まちへ、森へ。

チャイナタウンの陰陽五行

平成30年(2018)9月の下旬、例年になく厳しかった夏の暑さもようやく収まってきた。ふた月ほどのまち歩き中断期間を経てようやく巡ってきたまち歩きの好日、JR根岸線・石川町駅から中華街、元町、山手をめぐり歩く。

 

1.JR石川町駅から延平門(西門)、善隣門、玄武門(北門)、朝陽門(東門)へ

 

 

朝の9時過ぎ、JR根岸線・石川町(いしかわちょう)駅の中華街口(北口)から中華街へ向かう。いきなり牌楼(ぱいろう。門)が目に飛び込んでくるが、まずは高速道路橋脚の足元に目をやる。

 

 

 

横浜製鉄所跡の解説板。

 

横浜製鉄所(造船所)は幕末期、幕府の依頼により横須賀製鉄所(造船所)の建設責任者となったフランス人レオンス・ヴェルニーが横須賀の本格的な整備に先立ち横浜に設けた小型船舶の修理工場。ここで日本人技師に技術の伝習が行われた。

 

 

 

山手から見た建設中の横浜製鉄所。慶応元年(1865)、F.ベアト撮影。

 

方角としては山手から吉田新田の内陸側を見ている。まだ蒸気機関の煙突は立っていない。画面左手の川が上流へ続く中村川。右手前側はちょっと分かりにくいが、右下側に広がる埋立地の開港場を隔てるために造られた派大岡川(はおおおかがわ)と堀川が分岐している。製鉄所は現在の首都高石川町JCTに囲まれた辺りにあった。

 

 

 

「増補再刻 御開港横浜之全図 橋本玉蘭斎(五雲亭貞秀)画」に見る横浜製鉄所。
左側の敷地が石川町駅南口(元町口)あたり、右側の敷地が北口(中華街口)のあたりとなり現在は大型マンションが建つ。

 

 

 

西陽門(せいようもん)。

 

 

 

延平門(西門)の更に西側、西に沈む太陽に最も近い門というのがその名の由来。

 

 

 

西陽門をくぐり、延平門へ。

 

 

 

延平門(えんぺいもん。西門)。平成6年(1994)にメインゲートの善隣門に続いて新調された。
旧門は根岸線(当初は桜木町から磯子まで)の開通(昭和39・1964)後となる昭和45年(1970年)に建てられており、当時は中華街に最も近い最寄駅だった石川町駅からの来街者を迎える門となった。

 

 

 

新調された東南西北(東西南北)の四つの門は門柱が青赤白黒に塗られている。青赤白黒の各色は順に東南西北の方位を表し、他に時間(朝昼暮夜)や季節(春夏秋冬)にも対応している(陰陽五行説)。そして各方位を守護する四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)が各門の門柱頂部に祀られている。西の延平門は門柱が白く塗られており、頂部には白虎を祀る。季節は秋、時間帯は夕暮れに対応する。

ちなみに大相撲の土俵の吊り屋根の四隅に四つの房(東から青房、赤房、白房、黒房)が吊るされているのも同様の思想。元横綱の朝青龍の場合、四股名(しこな)の「朝」は高砂部屋所属力士の通字だが「朝」と「青龍」の組み合わせがたまたま陰陽五行説にぴったりと合致し、日の出の勢いを感じさせる縁起の良い四股名となった。

 

 

 

西門通りを行く。

 

 

 

市立港中学校の門柱。

 

この立派な門柱は関東大震災(大正12・1923)の震災復興橋梁として派大岡川(現在は首都高横羽(よこはね)線地下部分)の横浜公園・石川町駅寄りの角あたりに架けられていた旧花園橋の親柱を移設したもの。
参考「都市の記憶 横浜の主要歴史的建造物」

 

 

 

九龍陳列窓。北京の宮廷庭園であった北海公園の九龍壁を参考に北京で製作され、年に数回入れ替えのある展示スペースとなっている。

 

 

 

このときは中秋節と各地方ごとに特色ある月餅のお話が展示されていた。

 

 

 

展示に隠れた背後は北京・九龍壁のように瑠璃瓦でできた緑壁と黄龍となっている。
画像出典「横浜中華街オフィシャルガイドブック 第一刷」

 

