まちへ、森へ。

箱根外輪山の山麓、大雄山最乗寺(道了尊)

2.大雄山最乗寺(道了尊)

 

1.関本(大雄山駅)から足柄街道、天狗の小径を最乗寺へはこちら。

 

 

伊豆箱根バス「大雄山駅発 道了尊行き」の終点、道了尊バス停。標高280m。

 

 

 

バス停周辺には売店が軒を連ねている。

 

 

 

 

 

 

 

最乗寺の塔頭(たっちゅう。寺院内寺院)、大慈院。「安気地蔵堂」と呼ばれている。

 

傍らには「ボランティアガイド在所中は無料ガイドを承りますのでお気軽にどうぞ」との立て看板。

 

 

 

参道は三手に分かれる。
中央は三門(山門)、総受付前の瑠璃門、本堂前の碧落門に通じる石段。
左手は大雄川(上総川・狩川支流。酒匂川水系)沿いの杉並木。橋を渡って進むと坐禅石のそばの相生橋で参道石段に合流する。
右手は駐車場に通じる車道。

 

 

 

石段を進む。

 

 

 

三門が現れる。

 

 

 

立派な楼門(二重門)の三門(さんもん。三解脱門・さんげだつもん。山門)。山号である「大雄山」の扁額(へんがく)を掛ける。

 

この三門、建築年代は平成15年(2003)と新しいが伝統的な禅宗様(ぜんしゅうよう)を踏襲している。

上層の軒下は垂木(たるき)を放射状に配した扇垂木(おうぎだるき)。三手先(みてさき)の組物(くみもの)もびっしりと配している(詰組・つめぐみ)。
下層には火灯窓(かとうまど。花頭窓)を設けており、この形状が末広がりではなく真っ直ぐに(垂直に)なっているのはごく初期の禅宗様建築(円覚寺舎利殿など)に見られる火灯窓の様式。下層の組物もまた密に配されている。

 

 

 

三門から先へ進んでいくと、境内全景図が掲げられている。

 

 

 

曹洞宗・大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市大雄町)は室町時代の前期、応永元年(1394)の開山。開山は了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師。

了庵は多くの門下を輩出、了庵派は関東駿豆甲信越といった東国に広がり、中世曹洞宗の一大流派となる。最乗寺はその中心となった。江戸時代には流派の寺院が四千箇寺にも及ぶ。

 

なお、この全景図にはまだ三門が描かれていない。
ここから本堂に進む前に、坐禅石と明神ヶ岳登山口を巡っていく。

 

 

 

案内板近くの相生橋を渡り、坐禅石へ。

 

 

 

御開山坐禅石。最乗寺を開いた了庵禅師が坐禅を組んだ伝承がある。

 

 

 

案内碑には以下のような伝説が記されている。

「了庵が曽我(小田原市)の閑居に在ったころ一羽の鷲が了庵の袈裟を掴んで飛び去り、当山中の大松の梢に掛けた。了庵はこれを探して山中に入りついに発見。坐禅石で座禅を組むと袈裟は梢から離れて了庵の肩に掛かった。そこで了庵はこの地を仏法興隆の処と決めて大雄山の開山を発願した」

 

 

 

坐禅石の先には石段があるが、こちらには参詣順路の案内はない。この先はトレッキングシューズならともかく、まち歩きの靴で来た参拝者は立ち入らない方が安全。

 

 

 

宝物殿と瑠璃門への参道階段あたりを見下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手すりのない急な石段を登り切ると、箱根外輪山・明神ヶ岳(1169m)登山道の道標。

 

 

 

 

 

 

 

急傾斜の登山道が続いている。「明神ヶ岳から大雄山最乗寺(道了尊)へ下山」
こちらのページへ

 

 

 

最乗寺と示された方に進むと、こちらも登山道の急傾斜が下っている。

 

 

 

 

 

 

 

明神橋が見えてきた。

 

 

 

明神橋を渡ると、碧落門。門をくぐると最乗寺本堂の前に出る。

 

 

 

明神橋のたもとの道標。ここから明神ヶ岳までは片道2時間。

 

 

 

ハイキングコース案内図。

 

 

 

ハイキングというと登山愛好家はともかく一般的にはどうしても軽い響きになってしまうが、明神ヶ岳コースは登山靴(トレッキングシューズ)を履いて登るレベルの登山道。

 

 

 

奉納された和合下駄。こちらは初代の大下駄。さらに大きなものはこの奥にある。

 

