかしそれは元町商店街を横切るだけであって商店街に沿って通過していくわけではない。しかも昭和30年代にはこの路線は既に無く、上野町から先は北方小学校前を経て山手の丘から谷戸坂を通る経路に代わっていた。作中のボンネットバスのワンシーンはやはり本牧通りの前後ということでよいだろう。ちなみに「元山下」は「新山下」と「山元町」をシャッフルしたような名前だ。

そして最後にもう一つ、そのような道のりだったとしたら俊が下校時になぜ本牧通りのトンネルを抜けずにわざわざ山手の丘(ビヤザケ通りからおそらく谷戸坂)を上り下りして本町に帰るのかも気になるところだが、本牧(麦田)トンネルが市電専用だった当時、もう一方の山手トンネルは上下線分離ではなかったので自転車で通過するには路肩が狭くてちょっと怖いだろうし「たまには違う道を走るか」というのは元気な高校生なら普通にありそう。そして山手界隈の雰囲気にはそうさせるだけの魅力がある。「こっちを通ればメルに会えるかも」とも思うだろうし。そして狙い通りに鉢合わせした。すれ違いざまの俊の「うおぉっ、来たっ」という表情は作中で二度は見せない思春期の少年の素顔そのものだ。

タグボートの船長の息子の俊は通学時に新山下あたりの船上から山手の丘をボーっと眺めていて信号旗を掲げる洋館に気付いた。信号旗が「安全な航海を祈る」であると読み取った(あるいは親父に聞いた)俊は「いったいどんな家なのだろうか」と下校時に興味本位でそちらに自転車を走らせ、何かのきっかけでそこの娘が学校の後輩であることを知った。それからはタグボートに回答旗を掲げたり、メルへの想いを込めた短い詩を「週刊カルチェラタン」に載せたりもする。
回答旗は下宿人の画学生ヒロコおじさん(笑。私も「ぇ、おじさん?しかもおばあちゃんまで!これは元祖オヤジ系か??」と思ってしまったクチだ。でも素顔が素敵なヒロさん、振る舞いやギャグのセンスがちょっとオヤジっぽい)には「よく通る船だよ。メルが掲げると返事してるみたい」と、かなり前から気付かれていた。
それに週刊カルチェにその紙面を割いてまであのような(数学部の吉野いわく「海にボトルを流すようなやり方」の)詩を載せたりすれば親友の水沼はもちろん、編集部の後輩である山崎らも「先輩、何すか、これ?」と来るだろうから俊がメルに片思いなことがバレないはずがない。メルが一学年下の妹と一緒に部室棟にやってきた時点で、俊がメルに片思いなことを水沼はおろか山崎らも知っていた訳である。山崎でなくたってメルが誰を訪ねて来たのか、何の用件かを切り出す前から「部長、珍しいお客さんですよ」と冷やかしたくもなろう。
だからこそ水沼がおそらく俊から「メルとは兄妹だ」と打ち明けられて以降、水沼は部室にやって来るメルの心中を察しまるで兄貴分か何かのような優しいまなざしをもって接するのに対し、そこまでは知らされていないであろう山崎はメルと俊の会話が他人行儀でよそよそしい言葉使いになったことに怪訝な表情を見せる。このあたりの日本語に特有の言葉使いの変化から生ずる微妙なニュアンスは翻訳版「From Up On Poppy Hill」ではおそらく伝わりにくいだろう。だいたい、つっけんどんな奴だったはずの俊に西日に照らされた坂道で初めて「メル、ありがとう」とあだ名で呼ばれた時のメルのハッとしたドキドキ感は、終始「Syun」「Umi」と呼び合っている翻訳版ではちょっと伝わりそうにない。

まったく、俊と云う奴はツンデレ男子だな。空気を読んだ水沼が天然な妹を外へ連れ出して御膳立てしてくれた(考古研の連中はまだ残っていたが)千載一遇のチャンスに「ん」とか言ってる場合か。それにたとえあんなことがあったとしても、たぶん水沼殿だったら「これ、お父さんの前に」って、カズさんばりにコクリコ(ポピー、ひなげし)を腕一杯の花束にしてメルのところに持っていくぞ(笑)。




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