 

 

「中華街大通り」の入口に建つ、善隣門(ぜんりんもん)。平成元年(1989)築。

 

 

 

中華街のメインゲートとなるこの牌楼(門)には「親仁善隣」と書かれた額が掲げられている。

 

旧善隣門は昭和30年(1955)に完成。それまでこの街は「南京町」(中華街在住の人々には唐人街)と呼ばれていたが、旧門に「中華街(ChinaTownの訳語)」「親仁善隣」と掲げられたことにより、その頃から中華街と呼ばれるようになる。続いて1970年代には東西南北の旧門も建てられた。

 

旗振り役は当時の市長、平沼亮三。平沼家は江戸時代の平沼新田の開発でも知られる横浜市域の旧家であり、戸部の願成寺に墓がある。
市長はサンフランシスコのチャイナタウンを視察し、それまではこの一帯に住む人々の生活の場であった街を横浜観光の目玉にできないかと目論んだ。その際「南京」では一都市の名にすぎないので「中華」と改めることになった。その結果として、多くの観光客向け飲食店が立ち並ぶ現在の中華街の原型が産声を上げた。

 

一つ思うのは、日本でも中世までは海外からの舶来物にはおしなべて「唐(から)」と付けていた。異国船は近世以降も「唐船(からふね)」だった。ペリーの船も庶民にとっては「唐船」である。ただタールを塗った真っ黒い船は初めて見るものだったので「あれは黒船だ」となった。一方で戦国時代以降は中国王朝とは別にスペイン、ポルトガルといったあたりの目新しいものは「南蛮」と呼ばれるようにもなる。
幕末の開港以降になると西洋文化がどっと押し寄せる。その頃の日本人にとって「唐」という響きは時代的にも地域的にもあまりに広すぎるため近代の中国(清朝以降)を象徴する言葉として「南京」が一般化したのだろう。「南京玉すだれ」とか「南京錠」「南京豆」のように。中華街の人々にとっても「唐人」というのは「中華系外国人」くらいの意味であって古代王朝の「唐」所縁だとはサラサラ思ってもいないだろう。

 

大正以前はもちろん、昭和20年代くらいまでの間に生まれた人たちにとっては、その親の世代の影響もあり「南京町」と呼んでいた時代が長かったはず。昭和30年代中ごろから後の世代には生まれた頃から横浜の南京町は「中華街」であり「南京町」と呼んだ記憶はないだろう。

 

参考「横浜中華街オフィシャルガイドブック 第一刷」「なぜ、横浜中華街に人が集まるのか(林兼正著)」

 

 

 

善隣門の斜め向かいに建つ、加賀町(かがちょう)警察署。居留地警察署を前身とする。旧建物(大正15・1926年築)は震災復興建築として建てられた。老朽化により平成8年(1996)に現在の建物に建て替えられる際、旧建物のファサード(正面部分)が再現された。

 

左手は北門通り。ここをまっすぐ行くと横浜公園・横浜スタジアムに突き当たる。

 

 

 

旧建物。当時の正面は現在とは逆に北に向いていた。
画像出典「横浜中区史」

 

加賀町という名は居留地の町名が細分化されていた時代の名残り。開港場を目指して全国各地から人々が流入し、日本各地の地名が町名として付けられた。居留地エリアの町名は後に「山下町」に統一される。

 

 

 

北門通りを北門へ。

 

 

 

玄武門(げんぶもん。北門)。平成7年(1995)築。柱は黒塗り。時間は夜、季節は冬に対応し北方を守護する玄武(亀蛇)が祀られる。
「玄」は黒の意味。この字からは玄人(くろうと)とか、丹沢を歩くハイカーにとってはよく知られた玄倉川(くろくらがわ。ユーシン渓谷)といった言葉が思い浮かぶ。

 

玄武門は横浜公園に隣接し、横浜スタジアムから中華街に繰り出す際の最寄りとなる。

 

 

 

頂部の玄武(亀蛇)。他の四獣(青龍、朱雀、白虎)と比べると、その姿はちょっと馴染みが薄い。

 

 

 

2020年の完成を目指して増設スタンドを工事中の横浜スタジアム。第一期工事は一塁側から。

 