 

 

碧落門。

 

 

 

磨き抜かれた板張の回廊が延びている。

 

 

 

 

 

 

 

本堂。最乗寺の本堂は「護国殿」と称する。本尊の釈迦如来、脇侍(わきじ。きょうじ)の文殊・普賢両菩薩を祀る。

 

最乗寺本堂は釈迦三尊を祀る仏殿(ぶつでん)であるとともに住持(じゅうじ。住職)の説法の場である法堂(はっとう)を兼ねている。

 

 

 

案内板。

 

二代の和合下駄、登山道の案内が出ている。

 

 

 

書院(方丈)、総受付。

 

 

 

僧堂。

 

 

 

僧堂には一般に「選仏場」の扁額が掛かることが多い。ここは入山した修行僧(雲水・うんすい)の修行道場。

 

 

 

僧堂の全景。

 

 

 

書院。最乗寺の書院は「真如台」と称する。入母屋(いりもや)屋根に軒唐破風(のき からはふ)を設けた御殿のような造り。

 

 

 

書院は住持と僧侶、檀信徒(だんしんと。檀家さんと信者さん)との公式な会見の場。

 

 

 

「真如台」の扁額。

 

 

 

総受付となる「白雲閣」。

 

 

 

白雲閣と照心閣、書院とを繋ぐ回廊。

 

 

 

瑠璃門を外側から見る。

 

 

 

瑠璃門への石段。

 

 

 

光明亭からの光明池。奥に瑠璃門。

 

 

 

こちらは奥に碧落門。

 

 

 

二つの門の間、屋根の大棟(おおむね)に鴟尾(しび)を乗せている建物は宝物殿。

 

 

 

宝物殿は校倉造(あぜくらづくり)を模している。

 

 

 

本堂前のベニシダレはそろそろ終盤。前庭から奥へと進んでいく。

 

 

 

鐘鼓楼(しょうころう)。修行僧へ時を告げる鳴り物が納められている。

 

 

 

金剛水堂。

 

 

 

大雄山の開山にあたり了庵に助力した道了が井戸を掘ったところ、清冽な泉が湧出したという伝承がある。

 

 

 

開山堂。「金剛寿院」と称する。

 

こちらは最乗寺の開山となった了庵の像を始め、歴代住持の像や位牌を祀る。

 

 

 

開山堂は入母屋千鳥破風(いりもや ちどりはふ)の屋根に軒唐破風を配した、八幡造だか権現造だかの神社のような外観。

 

そして開山堂、金剛水堂、鐘鼓楼の窓のかたちは禅宗様(ぜんしゅうよう)に見られる火灯窓ではなく和様(わよう)に見られる直線的な縦格子の連子窓(れんじまど)。

 

 

 

さらに奥へと進む。奥はひな壇上に整備されている。

 

 

 

鐘楼。

 

 

 

「明治二十七八年之役陣亡軍人之碑」。明治二十七八年之役とは日清戦争(1894〜95)のこと。

 

 

 

松平直基(まつだいら なおもと)の墓。

 

直基は家康の孫(次男である結城秀康の五男)。案内板によると始めは越前、後に出羽に移封。次いで播州姫路に国替えとなるも姫路へ向かう途中の慶安元年(1648)に江戸にて亡くなる。遺骨は直基が深く信仰した最乗寺に埋葬され、寛文十年(1670)に姫路に分骨された。

 

 

 

多宝塔へ。

 

 

 

多宝塔(たほうとう)。今回、最乗寺の建築の中でいちばん見てみたかった建物。

 

最乗寺は大正末期と昭和初期に火災に遭っておりその堂宇の多くは昭和の再建となるが、多宝塔は江戸末期(文久三年・1863)の建築が残っている。

 

 

 

多宝塔は中世以降の寺院に多く見られるようになった形式。下層の屋根には「亀腹(かめばら)」と称する漆喰の饅頭のような盛り上がりが見られる。上層の塔身は円柱状になっているが屋根は宝形屋根(ほうぎょうやね。上から見ると正方形の屋根)。

多宝塔は西日本では比較的多く見られるが、東日本では珍しい。また、そもそも禅宗寺院に塔が現存することも珍しい。
神奈川県下の多宝塔については明治初期の廃仏毀釈が吹き荒れる前、鶴岡八幡宮寺(当時は神仏習合)に多宝塔があったが破却されてしまった。
禅宗寺院の塔については臨済宗大本山の建長寺、おなじく円覚寺には南北朝期に三重塔が建っていたが、それらは失われている。明治末期に能登から移転してきた曹洞宗大本山の總持寺にも塔は建てられていない。

 

 

 

最乗寺多宝塔の特色としては屋根の軒下の垂木(たるき)が放射状の扇垂木(おうぎだるき)となっており、禅宗様の様式が取り入れられている。
下層は裳階(もこし。塔身を囲む壁と庇)であろうが、あたかも二重の層塔のように複雑な組物が施されている。また多宝塔としては塔身が高く頂部の相輪(そうりん)が短い、とされる。

 

 

 

洗心の滝と不動堂。

 

 

 

 

 

 

 

御供橋(ごくうばし)、結界門。

 

御供橋は修行僧が道了尊に御供えをするために通る橋で参拝者は通行できないため、両脇の圓通橋(えんつうばし)を渡る。

 

 

 

結界門。両脇には大天狗(おおてんぐ)、小天狗(こてんぐ。烏天狗・からすてんぐ)の像。

 

この先は道了大薩垂(どうりょう だいさった。垂は正しくは土へんが付く。道了権現)を祀る神域。神仏習合の薫りが感じられるようになる。

 

妙覚道了(みょうがくどうりょう)は法力を操る行者(修験者)。妙覚と号するが名の道了の方で親しまれており一般に「道了さん」と呼ばれている。
道了は大雄山の開山に際し土木事業の面で力を発揮、師の了庵を大いに助けた。了庵亡き後、道了は白狐(びゃっこ)の背に立った烏天狗に姿を変え大雄山の守護神となる。

 

戦国時代には小田原北条氏第三代氏康(うじやす)も参詣した最乗寺。
北条氏を始め戦国武将たちはやはり烏天狗(こちらも白狐に立つ)の姿をした飯縄権現(いづなごんげん)を篤く信仰した。飯縄権現は神仏習合の時代、不動明王の化身とされた。関東近辺における飯縄信仰は高尾山薬王院が著名。北条氏は高尾山を篤く庇護している。

 

氏康が最乗寺を参詣したのも、烏天狗に化身した道了尊の絶大なる法力にあやかりたいという思いがあったのだろうか。

 

 

 

門をくぐった右手に77段の石段。この辺りで標高348m。

 

 

 

石段は御真殿(道了尊)へと続く。

 

 

 

石段途中から見る三面殿(さんめんでん)。箱根明神・矢倉明神・飯沢明神の三明神が一体に刻まれた三面大黒天が祀られている。

 

 

 

御真殿(ごしんでん)。道了の号である妙覚を冠した「妙覚宝殿(みょうがくほうでん)」と称し、一般には「道了尊」「道了権現社」と呼ばれている。

 

 

 

しめ縄の掛かる御真殿には「道了大薩垂(どうりょう だいさった。垂は正しくは土へんに垂)」が祀られている。

 

 

 

御真殿の隣りには、奉納された高下駄。高下駄は天狗の履物。「道了さん」の人気はこうしたところにも感じられる。

 

 

 

この巨大な高下駄は「和合下駄」と呼ばれる。対になって意味を持つところから夫婦和合の象徴ともされた。

 

 

 

金太郎のシンボル、鉞(まさかり)の奉納もある。

 

 

 

いよいよ奥之院へ。冠木門(かぶきもん)の登拝門をくぐって行く。ここは奥之院まで登れない人のための遥拝所(ようはいじょ)でもある。

 

 

 

冠木門を見下ろすあたりで振り返る。

 

 

 

まだまだ先は長い。

 

 

 

どん、とそびえる長大な石段。

 

 

 

大天狗(おおてんぐ)。

 

 

 

小天狗(こてんぐ。烏天狗・からすてんぐ)。

 

 

 

天空への石段。「あぁ〜(恍惚)」。

 

 

 

もう数えるのも面倒になってきた。

 

 

 

奥之院に到着。標高430mは最乗寺境内の最高所。奥之院は「慈雲閣」と称する。

 

 

 

奥之院には「十一面観世音菩薩」が祀られている。

 

十一面観音は「道了大薩垂(正しくは云々)」の本地仏(ほんちぶつ)。神仏習合の時代、神は本地たる仏の化身とされた(本地垂迹説)。ちなみに菩薩とは「菩提薩垂(正しくは‥・いや、失敬)」の略。

 

 

 