 

 

玄武門から引き返し、左に折れて加賀町署沿いに進む。

 

 

 

「洗手亭」(公衆トイレ)。

 

 

 

先に触れた、旧加賀町署の正面はこちら側にあった。

 

左手に延びる長安道を進んでいくと、再び善隣門の前。

 

 

 

信用組合横浜華銀。

 

 

 

善隣門の向かいに建つ、四五六菜館別館。

 

善隣門をくぐり、中華街一賑わうメインストリートの「中華街大通り」を行く。

 

 

 

萬珍樓本店。横浜人には言わずもがなの、中華街を代表する老舗。

 

大通りの華勝楼、安楽園、均昌閣、そして関帝廟通りの萬来軒・・・。経済動向の浮き沈みや後継者問題の中、惜しまれつつ消えていった老舗も少なくない。

 

 

 

中華街大通りと香港路の角に建つ一楽(いちらく)。

 

 

 

蘇州・寒山寺(臨済宗)をモチーフにしたという建物が目を引く。

 

 

 

香港路に入れば順海閣本館、海員閣、それに中華粥の安記(あんき)といった名店が軒を連ねる。

 

 

 

聘珍樓(へいちんろう)横濱本店。中華料理店としては中華街最古の創業。
※令和四年(2022)3月、聘珍楼横濱本店は現在の形態としては営業を終了することが報道されたが、6月になって破産手続の開始決定がなされたことが報じられた。中華街のシンボルの一つは、こうしてその歴史に幕を下ろしてしまった。

 

 

 

中華街大通り側の、市場通り門。
角に建つ老舗・同發(どうはつ)本館は工事の足場に囲われていた。

 

「聘珍樓、萬珍樓、同發(または華正樓)」は中華街御三家などと言われる。大叔母は同發がお気に入りだった。親父には廣東飯店によく連れて行ってもらったものだった。
伝統の味というものは、例えば旨味重視のうすくちになるなど時代に即して少しずつ変容していくもの、という。美味の最大公約数的なものはあるだろうが、人の味覚は千差万別、年齢を重ねることでも変わっていくのだから万人受けする美味などというものはあり得ない。

 

ここいらの出身であるならきっと皆それぞれに、それぞれの店にまつわるかけがえのない懐かしい思い出があるだろう。

 

 

 

市場通りに入った側から見る額。「南珎北味 齊聚一堂」とある。南北の珍味が一堂に集まる、といった意味のようだ。

 

 

 

市場通りや香港路、善隣門周辺はここでは紹介し切れない数々の名店がひしめくランチタイムの激戦区。

 

 

 

四五六菜館。市場通りにずらりと吊るされた紅い提灯は慶祝ムードを盛り上げる。

 

 

 

再び大通りへ。状元樓横濱本店の外装はスパニッシュ風にアールデコを取り混ぜたような折衷様式。エキゾチックな清朝期の上海租界のよう。

 

 

 

華正樓(かせいろう)新館。上海路との角に建つ。

 

 

 

上海路の向こうは租界建築のベランダのような外観を見せるローズホテル横浜(旧ホリデイ・イン横浜)。

 

 

 

隣りの角には中華粥の謝甜記(しゃてんき)。中華粥の店は朝の開店が比較的早い。

 

 

 

華正樓本店(上海路側)。本店は原則として予約のみ。

 

 

 

華正樓本店(大通り側)。

 

先へ進めば山下町交番、朝陽門(東門)。

 

 

 

山下町交番。

 

 

 

交番のレリーフ。

 

 

 

朝陽門へ。門の手前右手(白い壁のビルの下)には「洗手亭2號」(公衆トイレ)がある。

 

 

 

朝陽門(ちょうようもん。東門)。横浜高速鉄道みなとみらい線・元町中華街駅からの来街者を迎える位置に建つ。東西南北の門ではいちばん最後となる平成15年(2003)に新調。みなとみらい線の開業(平成16・2004年)に間に合わせた。

 

 

 

門柱は青塗り。時間は朝、季節は春に対応する(まさしく青春だ)。東方の守護神は青龍。

 

 

2.朝陽門(東門)から媽祖廟、朱雀門(南門)、関帝廟へ

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