帰路は石段を下らずに奥之院の背後から山道を下っていく。

 

 

 

 

 

 

 

奥之院は神社建築のように拝殿、本殿が並ぶ造りとなっているようだ。

 

 

 

鬱蒼とした杉林をひたすら下る。

 

 

 

参道が始まってすぐの仁王門から「天狗の小径(てんぐのこみち)」を経て奥之院周辺まで、途方もなく広大な大雄山の境内には至るところに杉の古木が生い茂っている。これは開山の了庵の意を受けて五世春屋らにより伐採厳禁とされたため。

 

江戸時代初期の元和八年(1622)には江戸城に使う木材が足りないということで目を付けた幕府により、最乗寺の木を伐りたいという老中連書状が出されたという。明治の世になると大半が皇室御料林となったが、昭和5年(1930)には寺に払い下げられた。
参考「神奈川の東海道(下)」

 

 

 

分岐。その先には建物が見える。

 

 

 

分岐は御真殿(道了権現社)からの道を併せる。こちらを通れば御真殿から石段を登らずに奥之院に参拝することができる。

 

 

 

進んだ先の建物は、御開山廟所(ごかいざん びょうしょ)。廟建築は神社建築に等しいので拝殿、本殿と並ぶ造り。

 

 

 

 

 

 

 

案内碑によると廟所は開山の了庵、三世大綱(開山の法嗣、大慈院の開基)、五世春屋(三世の法嗣、報恩院の開基)の墓所となる。昔は多宝塔の地にあったが天明年間(1781〜89)に現在地に移った、とある。

 

 

 

さらに進むと再び建物。

 

 

 

こちらは慧春尼堂(えしゅんにどう)。

 

華綾慧春(かりょうえしゅん)は了庵慧明禅師の妹。類稀なる美貌の持ち主であったというが兄の教えを慕って出家し、尼となった。
案内碑には「のちに火定の三昧に入定した」と刻まれている。「火定(かじょう)」とは僧が自らの身を火に投じて死することによって入定する(死して境地に達する)こと。

 

 

 

慧春尼の石像。不動明王のような火焔の光背(こうはい)は、慧春尼の身を包んだ炎を表すのだろうか。紅白の布は願いを書いて納める叶布(きょうふ)、とある。

 

 

 

駐車場まで下りてきた。

 

 

 

境内の前庭へ。

 

 

 

再び前庭。

 

 

 

新たな境内全景図。こちらには三門も描かれている。

 

 

 

瑠璃門を出て三門へ。奥は碧落門(本殿前)への参道石段。

 

 

 

三門から瑠璃門への参道石段。

 

 

 

三門から下り、三つの道が合わさる地点に架かる開運橋。この橋の先が坐禅石、相生橋となる。

 

 

 

開運橋を渡ってすぐのところには御神木である和合の杉(夫婦杉)がそびえている。

 

 

 

二股に分かれた和合の杉。

 

 

 

開運橋より奥の杉並木。

 

 

 

「かながわの美林50選 大雄山のスギ」の標柱。

 

 

 

午後1時45分ごろ、道了尊バス停に戻ってきた。帰路はバスで大雄山駅へ。

 

 

 

バス停そばの案内板。ここには道了が化身した烏天狗が白狐の背に立つ像が載っている。この像は御真殿脇の巨大な高下駄の隣りにある。

 

 

 

伊豆箱根鉄道大雄山線・大雄山駅。

 

大雄山線の前身である大雄山鉄道は大正14年(1925)に大雄山最乗寺への参詣鉄道として開業した。当時の株主は最乗寺やその信徒、そして大本山總持寺などが名を連ねた。参考「かながわの鉄道(かもめ文庫)」

 

起点となった小田原駅は旧東海道線(現御殿場線)のルートに取って代わるべく国府津駅から熱海駅まで暫定開業した新線の駅として大正9年(1920)に開業したばかり。大雄山線の小田原駅は現在の小田原駅に乗り入れる前の仮駅だった。なお新東海道線は丹那トンネルの完成により昭和9年(1934)に開通した。

 

 

 

駅構内に安置された「金太郎大明神」の木像。

 

 

 

大雄山線は単線・三両編成。

 

 

 

小田原駅と大雄山駅を20分余りで結ぶ大雄山線。

 

この先は小田原から熱海へと乗り継いで熱海伊豆山に源頼朝・北条政子ゆかりの史跡をめぐる。

 

 

JR熱海駅から伊豆山浜・走り湯へ

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